いつか聞いたあの歌を もう一度君に聞かせたかった。
「……君はきっと、忘れてるんだろうな」
そう言って私は、スポンジに水を含ませて石碑の端を擦った。
ここは、街外れの小さな墓地。
並んだ墓石の中で、ひときわ華やかに花を手向けられているのが、彼女の墓だった。
佐倉 澪――享年24歳。
私の、恋人だった人。
それは数年前のこと。
事故だった。突然だった。
別れの挨拶もできなかった。
手を握ることも、抱きしめることも、叶わなかった。
気がつけば、彼女の名前が墓に刻まれていた。
最初は信じられなかった。
でも、何度来ても、ここには澪の名前があって。
風が吹いて、木々が揺れて、季節が流れても、
彼女だけが、時を止めたままだった。
*
「ほら、ここの角、よく水垢つくでしょ。だから、ちゃんと擦らないと」
独り言のように呟いて、自分で笑ってしまう。
「……いや、誰に言ってんのって感じだよね」
澪は、墓の中でどんな顔してるんだろう。
呆れてる? 笑ってる? 黙って頷いてる?
でも、いいんだ。
私にはわかってる。
澪は、たぶん今もここにいて、私の声を聞いてくれてる。
「そうそう、今日ね。道端で聞いたの。あの歌――」
私は少しだけ喉を鳴らして、
ほんの短い鼻歌を、口ずさんだ。
「……ららら、風が揺れて、君の髪がほどけて……」
低くて、掠れていて、とても人に聞かせられるような歌声じゃない。
でも、澪だけは知ってる。
私がこの歌を君に初めて歌った日を。
大学の帰り道だった。
夕方の商店街。
カラオケ帰りのテンションで、ふざけながら歌ってみたら、
澪が真顔で「今の、録音するからもう一回」って言ってきて。
「え? なんでそんなに真面目な顔?」
「だって……好きになったから」
その時のあの声、あの空気、あの笑顔。
全部、心の奥に焼き付いてる。
*
墓石を洗い終えて、私は手を合わせた。
「また、歌ってるって思った?……そうだよ。あの頃みたいにさ。
君が『もう一回』って言ってくれるの、ちょっと期待してた」
木々の隙間から光が差し込んで、
水をかけたばかりの墓石が、きらりと光る。
「本当はね、聞いてほしかったの。
上手くもない、恥ずかしいこの歌を、もう一度――
“今の私”の声で、聞かせたかった」
私は小さく笑って、視線を落とした。
「……この前、ボイスメモに入ってたよ。君が録音してくれてた、あのときの歌」
震える手で再生したその音は、拙くて、青くて、
でも確かに、“私たちの始まり”が詰まっていた。
「君がいなくなってから、やっぱり時間ってずるいね。
みんなは前に進むし、私もそれなりにちゃんと生きてるけど、
ふとした拍子に、君の声が聞きたくなって。……ズルいよ」
風が吹いた。
桜の花びらが一枚だけ、ふわりと舞って、澪の墓前に落ちた。
「でもね、それでも、私はちゃんと今日も生きてるよ。
君のぶんまで生きるなんて、大それたことは言わないけど、
“君に会いたかった”って想いだけは、今日までちゃんと持ってこれた」
私は立ち上がって、手に持っていた花束を優しく供える。
「来年も、またこの季節に来るから。
そしたらまた、あの歌を歌ってあげる。
次はもうちょっと、うまく歌えるようにしとくね」
そう言って私は、くるりと背を向けた。
背中に感じる静けさが、
どこまでも優しく、どこまでも切なかった。
――澪、聞こえてたかな。
ねえ、また聴いてよ。
“君が録音してくれた私の歌”、あの頃のままじゃないから。
今の私の歌は、
君にもう一度会いたくて、何度も歌いなおした声だから。
シリアス系の作品はかけるかも




