第10話
「ワンツースリー、ワンツースリー」
今日はダンスの授業。アナベラさんのおかげでステップが身について、男性の先生を呼んで本格的にダンスの授業が始まった。
女性のアナベラさんと違って体格も歩幅も違うから付いていくことに精一杯で、だけど一日一回程度足を踏むぐらいには成長できるようになったと思う。
初老の先生は優しくて踏まれ慣れているからか怒ることはなく、そのおかげで緊張せずに先生のリードで踊っていると部屋にパンと手を叩く音が響いて私たちは足を止めた。
「今日はここまでしようか」
「そうですね」
アナベラさんに返事をした先生は私に頭を下げるので私は深々と頭を下げる。
肩で息をして汗をかいている私へリリーが駆け寄ってきてタオルと飲み物を渡してくれ、その間に先生はアナベラさんと短く会話をして部屋を出て行った。
未婚の女性は婚約者ではない男性と二人で部屋にいてはいけないのでこうやってアナベラさんに時間を作ってもらっているのだ。
「とてもダンスが上手になったね、シーラ」
「ありがとうございます……これもアナベラさんと先生のおかげです。それでもまだ先生に付いていくのに必死で……」
「最初はそんなものだよ。それをリードするのが男側の仕事だよ。それに世間ではこう言われている。ダンスのリードが上手い男は夜も上手いとね」
「んぐっ!?」
ちょうど水を飲んでいた時のとんでもない発言で水が器官に入り、思い切り咳き込んでいるとリリーが心配そうに背中を摩ってくれた。
なんとか整えた私にアナベラさんは目尻に涙を溜めて楽しそうに笑っていた。
「おや、ちゃんと閨事は理解しているようだね」
「……授業で教えられました」
「ああ、そういえばそういうのも内容に入っていたか」
爆弾発言を落とした彼女は大したことがないという感じで話す。婚約者の相手と結婚したら子を作り家を守っていくのが女の役目。貴族の女はそうやって生きていくしかない。
知識を家庭教師の先生に教え込まれているし、実家にいた時も侍女たちがそういう話をしていたのを耳に入れていた。
だけどずっと家に閉じ込められて将来追い出される自分には関係ない話だと思っていた。まさか自分にこんな未来がくるだなんてあの頃の自分はきっと信じないだろう。
エリック様とそういうことをしていることを想像してしまい、熱を持った頬を手で覚ましているとドアがノックされた。
先生が忘れ物をしたのかなと思っていると、入ってきた人物は全く違う人だった。
「エリック様!」
「こんにちは、シーラ」
突然現れたエリック様に思わず驚いた声が出てしまった。私は慌てて彼の元に駆け寄るといつものように優しく撫でてくれる。
普段は嬉しくてもっと撫でてほしくなるのだけれど、先程変なことを考えてしまったからかその大きな手のひらに熱が上がるのを感じて恥ずかしくなる。
「なんだ、また来たのか。暇なのか?」
「婚約者に会いにきて何が悪い」
「頻度が多いんだ頻度が。それと来るなら先触れを出せ。マナーだろうが」
「届くまでの時間が勿体無い」
頬を熱を冷ましている間に交わされる二人の会話。気心知れているからだろうけれど悪態つきながらの会話にどうしたらいいのか分からずにいると、そんな私に気づいたエリック様が微笑む。
「それにしてもシーラ。今日は特に可愛い格好をしているね」
「そ、そうですか?」
「ああ。すごく似合っているよ」
「あ、ありがとうございます……」
エリック様の真っ直ぐな褒め言葉にも最近慣れてきたかと思ったけれど、この至近距離ではまだ慣れなくてせっかく冷えた頬がまた熱くなる。
エリック様の言うとおり、普段着のドレスではなく舞踏会で着ていくドレスを着ている。本番に失敗しないように今のうちにこの格好に慣れて踊ろうということになったのだ。
アナベラさんが用意してくれたドレスはフリルがふんだんに付いた甘々に可愛いドレスばかりで私には似合っていないような気がして落ち着かない。
褒めてもらえたけれどすぐに着替えてしまおうと彼から離れようとするも、腰にエリック様の手が回って驚いて顔を上げるとエリック様はにこりと微笑んでアナベラさんに顔を向ける。
「ダンスの練習をしていたんだろう? 私が相手になろう」
「へ!?」
「構わないが。なら私は席を外れようか」
「そうしてくれるとありがたいな」
「え、あ、あの、アナベラさん……!」
手を伸ばして彼女を引き止めようとするも、アナベラさんは私を見て意地悪く笑ってリリーとともに手を振って出て行った。部屋には私とエリック様だけが残されて、一気に静かになって緊張感が増す。
「練習していたのはワルツか?」
「は、はい。でも私まだゆっくりとしか踊れなくて……」
「構わないよ。じゃあ始めようか」
「あっ」
エリック様に手を引かれて部屋の中央に移動して、ぴったりと体をくっ付けて先程よりも近い距離に彼の顔がくるものだから心臓が跳ねる。先生と同じように近づいてもどうもないのに。
エリック様の合図で二人だけのゆっくりなダンスが始まる。
「ワンツースリー、ワンツースリー」
耳元で聞こえる低い男の人の声、重なった温かい手、そして背中に回る大きな手。心臓が破裂しそうなぐらい高鳴っていて全然集中できない。絶対この心臓の音エリック様に聞こえてる。
それにあの香水と彼の匂いが混ざった香りに意識がいってしまって、思い切りエリック様の足を踏んでしまって頭が一気に覚醒する。
「も、申し訳ありません!」
「大丈夫。このまま続けて」
「は、はい……」
顔を上げて慌てて謝罪したけれどエリック様に促され、もうこれ以上ヘマできないと頭と切り替えてエリック様の声と足に集中する。
それからは失敗することもなく踊りきることができて胸を撫で下ろす。体からエリック様の温もりが離れて寂しい気持ちになってしまった。
「この短期間でここまで踊れるなんてすごいな」
「そんな……先生の教え方が上手だからです」
「そこで謙遜するところが君なんだろうな」
エリック様は小さく笑ってまた私の頭を撫でた。素直に褒め言葉を受け取れないところが私の悪いところなんだって分かってはいるんだけど、まだ上手くできない。
それにお披露目会まであと一ヶ月を切ったのにこのままじゃ本番までに曲に合わせて踊ることもままならない。エリック様に恥をかかせてしまう。
私は笑われていいけれど彼が悪く言われるのは嫌だ。もっと頑張らないと。もっともっと……。
「こら」
「っ!」
コツンと頭を優しく小突かれて驚いて顔を上げると、エリック様は眉を下げて困った顔をしていた。
「また無茶なことを考えているんじゃないか?」
「!!」
考えていたことを見抜かれたことに驚くと「やっぱり」とエリック様は呆れたように笑った。
なんだか最近よくエリック様に心の中を見透かれてることが多くなった気がする。それだけ彼と一緒にいて心を許しているということなのかもしれない。
「私は君に無茶されるのは好きじゃない。もう何回も言っているはずなんだけれどね」
「……はい。申し訳ありません」
しゅんと肩を落として落ち込む。彼が私の体を心配してくれていることは分かっているのだけど、私は彼に見合う女性になりたいのだ。
でもまた倒れでもしたら今度こそお披露目会は延期になってしまうだろう。どうすればと俯くと大きな手が私の手を優しく握った。
「一人で無茶はしない。私が本番まで付き合うから」
「そんな! エリック様お忙しいのに……」
「でも君は見張ってないとまた無茶するだろう? それに本番も私が相手なのだから今のうちに慣れておけば本番も自然に踊れるんじゃないか?」
「……確かに、そうですね」
やはり慣れないうちは本番踊る人と踊った方が取得は早そうな気はする。素直にエリック様の言葉に甘えてみてもいいのだろうか……。
「……よろしいのですか?」
「勿論。それに他の男が君に触れるというのもあまり良い気持ちではないからな」
「先生ですのに?」
「君が思っているよりも私は嫉妬深いんだ」
エリック様は私の手を持ち上げて手の甲に軽くキスをする。すごくキザな行為なのにエリック様がするとすごく格好良く見えるのだから不思議だ。
「ふふ……ではお願いしてもよろしいでしょうか?」
「ああ。じゃあ早速練習をしようか」
「はい」
エリック様の手を引かれ、私たちは気の済むまで二人きりの部屋の中でダンスの練習に明け暮れた。