賢者が辿り着いた真実 Ⅰ
ダマスキオス・イノフィタ。
アグリニオン国の有力商人で燃える石と呼ばれる石炭と鉄の取引を独占していたアイアーズ・イノフィタの三男で、ふたりの兄が、あの夜父親と共にアスピオ・レシムノン配下の傭兵によって冥界に送られたことによってイノフィタ家を継ぐことになった者である。
だが、経験に基づいた的確は判断とそれを金に換える剛腕の持つ主だった父や、その父から家長になるための厳しい教育を受けていた長男アッタロス、さらに他家の子として生まれていても確実に名を残す大商人になれたと言われるくらいに才に恵まれたと次兄バシレイオスに違い、その地位に就くために必要なものを何ひとつも持たなかったダマスキオスは混乱のどさくさで多くのものを失っていた。
まず、父を含めたアグリニオン国を動かす幹部のほぼすべてが参加した大海賊との戦い。
その戦いに敗れた結果、アグリニオン国という国の存続と残った評議会幹部の首代のひとつとして海賊たちに差し出すことにより部分的ではあるが利権のひとつを失う。
さらに、彼の悲劇が続く。
辣腕商人のひとりとして知られていたアイアーズ・イノフィタだけではなく、跡継ぎアッタロス、兄の有能な補佐役とされたバシレイオスまで失ってガタガタになったイノフィタ家に見切りをつけた幹部クラスの部下が次々と独立したのだ。
しかも、担当していた部門の利権を持ったまま。
その結果、こちらの世界では「燃える石」と呼ばれる石炭と、鉄に関する独占権がダマスキオスの手元から消えた。
そして、残ったのは、燃える石と鉄を手に入れ、それを各商人に分配するというイノフィタ家が直接関わっていた事業だけであった。
もちろん没落原因のひとつについてはダマスキオスもやむを得ないことと納得していた。
だが、もうひとつの原因、つまり、幹部たちの裏切り行為を評議会が認めたことには憤りを禁じ得なかった。
……あの生意気な女が我が家の弱体化を狙って部下たちを唆したに違いない。
ダマスキオスは心の底からそう考えていたのだが、もちろん真実は違う。
アドニアが独立した元イノフィタの商会幹部の評議委員会の下部組織である組合への登録を認めたのは事実。
だが、評議会の採決に従った、ただそれだけのことであり、それについて特別な意図もなければ、自らがそこから利益を得たということもない。
さらにいえば、ダマスキオスの手元に燃える石と鉄の輸入権という有力な金のなる木が残っているのも、彼からそれを奪い取ろうとした複数の有力商人からカラブリタが硬軟取り混ぜて説得し守った結果。
つまり、感謝はされても恨みを持たれることはひとつもない。
そう。
それは筋違いの恨み。
いわゆる逆恨みというものである。
だが、こういうものこそ多くの揉め事の原因となる。
それがあの時の彼女がため息をついた理由となる。
そして、美女たちの諍いにとりあえずケリがついた翌日。
突然の訪問となるその四人をダマスキオスは出迎えることになる。
「ようこそお越しくださいました。ユラ様」
全員の顔を眺め終わったダマスキオスの、特定の人物だけに向けた挨拶は、心の奥に深く刻まれた彼の心情が滲み出たものといえる。
それとともに、彼の器の小ささも露わになる。
……たしかに私は鉄を買いに来た客。ですが……。
……自分よりも年少者とはいえ、自国のトップを無視して私と話をしようとするのは、上客に対する敬意としてもさすがにやりすぎでしょう。
……まあ、この男の場合は、それとはまったく違う理由によるものでしょうが。
その挨拶を受け流しながらユラは心の中でその言葉を口にする男を軽蔑し、フィーネはより露骨に軽蔑の視線を男に向けて、こう呟く。
……才のある者は二十歳未満に限られ、年長者は常に馬鹿で無能で子供に助けてもらうだけの存在というのが前の世界で描かれた異世界を舞台とした物語の決まり事でしたが、これぞその物語に必ず出てくる年長者のゴミ男。
……ですが、まさか実力至上主義と自慢するこの国にもそのゴミがいるとは思いませんでした。
微妙に意味深いその言葉であるが、実をいえば、ダマスキオスの悪意の対象者であるもうひとりの女性も以前皮肉交じりにほぼ同じ意味を持つこのような言葉を独り言として呟いていた。
「異世界とは二十歳になるとどれだけ才がある者でも突如無知無能になる恐ろしい病気が蔓延しているところだと思っていたのですが、同じ異世界ではありますが、私がやってきたここは、馬鹿は最初から馬鹿で、能ある者が年齢を重ねれば、その才に経験が加わり、より成功できる常識的なところだったので安心しました」
この部分だけを聞けば、ふたりがともに異世界を舞台とした物語をそれなりに親しんでいたようにも思える。
だが、実際のところ、別の世界から来た者が知る異世界を舞台とした物語とはほぼすべて同じ設定がされているので、それが正しいとまでは言えないというのが現実である。
さて、それはさておき、暇つぶしを兼ねてアリストについてきたフィーネと違いアドニアがここにやってきたのはあくまで商売のため。
そして、根っからの商売人である彼女にとって自分がダマスキオスにどう思われているかなど商売上の損得に比べれば些細なもの。
ダマスキオスの悪意など簡単に踏み越えると、同行している貴族然とした男を紹介する。
ブリターニャ王国の第一王子だと。
当然ダマスキオスは慌てる。
その様子は滑稽そのもの。
その場にいる全員から嘲笑されるくらいに。
もちろんダマスキオスとしてはこのままでは終われない。
必死に取り繕う。
だが、このような状況に陥った場合、足掻けば足掻くほど深みに嵌るのはどの世界でも共通。
行きつくところまで行かねば止まらない。
まあ、アリストやグワラニー、チェルトーザあたりなら、どうにかリカバリーの手立てを考え出すだろうが、ダマスキオスにはそのような知恵も経験もない。
見かねたユラが助け船を出すまで、出さなくていいボロまで披露することになってしまう。
だが、ここでまたダマスキオスの腐った人間性が露呈する。
……おのれ、アドニア・カラブリタ。
……私に恥を掻かせるために仕組んだな。
そう。
ダマスキオスは己が演じた失態の責任をアドニアに擦り付けたのだ。
……必ず報いをくれてやる。
そう暗い想いを誓う。
結局これが命取りとなってイノフィタ家はすべてを失い没落が確定することになるのだが、それはもう少しだけ先の話となる。
……と、とにかく、ここから本番だ。
一瞬後、厳めしさだけにつくられたものに表情を変えたダマスキオスが口を開く。
「……それで、ブリターニャの第一王子様がここにどのような要件でやってきたのかな」
名誉挽回、汚名返上、その他諸々のため、自分を必要以上に大きく見せようという意図がハッキリと読み取れるその言葉を口にしたダマスキオスだったが、その前段階で散々醜態を晒している以上、その表情と言葉さえ喜劇の一部でしかない。
フィーネはあからさまに嘲笑し、残るふたりの女性もどうにか抑えているものの、その顔には意味深い笑みが出かかっており、その様子はダマスキオスの自尊心をさらに傷つけた。
そのような中で内心はともかく、表面上にはそのようなものを一切見せないアリストはさすがと言ったところだろう。
相手の言葉が終わると、一呼吸分の間を取る。
それから、ゆっくりと話を始める。
「我がブリターニャにも大海賊の皆さまと同条件で鉄を売ってもらいたいと思い、交渉のためにやってきました。ダマスキオス・イノフィタ」
もちろんアリスト自身この要求が通らないことは承知している。
それにもかかわらず、こうして要求を口にしたのは、彼が尋ねたい本当のことを引き出すため。
つまり、そのための餌。
当然アリストは即座に拒否の言葉がやってくると思っていたわけなのだが、なぜかその言葉はいつまで待っても来ない。
実をいえば、ダマスキオスはその言葉に対してどう返答するか思案していたのである。
……本来であれば、何も考えず否というだけの要求だ。
……大海賊に与えた好条件は、こちらの失態を帳消しにしてもらう対価。例の一件に無縁なブリターニャ王国に同等のものを出す理由などないのだから当然のことだ。
……それに、鉄はこの国の多くの商人や工房の存亡がかかっているのだからなおさらだ。
……だが、私から言わせればそれがどうしたということだ。
……父が鉄のすべてを仕切っていたときは末端までが我が家の者。当然見捨てるという選択はない。
……だが、奴らが我が家を裏切り独立した今は違う。
……それこそ、加工品を扱う商人たちも海賊たちもすべて同じ客。
……正当な金を出し、多くの鉄を購入するのであれば、イノフィタ家を裏切った者たちの利益のために他国に鉄を売らないという規則に縛られる必要などない。
……それに……。
……この女はアリスト王子にいい顔したいから鉄の取引ができないことを私に言わせるつもりで王子をこの場所に連れてきたのだ。
……どうにかしてクソ生意気なこの女の意図を挫きたい。
……そうだ。
心の中でアドニアに対しての罵詈雑言並べ立てていたところで、ダマスキオスの胸に自身の儲けと、アドニアと自身を裏切った元部下への復讐を一挙にできる名案が浮かぶ。
いや。
アリストとブリターニャに恩を売れるのだから、一石二鳥どころか一石三鳥のような名案が。
それまでよりもさらに難しい顔をつくったダマスキオスがアリストに視線を向けると口を開く。
「いいでしょう」
そして……。
……いい気味だ。
ダマスキオスは自分の予想外の言葉に表情を変えるアドニアの顔を優越感に浸りながら眺める。
もちろん彼も、諸事情で現在の状況になった大海賊と取引をブリターニャに対して再現する意思などまったくない。
すぐさま、前言撤回、とまではいかないが、軌道修正の言葉を加える。
「もちろん承諾するのは鉄を販売するというところで、ユラ様をはじめとした大海賊の方々と同じ価格というわけにはいきません。ただし、アリスト王子がわざわざ来て来てくださったのだ。武具などの工房を抱える国内の商人たちと同等の価格には致します。もしこれでよろしければ、喜んで契約させていただきます」
「ありがたい」
アリストは笑顔でダマスキオスの言葉に応じる。
だが、実際のところ、裏事情をそれなり知っている彼にとって、これは簡単に応じてよい取引ではなかった。
……さて、この予想外の言葉にどう対応すべきでしょうか。
……こちらから要求している以上、それに応じると言っている相手の言葉を拒否するのは簡単ではありません。もちろん、条件の変更を理由にすることはできます。ですが、その条件だって特別なもの。それを拒否の理由にしてしまっては愚か者の誹りを受けてしまいます。つまり……。
……これは受けなくてはならないものです。
……ですが、そうなると、アグリニオンの他の商人たちとの関係が悪くなるわけで困りました。
……まあ、私よりも悩まなければならないのはこの国を率いる立場にあるこの少女ということになりますが……。
……とりあえず、アドニア嬢の対応の見させていただきますか。
心の中でそう呟いたアリストは視線をアドニアに向け、対応を任せると無言のメッセージを伝えると、少女は頷き、それからその視線をダマスキオスへと向ける。
「アリスト王子には申しわけありませんが、まずは私とダマスキオス・イノフィタが話すのをお許しいただきたい」
もちろん元々そうなることを望み彼女にメッセージを送ったアリストがそれを拒むはずもなく、大きく頷くと、ここから三人の者を立会人としたアドニア・カラブリタとダマスキオス・イノフィタとのバトルが始まる。
むろんアドニアは自国の利益と秩序のために安易な妥協はできない。
一方のダマスキオスの決定の主成分はあくまでカラブリタに対する嫌がらせではあるが、重要なのはブリターニャに鉄を売る時の価格は国内商人と同じであるため、取引によって損が出ないこと。
さらにブリターニャに鉄を渡すことによって損害を被るのはすべてイノフィタ家を裏切った者たちというオマケもつく。
当然引く気などない。
「あなたがどのような見識を持ってアリスト王子の希望を叶える気になったのかはわかりませんが、それによってこの国に住む多くの商人や工房が影響を受けることについての配慮はあったのでしょうか」
「ほう」
「おもしろいことを言う」
「寡聞にして知らなかったが、我が国では商人は自らの商品について誰にどのような値段でどれだけ売るかについて他の商人に損得を考慮しなければならないらしい。だが、そう言っているあなた自身はそのようなことを配慮しながら商売していたのか」
「自らがおこなっていないことを他人に強制しないでいただきたいものだ」
……ほう。
……これは厳しい一手だな。
アリストの内なる言葉どおり、アドニアの無難な初手直後にやってきたダマスキオスの言葉は、アグリニオン商人の姿勢の根幹に関わるだけではなく、ここまで辣腕ぶりを発揮してのし上がってきたアドニアに対する痛烈な皮肉ともなる素晴らしいものだった。
……さあ、これをどう返すか。
心の声とともにアリストの視線が向けられた女性が口を開く。
「自らが扱う商品を誰にどれくらい売るかについては各商人の裁量の範囲であることは間違いありません。私の商売についてもご指摘どおり。それについては反論することはありません。そのうえでもう一度お尋ねします。先ほどのブリターニャへの鉄の販売について再考願えませんか」
「ない。まったく」
アドニアからやってきた要請をダマスキオスはけんもほろろも突っぱねる。
そして、その直後、今考えついたとは思えないくらいの究極の一手を繰り出す。
「父は評議員であったからそれなりの義務はあっただろうが、私は評議員にも選出されない一介の商人だ。自らの商機を捨てて他人を救う義務はない」
そう言ったところで、ダマスキオスはユラを眺める。
「もちろん父が愚かな行為に加担し、その結果半ば決まった大海賊の方々への鉄の販売はこれからも続けることを約束する。これはこの国の商人の義務のひとつだと思っているからだ」
「だが、それ以外の誰に鉄を売るかについてまでは評議会に指図されたくはない。もし、今までどおりの方針を貫きたかったら、あなたでも評議会でもいい。ブリターニャに対する売り値の三倍で鉄を引き取ってくれ。そうすれば、私としても鉄をブリターニャに売る理由がなくなり、あなたも面目が立つ」
「どうかな?」
もちろん明敏なアドニアはダマスキオスの言葉の意味のすべてを把握した。
そして、すぐさま対抗策を思い描く。
だが、それらをすべて表情の裏側に隠して口を開き、こう尋ねる。
「つまり、私なり評議会が鉄を高額で買い取れということですか?」
「まあ、簡単に言えばそうなる」
「なるほど」
「それからこの場で返答が欲しい。商機を逃さぬために」
勝利を確信して勢いに乗るダマスキオスからやってきたこの言葉であるが、一見すると嫌がらせだけで出来上がっているように思えるが、実は多くの点で的を射た言葉である。
まず将来の上客になりそうなブリターニャ王国の有力者に成果を持たせ、手ぶらで帰さなかったという恩が売れる。
さらに、ここで決まってしまえば、取引交渉がすぐに始められる。
また、この場でアドニアから言質を取ることができればブリターニャ王国の王子と大海賊のひとりという証人としては申し分ない人材が手に入るため、後々揉め事になっても優位に立てる。
さらに、評議会が「検討中」などという時間稼ぎの言葉も使えない。
そう。
ダマスキオスにとってここでケリをつけられることはすべての点において最高。
逆にいえば、アドニアにとって最悪の要求となる。
……出来の悪いボンクラなのかと思いましたが、意外にチャンスを逃さない良い目も持っていますし、なによりも交渉術は並み以上。
……商才はともなく。
フィーネは少しだけダマスキオスを見直す。
アリストも。
……商才がないのなら、さっさと廃業し、チェルトーザ氏に弟子入りすればそれなりの地位を得られると助言してやりたいくらいの逸材のようです。
……ですが、やはり持っている肩書は簡単には手放せませんか。
……遺産というのはありがたいものと同時に、迷惑なものでもある証左ですね。これは。
自らの境遇も重ね合わせてそう呟く。
そして、ユラも。
……いつもへりくだっていてばかりだったから見下していたが、なかなかの男だな。
……まあ、この男が固執する職にとって最も重要な商才はないようだが。
三者とも商才なしと判断し、その部分についての憐れみの言葉を口にしたわけなのだが、実をいえば、もうひとりの人物はその才についてダマスキオスは十分に持っていると心のなかで呟いていた。
そのうえで最後にこうつけ加える。
……ですが……。
……引き際というものを心得ていない。
……まあ、それはまだ白と黒の結果しか見たことがなく、灰色の濃さこそが本当の勝負ということを知らない経験の差なのでしょうが。
……まあ、とにかく残念なことです。
そして、そこからアドニアの反撃が始まる。
それはこの言葉から始まる。
「……もう一度お伺いします」
「ブリターニャとの鉄取引はやめていただけませんか」
……殊勝な言葉。だが、そういう言葉はもっと早く言うべきだったな。
それが単なる悪あがきだと踏んだダマスキオスは軽蔑色の笑みを浮かべる。
「断る」
「そうしてもらいたければ……」
「三倍で買い取れ」
「そうだ」
「わかりました」
「では、その買い取り要求についてお答えします」
「通常の価格で買い取るならともかく、三倍の値で買い取るなどあり得ぬ話。当然お断りします。これは私だけではなく評議員会でも同様の結論になるのでここであわせてお伝えしておきます」
「つまり、交渉決裂。イノフィタ商会はブリターニャとの鉄取引を開始するということでよろしいな」
「結構です」
傍観者から見れば、一瞬で終わった決着。
だが、ここからが本当に始まりだった。
ダマスキオスとの話し合いに決着をつけた少女はその視線をアリストへと向ける。
「ということで、私たちにとっては残念な結果になりました。ですが、これも商売。常に自分の思い通りにはならないということです。そして、私のこの国を代表する組織のひとり。負けたからには潔くイノフィタ商会とブリターニャ王国との鉄取引の証人となりましょう。これについては問題ありませんね?ダマスキオス・イノフィタ」
「もちろん」
あまりにも潔く負けを認めたアドニアに拍子抜けしたものの、それでも十分過ぎる勝利の余韻に浸るダマスキオスが簡単に応じると、アリストとユラの顔を眺める。
「まず、ユラ様。あなたたち大海賊の方々がイノフィタ商会と結んでいる鉄取引の条件は?」
「ブリターニャ金貨一枚で五単位の鉄が購入できること。それから、私たちの要求は最優先。速やかに要求された量の鉄を用意する」
そう言ったところで、ユラの顔に微妙な笑みが浮かぶ。
「というか、それはあなたが代表である評議会が私たちに対して示したものでしょう」
「そうでしたね」
……なるほど。
……自らが提示した条件をわざわざ問うたのは私に聞かせるためですね。
……行き届いた配慮です。カラブリタ嬢。
アリストは薄い笑みの裏側でそう呟く。
ちなみに、鉄一単位とは、縦横高さがそれぞれ五十ジェバ、別の世界でいう五十センチの立方体のことであり、ついでに言っておけば、ブリターニャ金貨一枚で五単位が手に入るという大海賊に対する売り値ではイノフィタ商会には儲けは生れない。
そして、アグリニオン加工業者から市場に流れ出す製品の価格から推測した場合、その時点では鉄一単位あたりブリターニャ金貨一枚から二枚弱の価値になっているものと思われる。
それでも各国が十分にペイするとして、それらを購入していることからわかるとおり、自国産の鉄はさらに高い。
「それで、ブリターニャとはどのような契約を結ぶつもりなのですか?」
「国内の商人たちと同じブリターニャ金貨一枚で二単位、いや、このようにアリスト王子とお近づきになれたのだ。ブリターニャ金貨一枚で四単位の鉄が購入できること。それから、優先権は大海賊に続くものということにしましょうか」
アドニアの問いに答えたダマスキオスは、このような実に気前よい条件を提示した。
もちろんそれは表面上に見える浮ついた考えに基づいたものではない。
この価格でブリターニャに鉄を流した場合、近い将来、鉄の加工製品はアグリニオンではなくブリターニャから流れるようになる。
それによって、アグリニオンの鉄製品加工業が壊滅を意味し、その背後にいる鉄関連商人の没落も避けられない。
一方、ブリターニャの鉄加工業者は反映するわけだが、それは同時にその前提となる鉄を供給するイノフィタ商会への依存度が増し、イノフィタ商会は全盛期復活どころか更なる反映が見込めるというわけである。
……裏切り者への報復だけではなく、自身の利益も考えている。
……ですが、理由がどのようなものであっても、ブリターニャにとってこれは好条件であることには違いありません。
……ここだけを聞けば、完璧です。ダマスキオス・イノフィタ。
ダマスキオスからやってきた条件をすべて聞き終えたところで、アドニアは表情を変えぬまま大きく頷き、それからアリストを見る。
「アリスト王子。この条件は非常に良いものですので是非お受けください。ですが、途中でイノフィタ商会が条件を変えられぬよう一年間の購入可能量と契約期間は前もって決めておいたほうがいいでしょう。もちろん念のためですが」
カラブリタが提案したこれは商品の受け手側が不利益ならぬようするためのものであるのだが、それとともに天秤が購入者側に傾いているときにしか交わされないもの。
そう。
実を言えば、この契約はダマスキオス自身の利益を大幅に減らすもの。
つまり……。
この好条件に示した契約は裏切り者を誅するまで。
その後は適当な理由をつけて値上げする。
それがダマスキオスの隠された算段だった。
だが、この言葉によってその計画は潰される。
心の中で盛大に舌打ちをしたダマスキオスの苦虫を噛み潰したような顔を横目にしながらカラブリタは言葉を続ける。
「では、年間十万単位を上限とし十年間の契約。追加で購入する場合も、ブリターニャ金貨一枚で二単位の鉄で購入でき、最大五万単位まで買い取りできるという付帯事項をつけるということでいかがでしょうか。優先権は大海賊の方々の次、序列第二位ということで」
「どうでしょうか?おふたり」
むろんこんな提案受けたくはない。
だが、すでに引き返せないところまで進んでしまったダマスキオスは受け入れる以外の選択は残されていない。
「……よかろう」
「私もそれで結構です。まあ、国王の許しは得ていませんが、これだけの条件なら文句は言いますまい」
まずは渋々という音を立ててダマスキオスが承諾し、それからアリストからも承諾の言葉が届くと、カラブリタは笑顔を見せる。
「それはよかった」
「では、この契約の立ち合い人は私とユラ様がおこなうこととし、契約の不履行が起こった場合は、イノフィタ商会の場合は私が、ブリターニャ王国の場合はユラ様が取り立てをおこなうということにしましょう」
「では、契約書を……」
今回は立会人の分もということで、四枚の契約書にそれぞれが署名をしたところで、不自然なくらいに上機嫌なカラブリタが、「これで契約終了です。明日からでもブリターニャは安い鉄を購入できますのでぜひイノフィタ商会をご活用ください」と宣言すると、契約を手にした残り三人も大きく頷く。
そして……。
……さて、それではいきますか。
アグリニオン国のトップに君臨する少女は心の中でそう呟くと、完勝の喜びに顔を崩す男に冷たい視線を向ける。
「さて、ダマスキオス・イノフィタ」
「契約が結ばれたところで先ほどの続きを始めましょうか」
「なんだと?」
もちろんダマスキオスはとうぜんやってきたアドニアの言葉が理解できない。
「続きとは何だ?」
やってきた問いにまずは冷たい視線で応じ、続いて口を開く。
「もちろん再三の警告を無視してあなたがおこなったブリターニャとの鉄取引についてのアグリニオン国評議会の対応についてです」
「だから、それは三倍の価格で購入すれば取引しないと言っただろう。それを拒否したのはおまえの方で……」
「何がおかしい」
ダマスキオスはそこで自らの言葉を止め、不気味な笑みを浮かべた少女にそう問う。
それに対して、深みを増した黒い笑みを隠すことなく少女が口を開く。
「わかりませんか?」
「まあ、わかるはずがないでしょうね」
そこまで言ったところで、少女の顔から笑みが消える。
そして、本筋となる言葉を口にする。
「明日評議会を開催します」
「そして、そこで提案されるのはマジャーラ王国産の鉄と燃える石の買い取り制限を解除」
「つまり、しばらくすればマジャーラの王宮には鉄を求めて大金を握りしめた我が国の商人が大挙して押し寄せることになるでしょう。そうなれば、マジャーラの王の心は高い買値をつけた方に靡くことになるでしょう」
「当然鉄を手に入れなければならないあなたもその戦いに参加せざるを得ない。ですが、どれほど買値が高くなろうが、あなたには大きな契約がある。その売り値は上げられない」
「大海賊の方々との契約でさえ大幅な損が考えられるのに、先ほどの巨大契約によってあなたはさらに損を背負い込んだ。そうなれば、他の顧客の契約で帳尻を合わせなければならないが、買い手も馬鹿ではない。わざわざ高い鉄など買うはずがない」
「そうなれば……」
イノフィタ商会は崩壊。
……お見事。
歯ぎしりしながらこれからやってくる暗い未来図を想像し震えるダマスキオスを憐れみながらアリストは呟く。
それはその場に立ち会ったふたりの女性も口にしたものと同じだった。
そして、その評価をあらたにする。
……なるほど。
……この年齢で商人国家の頂点に君臨するだけのことはある。




