不運続きの来訪者
フランベーニュ人たちに「これなら勝てる」と思われてしまった、やってきた魔族軍だが、その軍を率いるアドリアン・ポリティラはどうであったかといえば、実はこちらも勝つ気満々だった。
その二十日前。
マンジューク銀山を抱える山岳地帯に集結した魔族軍の陣容。
それはこうなる。
総司令官に任じられたポリティラは五千の兵を直率する。
それに続くのは、クレメンテ・アルタミア、エンネスト・ケイマーダ、ベルネディーノ・ウルアラー、アディマール・ゴイアス、アドン・オリンダ、ブニファシオ・マテイロス、フェリペ・セリテナーリオ、ドゥアルテ・フリーア、フェルナン・シャプラーの九将。
彼らはそれぞれ八千の兵を率いるように兵を割り当てられ再編されていた。
さらに、アラカージュ・パウナミンを頂点に、カペリーニャ・マカウ、クイアベ・ポンフィンに引きられた三集団の魔術師二千三百。
総勢は七万九千三百。
守勢に転じ、後退を繰り返してからと期間を限定すれば、最大規模の攻勢である。
だが、それにもかかわらずポリティラ自身は少しだけ不満を持っていた。
この十日後に同じ場所に姿を現わすことになっているコンシリア配下の軍の規模は十万を超えると見られていたからだ。
……少なくても、奴らと同規模くらいになりたかった。
だが、それもこれも以前ここの司令官を任じられていた彼自身を含む渓谷地帯駐屯の軍が兵をすりつぶしていたからだ。
そうでなければ、あと数万など軽いものだったことだろう。
もちろんそのような考えはポリティラの頭には爪の先ほどもないのだが。
……とにかく、我々が先行するのだから、奴らよりも先にミュランジ城を落とさねばならない。
……それによって、我々が無能の見本のように白い目で見る輩を見返すことができる。
そう。
実は、コンシリアの割り込み発覚前から、この戦いは幹部たちの権力争いだけに留まらない状況になっていた。
後退を続けるだけで実りがない渓谷内の状況を僅かの兵で一変させたグワラニーの快挙。
それに続く「フランベーニュの英雄」アポロン・ボナールを含む四十万に敵兵を討ち取る大勝利。
その戦果は戦意高揚にもってこいの情報であり、当然のようにそれは市井に盛大に流される。
もちろん希望どおり国中が熱狂し、グワラニーは多くの賞賛を集め、「救世主」という称号を民たちから賜ることになる。
だが、それと同時に比較される立場となる者にとって状況は針の筵となる。
多くの場所でこのような声が聞かれていたのだ。
「無能な将軍ではなくグワラニーに最初から任せておけばあれだけの兵を失うことはなかったのではないか」
「でかい口を叩くだけの無能の集まり」
「無駄飯食らい」
「ゴミ」
「五級剣士から出直せ」
つまり、今度の攻勢は派閥の長のためだけではなく、自分たち自身の名誉、それから将来のためでもある。
というより、むしろその色合いのほうが圧倒的に濃いと言ってもいいだろう。
汚名の払拭。
そのためには完璧な勝利が必要なのだ。
ちなみに、ポリティラたちの目指す「完璧な勝利」とは、同じ言葉であるものの、グワラニーが定義する「完全な勝利」とはその内容は大きく異なる。
グワラニーが目指すものが、「目的の完遂を損害ゼロでおこなうこと」であるのに対し、ポリティラたちのそれは、ただ一点。
独力でのミュランジ城の攻略。
それだけである。
これにもう少し説明を加えれば、渓谷地帯やクペル城を抑えるグワラニーの手助けを一切借りずにミュランジ城を攻略するということである。
たとえどのような小さなものであってもグワラニーの手助けを受けるようなことがあれば、功の半分を国民的ヒーローになったグワラニーに持っていかれる可能性がある。
彼らのグワラニーに対して、嫉妬と同じくらい、そのような不安があったのだ。
「ポリティラ殿。ミュランジ城を守るフランベーニュ軍についてですが……」
「黙れ、グワラニー。貴様ごときからの情報など不要だ」
「道路は舗装されていますので、馬車を使えば……」
「我々は軟弱な貴様とは違う。移動は自らの足でおこなう。もちろん貴様がつくった道など利用しない」
「では、我々がミュランジ城攻略に準備したものはすべて不要になりましたので、是非お使いください。格安でお譲りいたします」
「貴様に銅貨一枚たりとも払うものか」
「そもそも貴様ごときの助けは借りないと言っているだろう」
「貴様は遠くから我々の勇姿を黙って見ていろ」
これは完全なる拒否。
ただし、この会話には前段がある。
その申し出をおこなう前。
グワラニーはこのような言葉を口にしていた。
「コンシリア副司令官が派遣するグボコリューバ攻略軍からは情報提供を含むすべての援助を断られてしまいました。私の助力など不要だと」
もちろん未来はともかく、過去はおろか、現在でもそのような事実はない。
つまり、これは両者のライバル関係を利用したグワラニーの簡単なトリック。
だが、それにポリティラは完全に引っ掛かった。
そして、さらに言えば、先ほどのグワラニーの前口上には続きがある。
「実はこちらにやってきたのはグボコリューバ攻略軍からの強い推薦があったからなのです」
「推薦?なんだ。それは」
不思議そうな表情で、その表情そのものの言葉を口にしたポリティラに対して、グワラニーは真面目腐った顔でこう答えた。
「こちらはコンシリア副司令官直属の精鋭中の精鋭だ。当然そのようなものは不要だ。だが、ミュランジ城を攻めるガスリンの子分どもは渓谷内で多くの兵を失うだけで何も得るところがなかった無知無能で役立たずの輩が主力だから、おまえごときの助力でも涙を流して喜ぶと。私はその言葉を信じてここにやってきたわけで……」
その前口上に怒り狂ったポリティラに当然のように申し出はすべて断られ、渋い顔で引き下がるものの、グワラニーは内心小躍りする。
……軽いな。
……まあ、とりあえず、これでひとつ終了。
……これならもうひとつもいけそうだな。
……同じ口上でも。
……それと……。
……まだ気づいていないようだが、彼らにはこれからたっぷりと出費をしてもらう。
……彼らはどのような手段で川を渡るのだ?
……それにどんな格好で。
……そして、どんな武器を持って
……楽しみだ。
そう。
少なくても魔族軍に関してはそのすべてがグワラニーの掌で起こった出来事なのだが、微塵もそれに気づかない司令官ポリティラはすでに勝った気でいた。
だから、その作戦会議も本来であれば前祝いを兼ねていた。
だが、そこはグワラニーがつくり上げたキャンプ地にある豪華な会議室ではなく、これだけのメンツが会議をおこなうには貧相と言わざるを得ないアルタミアの私室。
元はその部屋の所有者だったポリティラはあまり座り心地の良くない椅子に腰かけ自分と同じ渋い表情をしたそこにいる全員の顔を眺める。
……これでは前祝いというよりも前線の酒宴だな。
だが、それは言っても詮亡きこと。
そこがもっとも広い部屋だったのだから。
不機嫌な呟きを心の中に留め置いたポリティラが口にしたのは、もちろんこれからおこなうミュランジ城攻略についての意見聴取だった。
「ミュランジ城攻略について意見が聞こう」
「では、まず私から」
そう言って立ち上がったのは、その部屋の主アルタミアだった。
「ボルタ川の渡河。これが作戦の成否が決まると思われる。当然相当な妨害があると思われるわけですがその点は考えているのでしょうか?」
「その妨害とは転移避けの話か?」
自らの確認の言葉にアルタミアは頷くと、ポリティラはその答えとなるものを口にする。
「もちろんフランベーニュの魔術師を完全に排除できればそれに越したことはないが、今までのことを考えればそう簡単にはいかないだろう。結局転移ではなく、自力での渡河をおこなうことになる。それが私の予想だ」
「つまり、船による渡河を作戦の根幹にすると?」
「そういうことだ」
「その点については敵だって考えているでしょう。障害物の可能性についての見解は?」
「ないとは言わない。アポロン・ボナールが戦死してそれなりに経つ。クペル城を落とした我が軍のミュランジ侵攻は予想できる状況なのだから、それなりのことはやっていてもおかしくはない」
「ただし、ミュランジ城周辺に完璧な障害物を設置するのには時間的足りないことも事実。問題ない」
「つまり、敵が待ち構えるところに船で乗り付けるということでしょうか?」
「不満か」
「いいえ。ただ……」
「それだけの船を本当に用意できるのかと……」
アルタミアが指摘した懸念にポリティラは呻き、他の者たちも顔を歪めながら天を仰ぐ。
そう。
それこそがこの策の難題だった。
こちらの兵士の数は約七万八千。
つまり、五人乗りなら一万五千六百艘、十人乗りでも七千八百艘の船が必要となる。
ところが、持ち込んでいるのはその十分の一どころか百分の一もない。
渡河に必要な川船が足りない。
それも圧倒的に。
「それはガスリン様にお願いしている。だが……」
「何か問題でも……」
歯切れの悪いポリティラにアルタミアが問う。
そして、返ってきたのは、誰もが薄々予感していたものだった。
「グボコリューバ攻略軍も渡河用の船を集めている。そのために思うようにならないのだ」
まあ、これは当然といえば、当然である。
なにしろガスリンがミュランジ城攻略を配下におこなわせようとしたのだってほんの少し前のことである。
これはあまり自慢できることではないのだが、これまで魔族側は守勢一方だったため当然攻勢に出る、まして大軍による渡河作戦を決行するなど予想もしていなかったことなのだからそのようなストックを軍が持ち合わせているはずがない。
そうなれば新規調達となる。
もっとも手っ取り早いのは各地で使用されている川船をかき集める方法なのだが、もともと余剰などあるはずがない各地の渡し船を召し上げるわけにもいかず、すぐにその調達計画は頓挫する。
そういうわけで、大部分は新規につくるしかないことにわけなのだが、威勢のよい掛け声が上がるものの、そもそもそれだけの大量受注を受けるだけの川船をつくる工房など国中探しても存在しないため作業は遅々として進まない。
そこに同様の作戦を決行するライバルが現れたのだ。
当然僅かしかない新造船を取り合う形となる。
そうなれば……。
そこまで思考が辿り着いたところで全員がうめき声を上げる。
そこに妙案を口にする者が現れる。
「噂によると……」
「グワラニーは五百艘ほど船を抱えているそうではないですか。奴から譲り受ければ我々の船は一気に増えるのでは?」
「それはダメだ」
アドン・オリンダからの提案は瞬殺という言葉がふさわしいくらいに、ポリティラに拒絶された。
もちろんその理由など聞くまでもない。
あの話は聞かされているし、そもそも自分たちがこのような苦境に陥っているのはグワラニーのおかげなのだから、諸悪の根源に借りをつくるなどもってのほかということなのである。
だが、それと同時に、グワラニーの所有する船を譲られるのを拒否したまではいいが、それだけでは作戦開始が遅れる一方になるのも事実。
……さて、どうしたものか。
一同が再び渋い顔で黙りこくるなか、更なる妙案を提示したのはフェリペ・セリテナーリオだった。
「これから増産するといってもすぐには難しい。そういうことであれば、外から買い入れればいいでしょう」
買い入れる。
つまり、輸入ということになる。
問題はその相手だ。
……小麦の件もあるから関係がゼロではない。さらに海運国家と豪語しているのだ。当然造船能力は我が国よりあるだろう。だが、さすがにここでノルディアに頼るというわけにはいかない。なにしろ、そうなればグワラニーに仲介を頼まなければならないのだから。
……となれば、残りは……。
「海賊どもからということか」
ポリティラの声にセリテナーリオは頷いた。
「そういうことです」
「実は、内々に話をつけてあります」
海賊たちから渡河作戦に使う川船を手に入れる。
セリテナーリオからのこの提案は有効な手立てに思えた。
ただし、問題はある。
「海を航行する海賊どもが使う船は川で使用できるのか?」
たしかに、川船と海賊たちが乗る船とは大きさからして違う。
エンネスト・ケイマーダからのこの問いは一見するともっとも思えるものだった。
だが、提案したセリテナーリオの自信は微塵も揺るがない。
「奴らだって小舟は使う。それにそれがダメでも奴らは例の守銭奴国家と取引がある。必ず手に入れてくるだろう。現にグワラニーが手にした五百隻も海賊どもから買い入れたものなのだ。必ずできる」
そう。
セリテナーリオからの提案。
その出どころはグワラニーの五百隻の出どころを探った結果。
それを披露しながら、セリテナーリオは呟く。
……悪いな。アライランジア。情報を引き出させてもらった。
実を言えば、セリテナーリオは、現在グワラニー軍に属しているジルベルト・アライランジア将軍と知り合いだった。
他の将軍たちに先立ちここにやってきていたセリテナーリオはアライランジアを訪ね、酒を酌み交わしながら、多くのことを語り合った。
だが、その目的は情報収集。
それによって、グワラニーが渡河用の小舟を五百艘抱えていること。
その入手先が大海賊ワイバーンであったことを聞き出していたのだ。
そして、ひとつだけをオリンダを耳元で囁いていたのだ。
自らの功に繋がる先兵となるように。
……騙したようになったが、それは主を変えたおまえに非がある。
まずはアライランジアに関するものについてそう弁明し、続いて、オリンダに対してはこう言った。
……馬鹿なおまえに輝きを与えた私に感謝せよ。
そう言って、セリテナーリオは自分の行為を正当化した。
だが、後者はともかく、前者についてはその大部分はセリテナーリオが勝手に思っているだけだったといえる。
なぜなら、アライランジアはセリテナーリオの目的を承知でその話をしていたのだから。
つまり、アライランジアはその情報を流す気満々だった。
もちろんそこには今の主の指示がある。
その男はアライランジアにこう言っていた。
「セリテナーリオという男の為人はそれなりに知っている。アライランジア将軍がセリテナーリオと知り合いということなら、あの男は必ず会いに来る。情報収集のために」
「その場合には教えてやるといい。我々が手に入れた川船の入手先を。といっても、経由地は除くように。これは必ず」
そう。
グワラニーは川船を手に入れるに際し、余計な邪魔が入らないようノルディアを経由させてクアムートから持ち込んでいたのだが、一見困難に思えるそれは、商品を右から左に動かすだけでそれなりの金を手に入れることができるノルディアの商人たちの積極的な協力により実現していた。
そのうえで、経由地を省いた情報をセリテナーリオに流し、ミュランジ城攻略部隊がワイバーンとの直接取引に向かうよう誘引した。
さらにコンシリア側近にも同様の情報を流してワイバーンから川船を仕入れるように仕向ける。
手に入れた五百隻の代金を無料になる条件を完遂するために。
その結果、ワイバーンはミュランジ城攻略部隊、グボコリューバ攻略部隊双方から二万隻近くの川船の受注を受ける。
だが、修理がおこなえる施設しか持たぬワイバーンがすべてを請け負えるはずもなく、その大部分は大造船所を所有する同じく大海賊のユラに発注するのだが、それでも元受けとなる彼には多くの利が転がり込むことになる。
もちろん五百隻もの川船を無償提供されたグワラニーも利を得る側であり、本来彼が支払うべき代金も上乗せされたふたつの陣営が損をする側というなるわけなのだが、実をいえば彼らも喉から手が出るくらいに欲していた川船を作戦開始前に必要な数を手に入れられたわけなのだから、必ずしも損をした側ともいえない。
つまり、今回に限り、全員がウインウインの関係だったといえるかもしれない。
これで大きな山を越えたのは間違いない。
だが、問題がすべて解決したというわけでなかった。
「……一応船は手配できるということなのだが、金はどれくらいかかるのだろうな?」
「ワイバーンは、至急ということもあり、十人乗りの川船なら一艘あたり金貨一枚で請け負うと言ってきていますので、手数料等々で金貨八千枚が必要とのこと」
「高いな」
「我が国の船大工ならその十分の一でできるだろう」
「……さすがに十分の一では無理だろうが、奴らの言い値が高いのは事実。だが、今はそれを言っても始まらない。それに、それだけの数の川船を短期間に揃えられるのはワイバーンだけなのだから仕方あるまい」
「まあ、ミュランジ城を落とせばそれなりの褒美が手に入るわけだし」
「いや。今回は金の問題ではない。我々の名誉がかかっている」
「そうだな」
この世界はほんの一部を除けばすべてが現金払い。
そして、このような大きな商談では、前払いか、そうでないかは両者の力関係によるのだが、当事者に大海賊が関わっている場合は、支払い側、受け取り側に関わらず前払いが原則。
しかも、全額。
当然この場合も金貨八千枚をペルハイに駐在するワイバーンの部下に渡す必要がある。
「……ガスリン様から軍資金として頂いた金貨二万五千枚があるが、ここから五千枚を購入代金に充て、残りは我ら十人がそれぞれは三百枚ずつ用立てることにしよう」
「承知した」
こうして、ポリティラたち十人の指揮官たちはそれぞれ三百枚の金貨を用意することになった。
だが、彼らがそれぞれ支払うこの金貨三百枚は、彼らクラスでも簡単に出せるものではない。
金の含有用から割り出せば、別の世界の単位で三千万円ほど。
この世界の物価等々考えれば、それ以上の支出と考えた方がいいだから。
そして、もうひとつ。
なぜ司令官が作戦に必要な物資の購入代金を支払うのかということなのだが、これは魔族の国独特のシステムで、戦いに際して国から司令官に渡される軍資金は現物支給となる食料と武器庫にある武器のみ。
もちろん給料と手当は別に支払われるが、それ以外は指揮官たちの持ち出しとなる。
まあ、その分成功報酬は莫大なものになるのはグワラニーを見ればわかるわけなのだが、当然ながら失敗すれば大損となるわけで、成果主義の見本のようなものであることはたしかである。
そして、そこに登場するのが派閥のボス。
魔族の軍において派閥の長は子飼いが出陣する場合、今回のガスリンのように司令官に対して相応の軍資金を提供することになり、軍資金を預けられた軍司令官はここから特別な武器や恩賞を支払うことになるのである。
……いよいよ負けられない戦いになったな。
ポリティラが心の中で呟いたその言葉は、多額の先行投資をすることになったその場にいる全員の心境を代弁するものであった。
「さて、いよいよ本題だ」
「船で渡河をするわけだが、それについて各々の意見を聞きたい」
ポリティラのこの言葉はふたつの決めねばならぬ項目について指摘したものである。
戦法。
陣立て。
戦法。
この場合は渡河の方法となるわけなのだが、この方法は大きく分けて、単純に渡河を始めるのか、陽動作戦を織り交ぜながらおこなうのかという二案があり、当然それぞれに細かな策が加わっていく。
そして、それは陣立ても同じ。
たとえば、全軍で渡河をするにしても、その陣立ては多くのことに影響する。
まず、全軍が最良の場所から渡河を開始した場合、当然全員が一斉に渡河できるわけではなく、秩序を維持するためには順番が必要となる。
だが、その順番によって戦果と損害は大きく変わる。
もちろん先陣となる者は損害も大きいが、その分戦功も大きくなり、最後に渡河する者はその真逆となる。
では、順番による影響を排するため、一斉に渡河を開始すればよいのではないかとなるわけなのだが、それも大きな調整が必要となる。
ミュランジ城を近くから渡河を始める場合、当然抵抗は大きく損害も多くなる。
ただし、城に近いのだから、攻城戦に取り掛かれるのはもっとも早くなる。
逆に城から遠い場所であれば、抵抗は少なく容易に渡河できるが、城から遠いため、攻城戦に加わるのはもっとも遅くなる。
当然手柄を手にし易い場所に陣を置くのは難しくなる。
さらに、陽動作戦をおこなうとなれば、その陣立ての影響はさらに複雑になる。
たとえば、一隊が敵の背後に姿を現わし、注意を引きつけ、その隙に他の部隊が渡河を敢行するという策をおこなうとする。
当然囮となる一隊は全滅する可能性が高い。
別の世界ではこの隊を第一功と祀り上げられ、中には進んでこの役を引き受ける者もいる。
もちろん魔族の軍でも第一功となるのは同じであるが、他人のために犠牲になるいわゆる自己犠牲の精神など皆無であるこの世界の住人である魔族の将の中にこれを進んで引き受ける者はいない。
相当額の前渡しの報奨金の支払いが必要となるが、確実に死ぬとわかるような役回りとなれば、その隊のモチベーションは下がり、そこから始まる失敗の連鎖で最終的には作戦は失敗する。
これがこの世界における囮作戦を実行した多くの結果となる。
それぞれが思い描く渡河の方法が固まったところで、ポリティラが口を開く。
「まずは我らが採るべき策は?」
「当然横一列に並び一斉渡河することだ」
ポリティラの問いに即座に反応したのはエンネスト・ケイマーダだった。
自称猛将であるが、グワラニーに言わせれば「突撃馬鹿」となるこの男から一斉渡河の策が上がってくるのは誰もが予想していたことだった。
……まあ、当然対案として、陽動作戦を推薦する者が現れるだろう。
だが、ポリティラのその予想は外れる。
つまり、一斉渡河という、策としては極めて単純なものを全員が支持したのだ。
まあ、この理由は少しだけ思慮を広げればすぐにわかることである。
せっかく大金を叩いて川船を手に入れたのだ。
それを利用しない手はない。
さらに、敵に川全体に障害物を設置する時間がないという事前事情もある。
……そうなると、問題は渡河を開始する場所だな。
多くの者が同じ言葉を心の中で呟いた。
一斉渡河をおこなう際の陣立て。
実はこれを決めるのはなかなか難しい。
たとえ多くの権限を持つ司令官ポリティラであっても。
なぜなら、この陣立てひとつでこの戦いにおける損害と手柄が決まるのだから。
陣立て。
この場合でいえば、どの位置から渡河をおこなうかということである。
本来、それは将軍とその配下の特性を生かして総司令官が決める。
だが、各将軍の能力や特性が際立って違うというわけではない今回の場合、これは非常に難しい。
しかも、今回はその配置位置での当たりはずれが大きい。
戦う以上、損害自体は厭わぬ。
だが、それは手柄というコインの表裏にあたるものが存在するということが条件である。
つまり、損害が大きければ手柄も大きくなればならない。
そして、今回でいえば、その一等地と言える場所、というか本来そうなるべき場所は、城の間近に出来る岸となる。
だが、今回はその場所には唯一障害物が設置されている可能性が高い。
つまり、損害は一番だが、手柄は最低となる可能性が高いのだ。
そんな場所をたいした理由もなく押し付けられれば、その者がどう思うかは火をみるよりもあきらかだろう。
……誰かはそこを引き受けなければならないわけなのだが、それをどうやって決めるか?
それに対して、ポリティラが示したのはこれ。
渡河の開始場所はクジで決める。
一見すると、無責任に思えるこの策だったが、意外にも全員がその提案を受け入れた。
もちろん相応の理由はある。
と言っても、そうたいしたものではない。
実を言えば、魔族軍内では陣立てを決める際に揉めることが多く、その際にこのクジで決める方法はその問題解決のために頻繁に用いられていた。
つまり、それを言いだした者にとっても、それに提示された者にとっても、それは取り立てて驚くことではなかったのである。
ただし、そこでもうひとつの問題が起こる。
クジで陣立てを決めるのはいいが、単純に順番を決め、一番くじから好きな陣を選んでいく方法と、陣そのものをくじで引いていく方法、そのどちらにすべきか?
実を言えば、これもほぼ全会一致で後者だった。
その理由は口には出しにくいものの、彼らが置かれた状況を考えれば簡単に理解できるものではある。
一番クジを引いた場合にどこを選ぶか?
今回の当たりは、中間地点。
最も遠い場所がそれに次ぐ有料物件となり、一番のハズレは城の正面。
素人であれば、一番クジを引けば、当然当たりの場所を選ぶのだが、日頃勇ましいことを口にしている彼らに限り、そうはいかないという事情があったのだ。
つまり、敵正面を避けてしまっては腰抜けと思われる。
だが、そうかと言って、わざわざハズレを引く愚は避けたい。
そういうようなつまらぬ裏事情が、クジによって強制的に陣を割り当てる方法に決まった理由となる。
そして……。
名誉ある城正面の陣を引いたのはアディマール・ゴイアス。
不機嫌さを懸命に隠す彼の左、すなわち川下側はクレメンテ・アルタミア、アドン・オリンダ、ブニファシオ・マテイロス、ドゥアルテ・フリーアと並ぶ。
そして、ゴイアスの右にはベルネディーノ・ウルアラー、フェリペ・セリテナーリオ、エンネスト・ケイマーダ、フェルナン・シャプラーの順で陣を敷くことが決まる。
そして、総司令官アドリアン・ポリティラは、ゴイアスの後方に魔術師団とともに控える。
「さて、策も陣立ても決まった」
ポリティラの言葉に全員が頷いた。
「では、渡河をいつおこなうべきか?」
ポリティラの問いは簡素なものでぼんやりと聞いていては曖昧でわかりにくい。
だが、その場にいる者にとってはそれで十分だった。
その理由。
時期でいえば、ライバルとの関係上、ライバルとの関係上、準備でき次第作戦を開始しなければいけないのだから、天候等条件を考慮してよき日を選ぶなどとは言っていられない。
つまり、それを尋ねるのは愚問中の愚問。
そうなれば、残りは必然的に時間帯を示すということになる。
では、その時間帯であるが……。
白昼堂々と敵前渡河をするのが一番勇ましい。
だが、それは見栄えだけが取り柄の愚策。
ということで、決行は夜間か夜明け直前の二択となる。
「夜明け直前がいいでしょう」
口火を切るようにそう断言したのは、今回の一等地を引いたゴイアスだった。
「理由を聞こうか?ゴイアス」
ポリティラからの言葉に頷いたゴイアスがその理由を説明し始める。
「太陽が沈んでから渡河作戦をおこなう理由は何でしょうか?」
「それは敵に気づかれることを防ぐためだろう」
「まあ、防ぐというより遅らせるという表現が正しいのですが、いいでしょう。ですが、夜間に渡河をおこなうには渡河に使用する川船を昼間に移動させなければなりません。そうなれば、敵に察知され、夜間に渡河をおこなう意味が失われます」
自らの問いに対するウルアラーの回答、その言葉尻を捉えて訂正を加え、全員を鼻白みさせてから、その続きとなるものをゴイアスは口にした。
「敵の見えない位置から陽が沈んでから船を川岸に移動し渡河をおこなう。これによってその意味が成立するわけです」
「なるほど……」
「いいだろう」
言い方は気に入らないが、内容は理に適っているため、反論する者はおらず、決行は夜明け直前となった。
「もうひとつ。抜け駆けは厳禁としておくべきでしょう。この策は一斉に渡河が開始されることが肝要。なぜなら……」
「渡河が開始されれば、ほどなく敵に気づかれます。その時点で渡河が始まっていない部隊にとってそれは悲惨極まりないことになりますから」
これまた理に適っている。
そう判断したポリティラはそれに応じる。
「たしかにそうだ。では、こうしよう。各隊は準備完了した時点で私に連絡する。全隊の準備完了を確認したところで、私から各隊に渡河開始を知らせる伝令を送る。時間差をつけて伝令を送れば、最端のフリーアやシャプラーも遅れることはないだろう」
「それから、敵の魔術師に察知される可能性があるので、渡河を始めるときはもちろん数日前から防御魔法は封印する。当然川岸への船の移動も自力でおこなう。これで敵に我々が接近していることを悟られることはないだろう」
「では、私からもうひとつ」
そう言って発言の機会を求めたのはフェルナン・シャプラーだった。
「我々の武器は何だ?」
「剣だろう」
「そうだ。そして、その剣は大きく重い」
「……だから?」
歯にものが挟まったようなシャプラーの言い方にこの中でも気が長くない部類に入るベルネディーノ・ウルアラーが少々暴力的な言葉を返す。
その言葉にシャプラーは剣に手をかけながら睨みつけるような視線で応じ、当然ウルアラーも応戦の構えも見せ、そのまま口論から腕力、というか剣に訴えるものへと発展する空気が漂ったものの、シャプラーの口から発せられたのは毒気はあるものの、予想されたものに比べれば十分穏便なものだった。
「通常我々は得意としている武器をひとつだけ持つ。当然だ。それは両手でようやく振り回せるくらいに重いからだ。だが、今回は戦う前に渡河しなければならない。場合によっては対岸に着く前に転覆する可能性がある。さて、ウルアラー。おまえは川に放り出されたとき自慢の大剣はどうする?」
「手放さなければならないな」
「愛剣とともに川底に沈みたいという変わった思考がないかぎり当然そうなる。だが、その場合、泳いで対岸に辿り着いたおまえはどうやって戦うのだ?」
そこで全員が気づく。
そのことを。
これまでの戦いで魔族は平均四対一のキルレシオで戦えたのはその強靭な肉体とそこから産み出される腕力を活かして大剣や戦斧、そして錘を振り回していたからだ。
だが、それらは当然ながら重い。
川に転落したときには手にしたままでシャプラーの言葉どおり川底に沈むだけだ。
それを避けるには剣を手放さなければならない。
だが、そうなると、必然的に対岸に辿り着いても武器なしで戦うことになる。
そして、ここで彼らはさらなる問題に気づく。
「……いや。剣を手放しても甲冑があるぞ」
この世界の戦士は魔族、人間問わず戦いの際には金属製の甲冑を纏う。
本来であれば、その代わりのなるべき防具として盾があるのだが、魔族の重い両手剣に片手で対応できるはずがなく、必然的に人間側も両手を使用した剣技が進む。
そうなれば、防具は甲冑一択となる。
そして、その甲冑は多くの命を救ってきた。
だが……。
ここでその思わぬ弱点が露呈したのだ。
「……どうする?」
翌日の朝、
魔族軍ミュランジ城攻略部隊の指揮官アドリアン・ポリティラは、自身がマンジューク防衛部隊の司令官だった時代の副司令官でもあるクレメンテ・アルタミアを伴い、魔族の国の北東に位置する大海賊ワイバーンとの交易のためにつくられた町ペルハイに姿を現わしていた。
そして、その地に駐在する大海賊ワイバーン配下のひとりサンダリオ・バランキージャを面会する。
その目的。
それはもちろん渡河中に身に纏う防具の相談である。
実は、前日の会議。
その終盤に上がった例の問題に対して、提案があったのだ。
その提案をおこなったドゥアルテ・フリーアの言葉はこうだった。
「……まあ、武器に関しては、渡河中に帯剣するものは最悪の場合に手放さなくても良いものにすればいいわけなのだから、王都の武器庫から見繕ってくればいいだろう。普段使う大剣は持参する。渡河に成功した時点で交換すればいいだろう」
「そして、肝心の防具であるが、こちらは海賊の知恵を借りるのが一番いいだろうな」
「なにしろ奴らは海を狩場としている。当然戦いの際に身につけているものは万が一海に落ちても簡単に沈まぬものだろう。我々の甲冑よりは硬くはないだろうがないよりはまし。少なくても溺れ死ぬよりはいいだろう」
「噂に聞くかぎり、大海賊ワイバーンの一党は戦斧を船上で振り回しているとのこと。対して主敵たる各国の海軍は剣。戦う様子は我々と変わらぬ。彼らの防具は十分に役に立つのではないだろうか」
「わかった。では、海賊どもに防具も調達させることにしよう。ただし、あの地に入り、物を買うのには陛下の許可がいる。まあ、この前の件も簡単に下りたのだから、問題はないだろうが」
つまり、ふたりは相談のためにやってきたと言いつつ、実をいえば、最初から魔族の防具を譲ってもらうのが目的だった。
むろんそれは言葉の端々から見て取れる。
……言葉は盛大に取り繕っているが……。
魔族の将軍たちの話を聞きながら、バランキージャは心の中で呟く。
……これは防具の買い求めで間違いない。
……まさにグワラニーの読み通り。
……そういうことなら、たっぷりと儲けさせてもらうぞ。
……支払いできる限界まで。
バランキージャはニヤリと笑った。
「ポリティラ様。アルタミア様。そういうことでしたら、私から提案があります」
もちろん、そこから始まった交渉は、一方的なものとなる。
片方は肩書こそ海賊ではあるが、事実上の商人。
しかも、この地に滞在するということからもわかるとおり、辣腕という肩書付き。
もう一方は完璧な武人。
当然ではあるが、剣を使わぬ交渉事でポリティラたちがバランキージャの相手になるはずがないだから。
まあ、一流の戦斧使いでもあるバランキージャは剣の戦いにおいてもふたりに劣るということはないのだが。
……この程度の相手なら、手早く仕留めることだってそう難しいことではない。
……だが、今後のこともある。
……一応相手を立てておくか。
商人らしい言葉を呟いたバランキージャが少しだけ腰を低くし、商談への扉を開く。
「この前発注していただいた大量の川船と、今のお話を伺っているかぎり、皆さまがおこなう次回の戦いには大河を渡り敵前に上陸しなければならないという難関が待っているように思えます」
「ですが、当然渡河中に攻撃される可能性があり、船が転覆する可能性もある。その場合に普段身につけている重い甲冑ではそのまま川底に沈む。そのならないための手立てはないか?相談内容はそういうことでしょうか?」
回りくどいポリティラとアルタミアの説明から核心部分だけを抜き出して問うバランキージャの言葉にふたりは頷く。
「おまえたち海賊は生業上海上での戦いを専らとしている。当然そうなれば、戦闘中海に落ちる者もいるだろう。だが、我々のような重い甲冑を身に纏っていては助かる者も助からなくなる。当然それに対策をしているのではないかと思ったのだが、どうだ?」
ふたりを代表して口を開いたアルタミアの言葉にバランキージャは見えない場所で笑みを浮かべる。
……最初からそのようなわかりやすい表現をすれば、もっとも早く商談が進むものを……。
……だが、これでこいつらの箍は外れた。
……では、次だ。
……いや。
……少しからかってやるか。
「実は……」
「我々は甲冑の類は一切身に着けておりません」
おもむろに口を開いたバランキージャはそう言ってふたりを驚かせる。
だが、これは嘘である。
少なくても半分は。
海賊たち、特にワイバーン一党が主武器としている戦斧や錘に対してはどのような防具を身につけもそれほど効果はないため、それはあり得るかもしれない。
だが、もっとも厄介な敵である海軍の兵士が使用しているのは、振り回す必要がないため、障害物の多い船上では有効とされる刺突剣。
この攻撃から身を守ることができる程度の防具は海賊たちも用意している。
革製の鎧。
もちろん深く刺されれば貫かれる。
だが、そうでなれば身体に大きなダメージは受けなくて済む。
さらに金属製のものに比べて軽く、そして柔らかいために動きやすい。
そして、なによりも海に落ちた場合の生存性が圧倒的に高い。
海水を吸って重くなるが、それでも金属製の甲冑とは雲泥の差なのだから。
ただし……。
実際のところ、用意はしているが、ワイバーンをはじめとした大海賊たち幹部が鎧を身に着けることはほとんどない。
たとえば「麗しき大海賊」ユラの頭ジェセリア・ユラは戦闘に不向きな豪華なドレス、ブリターニャ王の血を引くという噂の「慈悲なき大海賊」コパンの頭アレクシス・コパンは常に王宮にいるかのような身なりで戦斧を振るっているのだから、バランキージャの言葉はある意味正しいともいえる。
つまり、半分正解とはそう言う意味である。
困り果てたと言わんばかりのふたりの表情を十分に堪能したところで、バランキージャはもう一度口を開く。
「……まあ、今の言葉は冗談です。我々だって命は惜しい。最低限の物は身につけています」
そう言ったバランキージャは足元から何かを取り出した。
「もしかして、こういうものをお探しでしょうか?」
もちろん現れたのは革製の鎧である。
「なぜこれを?」
「この地が安全な場所ということは承知していますが、それでも絶対はないでしょう。当然武器と防具の準備はしていますよ」
あまりにもよいその手際に、疑いの眼差しと、それと同色の声を上げたアルタミアにバランキージャはそう応じたものの、その言葉はすべてが正しいわけではない。
もちろん備えはしているし、壁に立て掛けられた魔族たちが陸上で振り回しているものより柄が短い戦斧もそのためである。
ただし、差し出された防具に限っては、「奴らが川への転落の危険性を察知すれば必ず購入相談をするために姿を現わす」というありがたいアドバイスに従い商談を円滑に進めるために用意されたもの。
……この程度のことで驚かれても困る。
……なにしろここからが本番なのだから。
心の中でそう呟いたバランキージャは薄い笑みとともに口を開く。
「世の中には奇妙な偶然というものはあるのですよ。それよりも……」
「いかがですか?これは」
美味しい餌を差し出して都合の悪い話を一瞬で流してしまうテクニック。
まさに交渉を主たる武器とする商人のもの。
もっとも、バランキージャ本人に言わせれば、「このようなものは初歩の初歩。さらに相手が置かれた状況とその交渉技量を考えれば、褒められてもうれしくない」となるのだが。
さて、バランキージャにレベルの低いと決めつけられた相手だが、そのひとりが苦々しそうにその感想を口にする。
「薄いな」
薄い。
すなわち、防具としての信用性に難ありということである。
そして、それは彼の相方となるポリティラも感じていた。
「ああ。これで防具と成りうるのか」
たしかに、これは彼らが普段着慣れた金属製の甲冑と比べれば間違っていないのだから、彼らがそのような感想を口にするのも当然のことである。
だが、それとともに、海上で生死を賭けて戦っている海賊たちが使用している正真正銘の武具。
つまり、十分に実用に耐えうるということである。
「……たしかにあなたがたが振るう大剣ならこの程度の鎧、紙きれ同然。そして、たとえ斬れなくても中身の肉体を粉砕することでしょう。ですが、フランベーニュ軍が扱う剣でも同じことになるのかといえば微妙と言えるでしょう」
そう言ったバランキージャはポリティラからその鎧を受け取ると魔法のように突然出現させた小刀でそれに切りつける。
むろん手加減はない。
数度それを繰り返したところで、裏を見せる。
「この鎧は革を張り合わせてあるため、剣であれば余程深く斬らなければ身体には刃は届きません。なにしろ、これは元々刺突剣に備えたもの。それより斬りつけが浅いフランベーニュ陸軍の剣技なら十分に対応できることは保証します。むろん、防御する部分はかなり少ないのでそれ以外を狙われれば防ぎようはありませんが」
「それにその程度の傷を負わされる前に相手をやってしまえばいいわけです。まあ、我々はいつもそうやっているわけですが……」
バランキージャからやってきた言葉。
それは言外に、「我々にはできるが、おまえたちはできないのか?」と言っているものであり、その言葉から香り立つものによって、ふたりの将軍の選択肢からは必然的に「ノー」は消える。
そうなれば……。
「まったくそのとおり」
つまり、革鎧でも全く問題ないので、商談を進めるということである。
……軽いな。
その心の声を表面上のどこにも見せることなくバランキージャは大きく頷く。
「では、これを人数分揃えるということになるわけですが、少々困ったことが……」
「なんだ?」
「この鎧は材料からしてすぐに手に入るものではありません。しかも、意外に手間もかかります。すべて新品となるとかなりの時間を要します」
実をいえば、この言葉は嘘ではなかった。
ストックしていた大型船の材料を転用できる川船よりも材料を集め加工するというのは量的にもまた時間的にも困難だったのである。
ただし、バランキージャには秘策があった。
「ですが、すべてが新品でなくてもよいという条件がつけば、五日ほどで全員分の鎧を揃えることができますがいかがでしょうか?」
新品でないもの。
つまり、中古の品も混ざる。
そういうことであるのだが、この辺がこの大海賊の一党らしい律義さといえるだろう。
もし、某世界の悪徳商人であれば、何も言わずに中古品を混ぜこんで輸出してしまうだろうから。
「もちろん使用に耐えない品を押し付けることはありません。その点はご安心を」
「……わかった」
ダメ押しのようにバランキージャが言葉を添えると、少しだけ考えたポリティラから承諾の言葉が返ってくる。
……拒絶が出来ない以上、当然そうなるな。
「ありがとうございます」
ポリティラからやってきた言葉に対して、感謝の言葉とともに深々と頭を下げながら、バランキージャは心の中で呟く。
……尊大な態度ではあるが、内心確保できる目安がついて安心したことだろう。
……では、もうひとつ。
「本来であれば皆さま全員の体型に合わせたものとなるわけですが、今回は様々な事情によりそれが叶いません。ですから、余分に購入されることをお勧めします」
「それも承知した。それよりも五日間で七万八千人分の鎧が揃えられるのだろうな」
「そこはお約束します」
「わかった。それで……」
「すべてでどれくらいになるのだ?」
ここで交渉の最終段階、すなわち購入価格の話となる。
まずは相場を示しておこう。
海賊が使用している革の鎧であるが、「すべてが揃う場所」アディーグラッドにある彼らの市場では魔族銀貨十枚も出せば出来のよいもの新品が手に入る。
もちろん、それは実用性を重視した海賊仕様のものの価格であり、美しさと優雅さはあるものの、肝心の防御力にはまったく寄与しない多くの装飾を施した各国海軍の革鎧は、兵士が着用するものでもその数倍ほどの価格で軍に納品されており、士官用となればさらにその倍となる。
さて、それを踏まえてということになるわけだが、本来であれば、中古品が大量に混ざることから、バランキージャが用意するつもりでいる十万人分の合計は銀貨百万枚より高いということはないはずであり、中古品の割合を考えれば、高くてもその三分の一というところが妥当な売り値となる。
だが、バランキージャが示したのは、倍。
しかも、新品の。
つまり、合計銀貨二百万枚。
「少々高いようですが、多くの者から買い取るのですから、こうなってしまいます」
それがその値をつけたバランキージャの言い分だった。
……銀貨二百万枚。これはさすがに高い。
異口同音的に心の声を口にしたポリティラとアルタミアは顔を見合わせる。
……だが、ガスリン様より預かった軍資金をすべて吐き出せばなんとかなる。
……本来であれば、一度戻り皆と相談すべきところだが、一日の遅れは攻撃開始の遅れに直結する。
……事後承諾ということで、進めるしかあるまい。
心の中でそう決めたポリティラがアルタミアに視線をやる。
「私は話を進めるべきだと思うが、おまえはどう思う?」
「よろしいでしょう。そのための軍資金ですし、結局勝てばそれが無駄だったと言う者はいないでしょうから」
自らの問いに対してアルタミアが即座に返してきた言葉の意味。
もちろんそれは、その言葉どおり、ここまで来たら了承し、話を進める以外に選択肢はないということである。
そして、それとともに踏み出したからには絶対に勝たなければならないということも。
ポリティラはアルタミアの言葉のすべてを理解して頷き、それから口を開く。
「では、それでお願いする。代金は明日持参するがそれでよろしいか」
「もちろんです。ただし……」
「いつもどおり支払いはすべて金貨でお願いします」
「承知している」
商談成立である。
ところで、バランキージャがつけ加えるように言った「支払いは金貨で」ということ言葉であるが、実は重要なことであるので、ここで少しだけ説明しておこう。
それはグワラニーの提案による現王による魔族の国の通貨改革が発端だった。
それによって、金貨、銀貨、銅貨は、それぞれの価値と重さに比例した交換レートになっていたものが変更になった。
金貨と銀貨を例に挙げれば、それまでは金貨はそのものの価値とその量から銀貨百枚という交換レートであったのだが、通貨改革とともに新しく登場した五銀貨、十銀貨がその図式を崩したのだ。
これまでの価値基準でいけば、十銀貨は一銀貨の十倍の銀を含んでいなければならないのだが、実際は二倍ほど。
五銀貨に至っては一銀貨と同量の銀しかない。
つまり、少々大袈裟にいえば、これは魔族の国の貨幣体系の崩壊、つまり、金銀本位制の崩壊である。
もちろん国内では王の強い力でその価値と貨幣体系を保っているが、魔族と交易をおこなう大海賊ワイバーンにはそのような力は通じない。
実はこの銀貨及び銅貨の新貨幣鋳造は、新貨と旧貨、そして、金貨と新銀貨との価値の差や、硬貨を溶かしておこなう金や銀の取り出しなどによって大きな利を得ることができるのだが、リスクがないわけではない。
為替で更なる儲けを進めるか?
それとも、それを避けてあくまで交易だけで儲けるか?
もし、これが多くの国が関わりを持っていたら魔族は間違いなく食い物にされていただろうが、幸か不幸か魔族の貨幣を利用した交易をおこなっているのは唯一ワイバーンだけ。
つまり、ワイバーンの選択がすべてとなる。
そして、その大海賊ワイバーンの長バレデラス・ワイバーンが選んだのは後者。
大海賊の名から想像できないくらいに金にシビアで、保守的なワイバーンはその貨幣改革直後、すべての支払いは金貨または金や銀そのものでおこなうことを決定し、大した混乱もなく現在に至っているのである。
だが、これにはある実現しなかったある裏話が存在する。
グワラニーがこの新貨幣導入を提案したとき、現王はすぐにその問題を指摘していた。
それに対して、グワラニーはもっとも手っ取り早くそして効果的は方法を示していたのだが、その場では口にしなかったものの、一番のネックになるものはワイバーンだと踏んでいた。
そして、その対策こそ、単一貨幣のみでの支払い、具体的にはその金額を考えて金貨のみでの支払いをおこなうというものだった。
つまり、現状と同じ。
後世、似た者同士と評されるグワラニーとワイバーンであるが、その評価はそう間違ったものではないといえる話である。
さて、すべての交渉が終わり、売買契約書の一通を持って王都へと帰るポリティラとアルタミアを見送り終わると、バランキージャは居並ぶ部下たちの方を振り返りニヤリと笑う。
「本当にグワラニーの情報通りだったな」
「どうしても手に入れたい海上戦闘用の革鎧。だが、その代金は予想外に高額。フランベーニュやノルディアなら間違いなく指揮官や爵位持ちの貴族たちだけに革鎧は支給され、下級貴族や平民の兵士は鎧なしで戦わされることになるのだろうが、そのような格差はないうえ見栄っ張りの指揮官が多い魔族軍は必ず全員分の手に入れようとする」
「ただし、支払いの限度内で。そして、その支払い限度は支給された軍資金の額」
「奴らの軍資金の残金は金貨二万枚と聞かされていたので、値引き込みでそこに設定したのだが、まさか値下げ交渉もせずに契約するとは……」
「さすがにこれは儲け過ぎで申しわけない。納品の際に餞別として金貨を返金してやらねばならなくなった」
「それに、グワラニーの話ではもう一組の客もそのうちやってくるようだから、また同じように儲けさせてもらえるのだから」
部下たちに向かって陽気にそう言い放ったバランキージャだったが、それから先の言葉は口に出すことはなかった。
……それにしても、奴らが出世競争の相手だとはいえ、そこまでやってしまうとはいったいどういうつもりなのだろうか。
……たとえば、グワラニーが目の前の利益だけを追いかける馬鹿であればそれもあり得る。
……だが、奴はそうではない。
……それに奴の代理として頻繁にやってくる腹心だって相当のやり手。これが長期的に自分たちの不利益になることくらいわかっているはず。
……それにもかかわらず、それをやるということは……。
……その長期的な不利益を狙っているというようにしか思えない。
……だが、何のために?
……さすがにそこまではわからない。
……噂通り一番功を挙げた者が王位に就けるというのなら、奴が最終的に狙っているのは王位なのだろうが、そうであれば自らの功を挙げることに集中すればいいだろう。奴にはそれだけの力があるのだから。それに、ライバルとはいえ、有力な軍閥を完全に没落させてしまっては、自らが王位に就いたときに国力が低下してしまっているということは十分に考えられる、そうなれば元も子もないだろうが。
だが、バランキージャはそこで考えることをやめる。
……まあ、所詮他人のこと。我々の不利益にさえならなければよいのだから。
……それに、そういうことを考えるバレデラス様の仕事だ。
バランキージャの心に最後に過ったその疑問。
彼がそれを知るのは、そう遠くないある日のこととなる。