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二千世界  作者: 螺鈿人形
四季めぐり
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あの堆い積乱雲のむこう

 小学三年の夏休みの宿題に「ぼくの・わたしの夢」という作文があったらしい。先だって母と電話する中で話題になった。田畑山水に囲まれた祖母の家で、手を真っ黒にして書き上げていたという。もう四半世紀より前のこと、そう言われてもなかなか思い出せなかった。


 勉強なんて、どちらかと言わずとも嫌いだった。国語算数理科社会より虫取り網とカゴと水路と杉の木の方が絶対的に大事だった。今はベランダにアブラゼミがひっくり返っているだけで肝が冷えるのに。


「『飛』は、こう、こう、こうじゃ。ハネ、はらい──」


 苦手だった書道の宿題も、達筆だった祖母にお手本を書いてもらった。それが乾いた後こっそり半紙の下に敷いて鉛筆でなぞって仕上げたら、父にバレて雷を落とされた。縁側でぐずついているともぎたてのトマトを切って塩ふり持ってきて、


ズッコ(ズル)しちゃおえん(だめ)よ、じゅぶん(自分)の手でやらにゃあ」


 初孫だったからか格別かわいがってくれた。ある真夏の晴れた午後、不慮の事故で逝った。醜い相続のごたごたに巻き込まれて屋敷も土地も家財までも人手に渡ってしまい、遺影だけが今も変わらず実家でほほえんでいる。


 くだんの「ぼくの・わたしの夢」は原稿用紙二枚程度のものだったそう。通っていた小学校が近隣のものに吸収合併されて跡形もなくなっているという話から広がっていった。


「なに書いたかほん(本当)に覚えとらんの」

「覚えとらんなあ。どうせサッカー選手じゃろ」


 国内プロリーグが始まったこともあり、中学で県の選抜に呼ばれるまで熱中していた。ある時ふと「このままヘディングをしていたらバカになるんじゃないか」と思えてやめた。


「いやいや、王さまか、ドロボウよ」


 くつくつ笑う声に思い出した、ちょうど『ぼくは王さま』シリーズと『大どろぼうホッツェンプロッツ』シリーズをぼろぼろになるまで読んでいたころだ。


 とはいえ記憶の底をさらってみても、前者はドッペルゲンガーじみた恐怖譚にある日常そっくり非日常の乾いた描写、後者は翻訳もので自分の名さえまともに書けない泥棒の無骨な義賊っぷり、くらいしか拾えない。


「王さまになったら、勉強をしなくていいし、たくさん卵を食べられるし、どんなわがままでも家来が聞いてくれます」

「アホまるだしの文じゃな」

「よう書けとったよ、ばあさんも読みやすいて言うとったわ」


 まるで手もとにあるかのごとく母はすらすら話した。返却されたのを冬に祖母へ渡したら仏壇にしばらく飾ってからどこかに仕舞いこんだらしく、亡くなってからの原稿の行方は知れない。


 勉強嫌いのくせ本はよく読んでいた。絵本や童話、「青い鳥文庫」や世界名作文庫(縮約版)など、特に「夢」や「アンチヒーロー」ものが好きだった。「夢」とは夜に見る方で「冒険」とも言える。「アンチヒーロー」とは時々アンパンマンを助けるバイキンマンや映画版ジャイアンがわかりやすい。後年「ロマン」に取り憑かれたのも三つ子の魂百までということなのだろう。


 ロマンと言ったって、スポーツカーや一軒家や海外旅行のことではない。一夜限りの肉欲や道ならぬ恋のことでもない。小金を積んで購えるものじゃないし、山林を切り崩したスキー場やゴミだらけ海水浴場にもないし、そんな安っぽい大量生産品めいた交換可能な人生の一コマなんかじゃ断じてない。そんなチンケなものじゃない。


 ロマンとは、人の生きざまそのもののことだ。肉体は低徊していても精神は研ぎつづけ、現を厭って幻に焦がれ、迎合より叛逆を理とし、無知より無感を嘆き、隙あらば悪魔に魂を投げ売っても憚らず、崇高な理想ひとつで革命を起こしもする、いまわの際にも空を仰いで鼻歌を口ずさんでいられる、必ずや挫折する(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)、それのことだ。


「健康診断はやってもらえんのかいな」

「非正規はどこでも蚊帳の外よ」

「ほんなら病院行ってきい、お金振り込むけえ」

「いらんいらん、病院なんいつでも行けようよ」

「行ける行けるいうて行かんじゃろ」

「まあ、王さまかドロボウになれてからじゃなあ」

「──ほんに、ガキじゃ」

「ハハハ」


 母よすまぬ。無理をしてきたせいかあちこちガタが来ているけれど、ひとまず先に逝く不孝だけはしないよう気をつけます。もしそうなったら、今年も(うずたか)く青天を摩する真白き叢雲、あの先にいるのだろう人にも二度とお目見え叶わなそうだし。


 追伸さっき明日の午前中着で文明堂の夏限定カステラを送っといたので食べてみてください、冷やすとおいしいらしいぜ。




あなたの方からみたら

ずゐぶんさんたんたるけしきでせうが

わたくしから見えるのは

やっぱりきれいな青ぞらと

すきとほった風ばかりです。

(宮沢賢治)


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