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二千世界  作者: 螺鈿人形
四季めぐり
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Sとの契約

 やや早めの仕事帰りは午後4時過ぎ、毎年のように聞いている気がするラニーニャのせいか梅雨明け早々の真夏日である。こんなことなら日没まで図書館で時間をつぶしてくればよかったと、暑気に澱んだ駅前を抜けたあたりから悔やんでいた。


 ほんの数分が果てしなく遠い。路地には陽炎が踊り、まるで地獄の一丁目だ。住宅街につき日よけもない。こんなときこそ日傘があれば楽なのに、誰に笑われようが指さされようが今さら構うまいと前年も前々年も痛感していたのに、喉元過ぎればの要領で忘れていた、そのことも悔やんでいた。


 傾きつつあれどなお鋭い日差しとまぶしい照り返しを全身もろに浴びている。眼精疲労を抱える視界がだんだんゆっくり回転してきて、悪寒はしないがいったん水でも飲もうと道端に寄りてイチョウの陰に憩う。家々の隙間を埋めるは蝉噪ばかり、人も車も行きかわない。


 すぐそこアスファルトの一隅が湿っている。打ち水の跡だ、ついさっき遣ったところなのだろう。築半世紀はゆうに超えていそうな平屋に心よく整えられた庭つきの、おばあちゃんちの前である。


 おばあちゃんとは顔見知りだ、と勝手に思っている。木花やプランターの手入れをしているところに散歩中よく出くわして、いつも奥ゆかしい会釈を寄越してくれる。その前日も冷蔵庫が空っぽで仕方なく午後の炎天下に出たら柄杓で虹を描いていて、


「……」

「……」


 やはり頭だけ下げた。いつだったかこのあたりに毎週火曜やってくる生協の配達員が「何かあったらいつでも連絡うんぬん」と声をかけていたし、一人暮らしなのだろう。


「きれいですねえ」

「ええ、明日もいいお天気ですよ」


 先週末、昨今めずらしい夕立があった。ざっと雷鳴もろとも降ったらたちまち鮮やかな橙色が現れて我慢ならぬと散歩に出たら、おばあちゃんも軒先に出ていてご近所さんらしきと夕焼けを見上げていた。初めて耳にした声はおっとりしていて、やさしげだった。


 銀鼠色がアスファルトに同化しつつある。リィンと透きとおった風鈴がどこかでしめやかに鳴った。ポストには朝刊が刺さったまま、葉ばかりサザンカの隙間に見えるエアコンの室外機は作動していない。


 独居老人に多いという室内熱中症が頭をよぎる。筋金入りのおばあちゃん子には袖振り合うも他生の縁、会釈をかわすくらいの相手でも心配になってしまうが、でも向こう三軒両隣だろうと赤の他人が現代都市生活のたしなみだしなあ──


 ふと目を戻したら、干涸びかけの打ち水跡に差しかかる影を認めた。


 一瞬なにかわからなかった。風はないのに枯れ枝か蔓でも飛んできたのかと思った。おばあちゃんちの庭から這い出てきたらしい、するするたわみ伸びながらぐねぐね爬行する細長いもの──


 ドンと胸が波打って、ざああと全身が粟立った。ひゅうと熱気を吸いこんだまま一息も出せない、汗だくのはずがうそ寒い。


「……」


 身じろぎひとつできぬまま、どこか気だるげな弾力ある挙動に釘付けだった。熱波に浸された脳内にごてごてしい「S」の装飾文字がいくつも飛びかっている*。


 Sは打ち水跡にぴったり身を収めて静止、蒸発まで余さず味わわんとぬらつく胴を微動だにさせない。鎌首もたげる気力はないのか、かすかに尾だけを左右に振っている。


「フッ……」


 往来のど真ん中でいぬが「伏せ」をしているようで、なんだか可笑しい。ほんの数歩の木陰にある人にも構わず涼を得んとする必死を思わば可愛げさえ覚えて、息詰まっていた熱気が鼻から脱けた。


 おろち、くちなわ、サーペント。古く東西で忌み嫌われ、畏怖され神格化され、ときに悪魔ときに英雄と見なされし者よ、汝もまた暑熱に茹だる生き身なるや。しからば此にある我が身もあるいは悪魔か英雄ならんか──


「アハハハハ!」


 どこからか子供じみた甲高い笑い声が(こだま)してきた。Sは再びくねり始めた。音なく路地を横切っては花なきツツジの茂みの方へ、


「アア、暑いわねえ」


 庭の奥からカラカラ引き窓の開く音とともにおばあちゃんの声がした。サザンカの隙間に人影が、つっかけを履いて水場でホースをいじっている。


「…………」


 堂々と、こそこそと、勇しく、つつましく、揚々と、だるそうに、物足りなさそうに、流れるように、右へ、左へ、生めかしいほど身をよじらせて、最後までこちらを一顧だにしない。


「おばあちゃんに何かあったら、知らせてくれよ」


 側溝へ消えるまぎわに祈ったら、尾がピンとわずかに強張った。


「魂なんて、いつだって呉れてやるからさ」

「…………」


 頭上でキキキとヒグラシが鳴いた。




*ヨーロッパ文化で"S"は伝統的に蛇を表す。



美しい姿をした女が、枝垂柳(しだれやなぎ)のようにぐったりと手足を(たる)ませて、ぼんやりと(たたず)んで居る所や寝崩れて居る所も情緒はありましょうけれど、此の絵の如く全身をくねくねと彎曲させて、鞭のような弾力性を見せて居る所を、其の特有の美しさを傷つける事なしに描き出すのは遥かにむずかしいに違いありません。 (谷崎潤一郎)


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