小人閑居してデジタルデトックス
日頃「流行りすたりに興味なし」とかうそぶきながら、座右のラップトップが動かなくなるや早速「デジタルデトックス」と現代用語にすり寄るなんて、いかにも節操なき小人である。
購入したのは4年前の冬、帰省時を除いて一日たりとも触れなかった日はない。大学語学なんて詐欺まがいの小売業を支えてくれ、痛飲嗟嘆の連夜に侍り、かの愚物さる無礼者の滑稽を表示し、益体もない文を思いつくまま書き殴る手となり、老親との通話口になり、15年前にTVを捨てた出不精に浮世の擾乱を届けてきてもくれた。
しばらく前からバッテリーの持ちが目に見えて悪くなり、スリープ状態からの復帰がのろくなり、異常なまでに発熱してはファンをうならせていて、そろそろかと危惧していた矢先のことだった。どこぞしまりがゆるいか突然「っっっっっr」とか「ええええええ」とか叫ぶようにもなっていたのが、うそのように静かになった。
窓辺に端座しぬるい日差しを浴びる筐体は、一人のヒトの四年ぶんの喜怒哀楽清濁浮沈を呑みつくしたとは思えないほど、凛としていた。ぶつけも落としもしなかったし、なにかこぼした覚えもない。死に水の映えそうな、きれいな面持ちだった。
できるものなら修理したい。だが実学の雄たる工学にほとほと縁なき虚学の筆頭・文学部の出に、なにができよう。いくらA級文学『未来のイヴ』『R.U.R.』またS級アニメ『ドラえもんのび太とブリキの迷宮』『攻殻機動隊』から「人間/機械」の弁証法に一家言を培ってきても、しょせん実機を前にしては一介のエンドユーザーにすぎない。
なにより自ら益するため死物を鞭打ち延命させるなんて、相続税を逃れ年金を詐取せんとして親の亡骸を「生きている」と偽装しつづけた畜生道の所業が思い起こされて、どうもいただけない。イヌとて悼みゾウとて涙しクジラとて歌う「弔い」を捨てたヒトは動物にあらず、「もったいない」と「卑しい」は別物だし「清貧」は「貧すれば鈍する」の謂いではない。金継ぎ当て布の時代は遠くなりにけり、これを機にモノが壊れたことを「死んだ逝った」と言いたがる現代語感に馴染んでみるのも悪くない。
そんなこんなで買い換えを、と新品およびリサイクルを注文したら繁忙期なのか七日かかるという。時間どろぼうの跋扈する現代産業社会では忌引にもこまごま日数が定められているとおり、哀悼の念さえ期限つきだ。まさにその一親等に同じ日取りとは因果なものね、と思うや生来の天邪鬼が鎌首もたげ「ハハンその間はデジタルデトックスだな」とささやいたわけである。
ごぞんじ「デトックス」は"detoxification"の略語、薬物治療の用語で意味は「解毒」である。その主たる「毒」とされるSNSには全般からきし縁がないが、上述のとおりモノ自体には多分に依存してきた。そんな身でも禁断症状って出るのだろうか、と自己完結型人体実験に内心わくわくしていた。
一日、二日、三日が経っても特に変わりはない。指先は震えないし、動悸が高まることも呼吸が荒くなることもない。変わりがないのだ。つまりもはやウンともスンともジャーンとも言わない机上のモノに、事あるごとにさわってしまう。ほんの数日前まで調べものや暇つぶしに応えていた画面は当然ブラックアウトのまま、それでも起動ボタンを押したり電源コードまでつなげてみたり、そのつど画面には落胆の顔色しか映らなくても、何度も何度も────
きっかり七日後、新品と交換であっけなくリサイクルへと引き取られていった。思えばたびたびその冷たい体に触れては生前の俤を偲んでいた。さながら通夜のように。
毒は、二進法とテクノロジーの産物そのものにはない。アルミニウムやレアメタルその他の塊でしかないモノを人間に相似させ哀惜してしまう複雑怪奇の脳内にこそ、毒はある。
「せっかく強勢に従って『ディヂタルディートクス』と頭韻が踏めるものを『デジタルデトックス』なんて凸凹に読ませる現代日本語って、『運動エネルギー』と『エナジードリンク』を併存させてもまだ懲りない鈍チンだよなあ」
今も毒ばかり垂れ流しているこの頭こそが、要治療なのだ。けだし「拡張された自己」を本義とする「メディア」そのものには毒も薬も益も害も本来ない。どこまでいっても自分、自分、自分────
となるとここなる閑居小人は手遅れだ。「生きていれば無毒無菌なんて夢のまた夢」と屁理屈こねくり肺臓タールでべとべと肝臓アルコホルでひたひた放題、35歳以上の国民健康保険加入者向け無料健康診断のお知らせを今年も破り捨てて顧みず「毒もまた己」と居直っている。もはや禁術ロボトミーでもせねば解毒は叶わないだろう。
デトックスは失敗だった。わかりきってはいたが。
働け! 作れ! 奉仕せよ!
われらロボットのために!
(チャペック)