蛇神のおごり
いまだ故郷に錦を飾れぬ三十路半ば、例年お盆休みは空腹しのぎに散歩するばかりだ。夕方とぼとぼ歩いていると、ヒグラシにも「悲しい哉、悲しい哉」と囃されているようで、情けない。
奥まった農道にさしかかったとき、ふと細長い影を認めて息を呑んだ。へびだ。都心から離れた田園地帯とはいえ初のご縁で、ぬるぬる草むらに這入ってゆく匍匐に釘付けだった。
翌日も同じころ同じ道を歩いてみた。怖いもの見たさもあったが、もっと観察してみたかった。やはり影も形も見当たらず無聊を抱えていると、消えていった茂みのあたりになにかある。
千円札だ。二ツ折りの、旧札である。あたりは熱い夕風がニラくらいの背丈の稲田をサラサラ吹きまわるばかり、人っ子一人いない。
どうせ行く宛もないし待ち人もないし、と拾ってポケットに仕舞い、届け出るべきところへ歩き出した。小銭は幾度か覚えもあるがお札を拾ったのは初めてだった。
「いねえじゃん」
思わず口走ってしまったほど、交番はもぬけの殻だった。緊急用の卓上電話に目が留まるも、常より少ないとはいえ車通りも人通りもあるし、まあまた来るかと踵を返した。
小川に沿った裏道に入り、彎曲する道なりを行く。と、網状の柵に群がる雑草のすきまに、なにやら四角いものが絡みついている──
千円札、また二ツ折りで、旧札だ。
フフッと鼻が鳴る。いよいよ貧乏神が愛想を尽かして去ったのだろうか。左見右見して手を伸ばし、そっと一枚めに重ねて仕舞った。
半時足らずで計二千円とはいかにも神がかり的、巡査にはどう説明したものだろう。誰も彼もが科学信者たる当世「福の神が来たよ!」なんて通じるはずもなし、下手すりゃ尿検査行きだ──
あれこれ思い巡らせながらオンボロマンションへ帰ってきた。あに図らんや、隣接するゴミ捨て場の段差に引っかかってそよぐものあり。
二ツ折り、旧札、三枚めである。
しばらく動けなかった。過度の幸運はいっそ不気味、よもや貧乏神が疫病神に取ってかわったのではあるまいか──
「ワッハッハ!」
いずこからか響いてきて反射的に屈み、ひらひらを掴み取って、陋屋へ駆け上がった。
机上に並べて伸してみれば、おひさしぶりの文豪の目ェ六つにじっと見返される。背筋をゾクッと冷たいものがつたう。汗だろうに、なんだか居心地が悪い。
「これは人の手に余る品だ」
そんな気ばかりしてならず、抽斗から封筒を取り出して三枚とも仕舞って、また外へ出た。
じりじり居残る西日のせいで薄雲たなびく空一面が血のように赤い。ぼうぼう吹きつける向かい風を早足で切り抜け、軒先にナスとキュウリの牛馬がいる古びた屋敷を折れ、上下左右のセミセミセミに耳を衝かれながら雑木林を進む。
やがて鳥居が見えてきた。山腹にぐるり数十歩程度の手狭さで建つ、さびれた神社である。ひとつお辞儀して朱色をくぐり、石段を十数と昇った。竹と杉の林立に覆われた境内はいつもと変わらず薄暗い──
「ゾ、ゾ、ゾ」
社殿へ迫りかけて奇妙な擦り音に硬直、出処らしきその左手に目を凝らす。へびだ。縁の下から出てきたのか、落葉まみれの砂地をずるずる爬行している。
「ゾ、ゾ、ゾ──」
凝視を意にも介さずに、くねりくねりとまだらが見事な曲線模様に蠕動しながら、傾斜のある薮の中へとガサガサ這入って見えなくなった。
パッと境内唯一の白熱電球が点いた。一歩、一歩と斜面に近づいてみる。なんの気配もない。振り返って縁の下の連子窓の奥の暗がりにも目を凝らし耳を澄ませてみたが同様で、
「昨日のやつかな、ここがねぐらなのかな」
とか考えながらひとまず社殿の正面へ回り、黒ずんだ麻縄を控えめに揺らした。そして封筒を取り出し、賽銭箱はないので閉めきられた引き戸の隙間へ差し入れようとした、そのときだ。
「──!」
なにかが左の二の腕にポンと触れた。エッと振り向いたら丸っこいものが足もとを転がる。
栗の実だ。青々しいちくちくの早熟れもいいところ、これが当たったらしい。とはいえ四囲は竹と杉ばかり、栗の木なんてない。まず庇の下に立っているし、風もやんでいる。はてどこから──
きょろきょろして、なんの気なしにあの斜面を見た。と枯葉の堆積が一瞬ガサリと蠢いた。
「それでうまいもんでも食えよ」
いたずらっぽいしわがれ声が、確かにした。
あくる夕方、酒屋で「天狗舞」を封筒の三枚で購めた足で、神社を再訪した。社殿で手を合わせてから栓を開け、縁の下の連子窓のそばに滴々々と垂らした。
そうして一口だけ無礼講、その場で瓶を傾けた。しばらくぶりの山廃仕込みの純米が、汗ばむ五体にひやびや沁みわたる。
「うまい」
思わずこぼしたら、キキキとヒグラシが笑った。
ああ 東は東 西は西 両者まみえることはなし
神の裁きが下るまで いずれ天地が滅ぶまで
されど東も西もなし 氏も育ちも色もなし
ますらお二人 相立つところ 地上に西や東なし
(キプリング)