めげずくじけずダンディズム
上京したてのころ、最寄りの駅前にある某アメリカ産チェーンのバーガー店によく通っていた。地理か英語かの教科書でしか見たことなかったハンバーガーが100円(当時)で、これが大東京かとお上りさんの目には輝いて見え、それで腹を満たして講義に出るのがスタイリッシュだとオシャンティだと思っていた。バカである。
ある深夜、なんの帰りか、立ち寄った。客も店員もまばらな中、注文してボーッと待っていると、奥から出来上がったバーガーひとつが二三歩の幅の調理台を滑ってきた。
「ファスト」の名に恥じぬようにというマニュアルどおりだったのだろう。初見でもないはずが、酔ってもいなかったが、不快だった。一人席でしわくちゃのバンズを食みながら「もう二度と」と決めた。それきりファストフード全体から足が遠のいている。
祖父母が農家だったからか、食物をぞんざいに扱う作法には嫌悪を覚えてならない。「いただく」のこころ知らずして食品ロスばかりの星条旗フードなど、いくら食文化こそ多様性だと言われてもクソ食らえだ。「ミソもクソも一緒にするな」って英語でなんて言うんだろう──
それから十余年、最寄駅は変わらないから、今も折につけそのバーガー店の前を通る。ガラス一枚を隔てただけの一人席で、誰かが咀嚼し、啜り、嚥下するのを毎日のように見かける。昨日はめかしこんだ女子学生のカスまみれの口蓋が、今日は前ボタンを開けるたしなみもない中年背広のムシャムシャ貪る黒ずんだ歯が、視界の端を通り過ぎた。
異物と粘膜が交渉する「穴」は恥部のはずだ。摂取と排泄は表裏一体、これを衆目にあえて晒すことを日本語では「(お)下劣」という。「食」が「色」に通ずるように、欲望の充足を見せ物として平然たる「ファスト」は「ポルノ」と等しい。あの大きなガラス窓は他人の猥褻物を公然と映し出している、そしてそれを許容してもいる、一種のメディアなのである。
遠のいたままの足を戻さないのは、そこに文化のデカダンスが透けて見えるからだ。「安かろう悪かろう」で食品添加物への不信感とか、ショート/トールにグランデ/ヴェンティを並べてしまうダサい言葉づかいへの反感もあるが、なによりそれが窃視と露出のジンテーゼということに嫌味を覚えてならない。いまだ視覚特化型SNSに近寄れない理由に似ているのかもしれない。
昔から講義中でも電車内でも居眠りできる人が信じられなかった。退屈な授業なんてゴマンとあったし睡眠はいつだって足りていなかったが、「眠る」という選択肢はなかった。おのが欲望充足を公私の境なく晒すなんて恥ずかしい、という思いがいつだって勝っていた。
いや、恥ずかしいというか、なんというか、居心地が悪いのだ。
八年ほど前、東南アジアをうろついていて、貧しい市場に迷い込んだことがあった。着古され黒ずんだぶかぶかのジジ臭いポロシャツ一枚きりで駆けまわる子供らを眺めていたら、大粒の茘枝を押し売りに来た中年男性に「去年あなたの国から送られてきた、アリガト、アリガト」とおだてるように囁かれた。あのときの感じに似ている。
「やめてくれ!」
心の中で悶えながら、なけなしのあり金はたいて茘枝を買い占めた。夜に腹を下した。それ以来ポロシャツは着ていない。茘枝は食べる。
毎秋バーガー店には、「月見」の幟がでかでか立っている。昔はレギュラーメニューだったような気がするが、いまや季節物にまで成り上がったらしい。
去年も連日のように飛び込もうか迷った。ワンコインで万年欠乏ぎみの動物性タンパクが摂れるし、腹はいつでも減っている。
できぬ、できぬ。軽度の栄養失調の兆しだろう指のささくれをいじりながら、毎度毎度の素通りだった。
秋の七草も知らぬ世の、スマホなければ盈虚も知らぬ世の、「立待月」より「ストロベリームーン」なんてアメリカ語をありがたがる詩藻もへったくれもない世のならいなんて、できぬ、できぬ────
かくも文学部卒の末路である。いや、「田舎学問より京の昼寝」を信じて出奔してきた夢見がちな小童が、文学なんて芸術なんて身のほど知らずの虚像に誑かされつづけて、才なき徒手でいたずらに万巻を渉猟するうち地に足つけられぬまま年だけ取ってしまった、成れの果てだ。
窓際の一席で白身魚のフライを挟んだバーガーに感激していた無垢はとうに失せた。ならば間近に迫る四十の路とて頑迷ひとつを胸に独歩するしかあるまい。醜悪無惨な老害になってしまいそうなら潔く首をくくるとして、さて、どこまで往けるやら。
これだから学問なんて腹の足しにもなりゃしない。
ダンディズムとは見栄である。
(ジュール・バルベイ・ドールヴィイ)