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二千世界  作者: 螺鈿人形
五枚めくり
15/24

凡人、あまりに凡人

 数年前、吉田秀和を読んでいて、あるピアノソナタを知った。楽匠ダニエル・バレンボイムが弾く第一楽章にぞっこん惚れ込み、常住坐臥いつも流すようになった。


 まもなくふらっと古書店をのぞいたら、その楽譜を見つけた。夥しい音楽関係の平積みに、1955年ヘンレ社発行の原典版(ウルテクスト)が燦然と紛れていたのである。五百円、考える前に手が伸びた。


 運命とはこういうものかと、翌週にはまあまあ質のよい電子ピアノをワンルームに据えた。本棚二架を処分して、マットレスやらカーペットやら模様替えして、防音効果を謳う専用の敷物も用意して、ついでにこまごましい第六変奏に備えてハノン(運指練習帳)も買った。もろもろ込みで二十万かかった。


 幼時の杵柄はあるがほぼ四半世紀ぶりの鍵盤、誰だかのメヌエットもアラベスクも記憶にない。とにかく基礎練習あるのみと、夜な夜な16分音符とにらめっこし始めた。


 しばらくして左腕が上がらなくなった。4番(薬指)5番(小指)に力を込めるや僧帽筋に細長いネジでも穿たれているような痛みが走って、髪もまともに洗えない。初めて整形外科を訪れたら、


「五十肩ですね」

「えっ」

「一種の関節炎です。四十肩とも言いますが、三十代で発症される方も多いですよ。激しい運動だったり、長時間パソコンに向かっていたり、心当たりはありませんか」

「……ピアノですかね」

「えっ」


 仕事をサボる口実にはなるが「五十肩」ではカッコがつかない。もっと体裁のいい診断名を、と同年代らしき町医者から引き出しにかかる。


「左肩腱鞘炎により板書ができないため」


 それで休講届は通った。非常勤講師の利き腕などいちいち把握されていやしない。片手だけでも真ッ昼間からピアノに向かえる贅沢を前にしては、時給換算して数百円程度のコマ給など惜しくもない──


 いよいよ終盤、第六変奏に差しかかって、右耳がおかしくなった。起きがけからプレストな鼓動が延々ドクドク脈打っている。なんだと耳鼻科に尋ねるや、


「一時的な難聴ですね」

「えっ」

「鼓膜が痙攣しているんです。しばらく安静にしていれば治まりますよ。最近ではイヤホン難聴とも言って、耳が疲れているんですね。心当たりは──」

「たぶんピアノです」

「えっ」


 電子だろうとワンルームだし、近くの大通りを珍走する団に煩わされるのも癪だから、毎夜ヘッドフォンは欠かせない。片耳だけ外して楽匠のアーティキュレイションを(なら)っていた、そのせいらしい。


「突発性難聴により授業運営に支障があるため」


 十指が辿るメロディアには喫食喫煙の欲も去り、左肩に残る違和感も忘れて、やや音量を絞ったヘッドフォンを両耳にしっかり装着して──


 やがて念願が叶った。冬の夜更け、イ長調が淀みなく流れて、吐きそうなほど恍惚が全身に満ちた。


 その翌日から一切弾かなくなった。蓋を閉じると天板が水平になる仕様につき服やら本やらの置き場と成り果てて、はや幾年である。


 先日ある学生に、この経緯を話した。高三のとき著名ピアノコンクールで銀賞を獲り音大進学が内定するも先行き不安で進路を変えた、という来歴の持ち主である。


「こういう下属音(サブドミナント)の使い方、きもちわるくない?」


 楽典(音楽理論)にも精通するぶん中学英語も覚束ないのを何とかしたいと言うので、授業とは別に補講していた。スマホからデスヴォイス系しゃがれ声と女声クリーンヴォイスのまざりを流してきたので、


「先週言ってたバンドですか」

「や、これはアド」


 テレビもラヂオも新聞もないやもめ暮らしでも、名のつづりばかりはYouTubeの暴力的おすすめ機能で見知っていた。


「あれ『アド』って読むんですねえ」

「えっそこ? てか知らないの?」

「や、『アドゥ』だと思ってました」


 十年もっと前ごろ北欧で流行っていた歌唱法だってことは知ってるぜ、とかいうウンチクを避けて素直な所感をそのまま口にしたら、


「やぁばっ!」

「いや、英語に"ado(騒動)"って単語があるんですよ、この前話したシェイクスピアにも──」

「やぁばっ!」


 釈明なんぞどこ吹く風とニヤニヤ連呼、ひしと両手で両肘を抱いて、俗に言う「ドン引き」の態だ。


「ピアノ、辞めたくなるときないですか」

「ありますよ、しょっちゅうです」


 仕上げた練習問題を採点しながら、現状を打ち明けた。


「売らない方がいいですよ、絶対また弾きたくなります」


 きっぱり断言された。またbとdを、pとqを取り違えている。


「そんなもんかねえ……」


 なんだか胸がざわざわした。


 粗大ごみだと椅子込み六百円らしいが、自宅に上げられるほど心を許せる友人のいない腰痛持ちが、どうしてエレベータなし三階から88鍵を下ろせよう。そこが悩ましくて、いまだ狭い室内に鎮座させている。


 たった一曲を弾くためだけに月賦とほぼ同額をつぎこんだなんて、もはや浪費を通り越して奇行だろう。だが才なき横好きが一瞬だけでも天上美に肉薄できた、その代償と考えれば、安いものなのかもしれない。


 いかにも好事家(アマチュア)とは凡人の謂いである。




I will speak for you, Father.(神父さん、私はきみの味方だよ)

I speak for all mediocrities in the world.(私はあらゆる凡人の味方なんだ)

I am their champion.(私こそがその代表)

I am their patron saint.(その守護神みたいなものなんだから)


Mediocrities everywhere.(どこもかしこも凡人ばかり)

I absolve you.(それでいいんだよ)

I absolve you.(きみも)

I absolve you.(きみも)

I absolve you.(きみも)

I absolve you all.(きみもだ)


──映画『アマデウス』


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