もの思う青
毎年欠かさず罹患する病といったら、インフルエンツァでも花粉症でもない。連休が終わりしばらく祝日なしと絶望する朝ぼらけ、身も心も泥のように重く寝床を出るのも一苦労、カーテンすきまのけざやかな青ばかり目に沁みて、どこにも行きたくない何もしたくない、──五月病である。
もともと「季節の変わり目」または年度初めの多忙の反動とされていたものが、いつの間にか自律神経の乱れとセロトニンの分泌低下が病理とされるようになった。おかげか近年は秋口ごろ似た症状が発現したら「九月病」と診断されるという。
それなら年末年始を経た「一月病」や年度末を経た「四月病」や、春と秋が失せつつある昼夜の厳しい寒暖差による「十月病」や「三月病」もできそうだ。なんでもかんでも「病」と見なされる当今、いずれ一年まるまる十二の「月病」で埋め尽くされたっておかしくない。
月の次は年か日か。ポスト感染症で出社や忘・新年会が戻ってきたせいの「2024年病」、天引きばかりの給与明細に青息吐息の「五十日病」なんてのもありえそうだ。あるいは「月曜日病」、これは高度産業社会を渡世する現代人(その養成機関=学校にいる若年層も含む)には多かれ少なかれ既往症に違いない。
そういえば英語にも、"Mondayish"なる「月曜日」が形容詞化された奇怪な代物がある。「憂鬱な」と訳すもので、似た名詞句に"Monday Morning Blues"もある。青だ。
憂鬱と青のつながりは、挫折やら反撥やら失恋やら青臭いことをわめきがちな現代ポップ音楽の祖とされる20世紀の黒人歌謡よりも、古く深い。
青には「冷」や「寒」の印象があり影/陰を思わせる、この点で黒に親近性がある。[…]青を見る時、我々は悲惨や憂鬱をそこに見る。(ゲーテ)
なぜ月曜朝は人身事故だらけなのだろう、なぜ若年者の自殺は五月とそれぞれ九月の初旬に集中しているのだろう、なぜ余暇/空白には観光へ出かけたがるのだろう、──西洋の文物たる週七日制(土日休)も太陽暦に生きる我々が、その副産物たる憂鬱だけ避けられようはずはない。
さて、梅毒が瀰漫している。19世紀後半の西洋で猖獗をきわめ、椿姫マルグリットを滅ぼしモーパッサンを狂わせニーチェを斃した死病である。
当時かの地では憂鬱が、日進月歩の文明の陰で跋扈していた。「真午の悪魔」と渾名されるほどの実感を伴い、売買春や加虐被虐などの倒錯へと人心を唆していた。
我々の時代は特異だ。今ほど憂鬱であり、それゆえ深い絶望に満ちた時代はない。憂鬱には責任が伴われるが、誰もその責任を負おうとはしない。その一方で、誰もが自由でいたがっている。(キェルケゴール)
憂鬱が退屈へ、退屈が放埒へ、放埒が破滅へ、という墜落の径路は、『神様、もう少しだけ』に代表される前世紀末のわれらが頽廃にもわかりやすいように、古今東西さして変わりない。憂鬱こそが死に至る病、エイズも梅毒もその合併症にすぎない。
あるとき女子大でこのあたりの消息を扱った。第三期梅毒の視覚資料をふんだんに盛り込んだら、めずらしく一人も居眠りをしなかった。後でシラバスを見咎めたか事務方の管理職が「語学科目の分際で」と嫌味を言いに来たが、その北叟笑む上唇にいびつな黝い湿疹ができていたので、配布物に載せていた性感染症相談サイトのQRコードを示してやったら、黙った。
梅毒の特効薬ペニシリンも、そもエンデミックの主因たる万人の自由恋愛も、いずれも舶来品である。「自由」を知らずしてオシメの世話までされている極東の我ら、感染症とはいつの時代どこの場所でもまずそこに生きる人間の愚昧を露見させるものらしい。
葦原よしげらばしげれおのがまま
とても道ある世とは思はず(後水尾天皇)
梅毒は治る。だが憂鬱は治らない。いかに医学生理学が発達しようと、幾百年も変わらず人心を蝕んでいる。それは人間の病というより業なのだろう。
人工知能が濫觴して機械学習が席巻する陋巷にあって語学にかかずらう意義も、煎じ詰めればここにある。
料理はもうすぐできます。
十五分とお待たせはいたしません。
すぐたべられます。(宮澤賢治)
古今東西で憂鬱の魔手から逃れんとしていた人々の鏤骨彫琢は、今ここの患い労きを一時的にでも寛解させうる処方箋そのものだ。今日と明日の瀬戸際に立つこのどうしようもない無聊にこそ語学は効くのだ──!
とかなんとか威勢よく我鳴ってみても、けだし紺屋の白袴、我鳴る当人が顔面蒼白では是非もない。性戯、花金、桜花、娯楽、酩酊、旅行、休みなく終わりなく繰り返して、鎌首もたげ来たるものを糊塗しつづけても、その反復自体が絶望を差し招いているんだから──
ところで青は、貴族の血の色でもある。
19世紀西洋の中上流階級では、憂鬱を「神経病み」ともったいぶって自称しがちだった。そしてその憂さ晴らしにと、ある観光ツアーに出向くのが時花っていた。
死体安置所めぐりである。
さっき夕食をこしらえていたら、じゃがいもの芽を抉りそこねて左親指を切った。それ自体どうということはないが、ここに滲んでいる色はどうしたって赤だ。
つまらん、つまらん。
今宵、風寒く、身の置きどころなし。
(太宰治)