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二千世界  作者: 螺鈿人形
四季めぐり
11/24

ひび

 気がつけば一年のうち最も好ましい冬を過ぎるに任せてしまっている。春から実入りが減ってしまう非正規につき金策に奔走する日々である。飲まず食わずとまでは行かぬが読まず書かずの貧乏暇なし、われながら実に情けない。


 霞がかった碧空の下をそぞろ歩いていたら、ぼとぼと侘助(椿)(しるし)が落ちていて、ふと落とし穴にでもはまったかのように足が(すく)んでしまった。年が巡る、また巡る、もう巡る、──春がすぐそこに迫っている気配はどうも落ち着かない。


 貧すれば鈍するとは言い得て妙で、俗事ばかりにかまけていると感性の鈍麻を折々に知らしめられる。働けど働けど(なお)わが生活(くらし)楽にならざりぢっと手を見る(石川啄木)、日銭を得るばかり何をも生み出しえぬこの手を。感性なくして人に存在意義(レゾンデートル)などあるのだろうか──


「粉瘤ですね、良性の皮膚腫瘍です」


 近ごろ顔面を切られた。左あごに四年ほど放ったらかしのデキモノがあって、先々いつ医者に掛かれるかわからないからと思い立ったのである。


「今日のところは採血をして終わりですね。それで感染症の検査と麻酔の効果測定をして、問題なければ手術をしましょう」


 半年に一度の歯科検診を除けば健康診断もろくに受けていない。肘窩(ちゅうか)に吸い込まれる針先はさながら太刀の一閃に断たれた竹、なんと精密な造り(ミニアチュア)かと思わず凝視してしまう。シリンジをどろどろ染める幾ccの赤黒い流体が、まぎれもなく自己の一部のはずが、そこに溜まった途端いかにもよそよそしげに被検査体然として冷たい印象だった。


 手術の前夜、これで見納めかとデキモノを鏡に映して抓んでみたら、なんだか小さくなっている。どれだけ指で潰しても針でつついても糸切り鋏で切っても頑として居座っていたものが、土壇場で引っ込みだしたらしい。


「まれに悪性のものもあるので、切除後に調べてお知らせします」


 四年もおれの一部だったんだ、切除だなんて怖いよな心細いよな、とかなんとか感傷がほんのりよぎったのも束の間、翌朝になって三点の局部麻酔に包囲され、たった15分で除去された。左耳に近かったのでジョキジョキとかプツプツとか不気味な音が脳内いっぱい響いていて、おもしろかった。


「ご覧になりますか」


 誘われるまま見てみると、こんな局部にどうやって潜んでいたのか不思議なほど大きな、親指の先ほどの白い肉片が、瓶中の透明な液体にのっぺり沈んで安らかに眠っているようだった。良性で、抜糸の痕は数ヶ月で消える、と後日お知らせされた。


 それから、切り取られた病変がゆらゆら大海原をあてどなく漂っているところを夢に見るようになった。きまって「胎児よ胎児よなぜ踊る」の巻頭句を連れて──


 目下ある大学の語学教科書を無償で作っている。自分の名前をアルファベットで書けない、90分間じっとして人の話を聞いていられない学生が大勢なので、市販のものでは間に合わないからと、そこの常勤に頼まれた。


「先生の業績になるし、常勤採用にもつながる仕事だからね。新年度に間に合うよう、ひとつよろしく」


 またこれだ。責任を取りたくないから非正規に丸投げしておいて、仕上げたらあれこれ難癖つけて学部名義で発行するがオチの、あれだ。さすが大衆教育の成果筆頭なる大学教員、口車すら代わり映えがしない。


 しかし、しかしだ。酒を飲んで車を運転するような、飲食店で備品を舐め回すような、真偽善悪美醜の判断力なき下劣な人品を少しでも減らせる希望があるならば、と甲斐なき夢をまだ見つつ、寝ても覚めても液晶画面に向かっている。おかげで目がおかしくなった。


 一息つこうと立ち上がるたび、視野が点々ぶつぶつ急激にすぼまり盲いてしまう。それ自体は数秒で元に戻るのだが、中央やや右側に、縦に、糸くずか線虫のような透明な一筋が残る。目を動かしたら動いて、たぶん左目で、指で拭っても顔を洗っても強くまばたいてみても消えない。知らぬまに溶けているのだが、それまでは視界がそこだけ濁り、本を開けばそこだけ文字列がすっぽり抜け落ち寒梅が枝ごと削げてしまう。


 まるでひび(﹅﹅)だ。となると通ずる先は奈落かな。いつかここに暗黒が開いて、人ではない異形の者がニッタリ覗いて、牙を光らせ爪を尖らせて手招きして、「さあ来いよ、見せてやるから」と親しげな胴間声でつぶやいて──


「いかにせむ生と呼ばるる徒労をば」


 パチパチ退屈な筐体をいじりながら、思い浮かんでいた駄句を口ずさんだ。心ここにあらずで、じゃあどこにあるのかと探すのも面倒で、惰性惰性でエンターを押す。


 まだ春を迎え討つ準備はできていない。




旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る

(芭蕉翁辞世)


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