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二千世界  作者: 螺鈿人形
四季めぐり
10/24

言海ヲ游グ

 年末年始も課題添削やら試験作成やら齷齪(あくせく)しておりました。ひまを盗んで本を読んだり散歩したり、叶えたためしのない一年の計を懲りず念じてみたり、要するに平年並みです。


 この「齷齪」って、字面だけでもジタバタしている感がありますね。似たものに「齟齬(そご)」がありますが、これとて通じ合っていない様子が目に浮かびます。四字とも(へん)は「齒」、近代文学で「よわい」とルビが振ってあったり「年齒(とし)」と使われていたりする、「歯」の旧字体です。歯が年輪を表すって、いかにも口腔ケア後進国たる日本らしいです。


 しかし「歯」といえばまずもって食む器官でしょう、だからこそ新字体には「米」が収まっているのでしょうし。ただそうなると「齒」は怖い、四人(よったり)が食われています。鬼神か怪物が舌なめずりしているみたいで、なんだかぞくぞくしてきますね。


 せっかくなので「亀」も見てみましょうよ。「歯」の次に「亀」が来るとは森鷗外も『(ウィ)タ・セクスアリス』で書いていた一事件(出歯亀)のとおりです。ちなみに「鷗」も「(かもめ)」の旧字体ですが、これはどういう理屈なんでしょうねえ。


 さて現代なじみある「亀」というと、どうも拳くらいの大きさの感です。頭を突つけば甲羅に引っ込んでしまう、配管工おじさん(イッツミーマーリオ)に踏まれ蹴飛ばされる、かわいいものです。


 それが旧字の「龜」だとアラ不思議、物々しい黒鉄(くろがね)の外殻をかぶり、ごわごわ太ましい首と四足でのっしのっしと睥睨闊歩、不老不死の霊獣(古代中華)、神羅万象を背負って泰然の王(古代インド)、つよい、かてない──


 こんな世上まれに見るグラフィカルな文字体系を半世紀以上も前に捨ててしまうなんて、そりゃ合理主義の具現であるビューロクラシー(官僚制)のもとでは異端でしかないでしょうけれど、実にもったいない損失です。まあ所詮ダイヴァーシティ(多様性)なんて合理主義のお墨付きなくしては絵空事の綺麗事だということでしょうね。


 いつもながらクダクダしくてすみません。年始早々ほぼ寝たきりになってしまって、いまだ衒学(げんがく)ムードが冷めやらんのです。


 七日前の朝、目が覚めたら左脚が変でした。膝を曲げようにもびくともしない、まるで丸太が接続されているみたいに重たい。えっと思うやズクズク鼓動のような痛みが迫り上がってきて、異常が太腿の始まる付け根にあるとはわかりました。


 あまりに鋭利な、知覚過敏を氷柱(つらら)で貫かれつつあるような劇痛でした。ウオノメを爪切りとピンセットで引っこ抜いた時より痛い、ピアノを練習しすぎた五十肩なんて比じゃない、三十余年で一等痛い。


「これ死ぬんじゃないか」


と本気で案じたくらい、冷汗三斗で生きた心地もしませんでした。意を決して腹に力こめ上体を起こしてみたら、一瞬とんでもない強張りを患部に感じました。カマボコ板でも格納されているような引っ掛かりで、


「アーッ!」


 奇声を発しながら、起き上がり小法師かと仰向け倒れ込みながら、どこか冷静な頭で「ぎっくり腰みたい」と感じていました。落雷のような痛みの極致がそっくりだったのです。


 五日間は立ち座りもままならず、ワンルームのくせ小用を足すのにも一苦労、咳払いやくしゃみのたび呻き、カーペットの数センチすら跨げない有様でした。今はなんとか出歩けるまでに回復しています、ビッコを引いてはおりますが。


 そういえば、この脚の付け根って鼠径部と言いますね。なぜここに「ねずみ」がいるのか気になって、臥せっている間に調べてみました。


 男児が胎内にいるころ、精巣つまり睾丸いわゆる金玉は腹部に位置してあって、お産直前になるとそれが今ある陰嚢へと収まるんだそうです。その移動の様子が鼠の挙動に似ているので、その通り道である該当箇所を「ねずみの(みち)」と呼ぶようになったんですって。


 しかし母体内の胎児の観察が可能になったのは、技術的には前世紀半ば以降でしょう。それ以前は何と呼ばれていたのでしょうね。まさかそれ以前の日本人に「鼠径部」がなかったはずはありますまい。でも、名がないところに物は存在するのかしらん──


 また痛んできました。患部のことばかり考えているからでしょう、そろそろやめます。なんだかここ数日、これを皮切りにしてかつて痛めたことのある節々がこぞって痛むんです。肩、腰、膝、手首、いやになります。冷えには十分お気をつけください、風邪より万病の元です。


 ちなみに「齒」は開口時の歯並びが模されたんですって。鬼神か怪物かを紙背に空想している方が愉快ですね。昔から「一に作家、二に批評家、三に学者」と言いますが、想像力の余白なき理屈(セオリー)なんて退屈なだけですよ。わが身で(およ)ぐに限りましょう、この茫洋たる大言海は。




わたしはものを考える前にまず感じた。

(ルソー)


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