季節の味覚
春になるとスーパーの野菜売り場に実山椒が並ぶ。ほんの短い期間だけなので、買うか買わないかを迷って、次の機会になどと考えていると、その年にはもうお目にかかれなくなる。野菜に季節感がなくなってきたが、一部の果物と共に、限られた時期にしか見られない食材となっている。
毎年その姿を眺めては迷い、買うことのなかった実山椒。というのも、学生の頃友人の家で昼食をいただいた時、見慣れない黒い粒が入った瓶が、食卓の隅に置かれていたのを憶えていたのだ。初めて見る物だったので友人に尋ねると、実山椒を家で煮て作った佃煮だと教えてくれた。食べてみる?と勧めてくれたが、十代の頃の自分は食べてみるまでの興味はなかった。友人はご飯の上に少しだけ載せて、まるでふりかけのように食べていた。美味しいかどうかを聞くと、自分は美味しいと思うが、好みが分かれるだろうと言っていた。
それから何十年を経て、店頭で実山椒を見る度にその味に興味を持ち、あの佃煮とやらを作ってみたい気になった。しかし、そう思い始めてからも月日は過ぎてゆき、一年の内のわずかな期間しか売られていないそれを買う決心がなかなかつかずにいた。というのも、料理方法が難しそうに思えたからだった。
ところが、今年ついにそれを買って料理をすることになった。何故そうなったかというと、並べられている山椒の実があまりにも濃い緑色をしていて、食材としての魅力に富んでいたとでも言おうか。
500g入りのパックを買ってきて、いざ佃煮づくりに挑戦ということになった。勿論ネットの情報に頼るのだが、沢山あるレシピはどれもだいたい同じ内容になっている。それで、それらのレシピの要点だけを採用して取り掛かることにした。
まず、枝から実を切り離して一粒ずつに分けなければいけない。買ってきた枝付きのものを粒ごとにパラパラにするには、当然その作業が必要になるのだが、これがそんなに手間のかかることだとは想像しなかった。てっきりその後の味付けなどが難しいのだろうと考えていたのだが、全く違っていた。栗ご飯を作る時の栗の皮を剝く作業と同じくらいに時間がかかる。500gの実に対して一時間以上かかったと思う。
次に、あく抜きをする為に茹でるという作業がある。これは簡単で、沸騰したお湯で茹でるだけだ。書かれてあるレシピ通りに、茹で時間もしっかり守った。食に関しては普段から、麺類やパスタを茹でる際にも、必ずタイマーを使用する徹底ぶりなのだ。それが終わると愈々味付けだ。醤油、酒、味醂で煮込む。これもレシピどおりに実行した。
そして、ついに実山椒の佃煮が完成した。下処理に想像以上の時間がかかったので、二時間以上の時間が費やされた。それでも、一応完成したことに安堵して味見をしてみることにした。2、3粒口に入れてみる。独特の香りが口の中一杯に広がる。馴染みのある香りだ。ところが、噛んでみると、何だこれは?固い、固すぎる。噛み切れないほどだ。無理に嚙み切ってみると、舌が痺れるような辛さというのか、あの独特の味が強すぎる。だから、全く美味しくない。これを食べるのは無理だ。
困ったものだ。二時間余りかけて作った実山椒の佃煮を前に、どうしたものかと暫く困り果てていた。出来上がったばかりの食べ物をこのまま廃棄するには、お金と時間と労力が勿体ない。さりとて、固くて辛くてとても食べられたものではない。悩んだ末に、取り敢えず様子をみることにした。時間が経てば味や歯触りも変わってくるかも知れない。今すぐに廃棄してしまうには忍びない。
二日後に再び味見をしてみたが、やっぱり味にも固さにも変化はない。それで、駄目で元々で、味付けに使ったお酒をひたひたになるくらい入れて、もう少し様子をみることにした。醤油では塩味が濃くなるだろうし、味醂でも良いかも知れないがお酒にした。
一週間後くらいに味見をしてみると、なんと少し柔らかくなっていて、舌がピリピリする辛さも緩和されてきている。これなら食べることができる。窮余の策だったが、お酒を入れたことは正解だった。こんなものは二度と作らないと考えていたそれまでの気持ちが、一瞬にして消えていった瞬間だった。
あれから二か月ほどになるが、実山椒の佃煮は日々美味しく食感も柔らかくふっくらとしてきている。それにあの舌を痺れさせる独特の辛さもほど良くなった。おにぎりの具にしても良いし、市販のちりめん山椒は山椒が少ししか入っていないので、この佃煮を少し加えるとさらに美味しくなる。また、ウナギを食べる時に、粉山椒の代わりにウナギの上に少量載せてもピリッとして美味しい。そんなに一度に大量に食べるものではないが、味のアクセント的に食事を潤してくれる一品となっている。
後で分かったことだが、野菜や果物は何でもそうだが、同じように見えてもそれぞれ新鮮さが違う。実山椒の場合も新鮮なものは実が柔らかいが、時間が経ったものは固くなるようだ。見た目では分かりにくく、今回は少し固めのものを使ったのかも知れない。それが分かれば材料の鮮度にも気を付けて、来年また挑戦してみる可能性もある。
それにしても、失敗したと思っても廃棄しないで工夫してみて良かった。
何事についても、諦めずに試行錯誤してみることは大事かも。