風船おじさんに憧れた僕の親友は
夕暮れの河川敷。川向うの線路を、帰宅するサラリーマンをぎゅうぎゅうに詰め込んだ電車が走って行く。僕たちから少し離れたところで、ウーバーイーツの配達員が土手に座って電子タバコをふかして休憩をしている。川沿いのあぜ道を、腰の曲がったお婆さんが小型犬を連れて散歩している。
「今日の『正座手上げの刑』は、これまでになくキツかったね、シマちゃん。ほら、肩から先が自分のじゃないみたいだよ」
並んで土手に座わる親友のシマちゃんに、僕は、一時間以上上げっぱなしで感覚を無くした両腕を肩からぐるぐると回してみせる。
「ほんと、あいつら、俺たちのことを人間扱いしてねえよな。俺なんか、腕がちょっと下がるたびに肩パンチだもの。今日なんか八十三発もくらったよ。顔を殴ったらイジメが親や先生にばれるから、体ばかりを狙いやがる。まったく、最低のやつらだよ」
殴られ続けた肩を学生服の上から労わるようにさすり、シマちゃんが嘆く。
「でも『空気椅子の刑』よりはましだよね」
「空気椅子。あれは地獄だ。てか、ここ最近のローテーション的に、明日あたり執行されそうだぜ」
「マジっすか? ああ、もう死にたい」
「負けるな、カジくん。あんなド低能な不良連中、どうせ中卒。いずれオサラバさ。あと二年の辛抱だ。二人で励まし合って、この地獄をやり過ごそうぜ」
「シマちゃんは強い人だね。僕はもう限界かも……」
僕とシマちゃんは、二年生で同じクラスになってから、クラスメイトの不良連中に酷いイジメを受けている。今日も放課後の校舎裏で、正座をして両腕を真上に上げ続けるという『正座手上げの刑』を受けて来たばかりだ。
一匹のカラスが夕空を乱舞している。
「そうそう、きのうの夜も鳥の夢を見たんだ」
シマちゃんが、夕空を見上げ、思い出したように話し出す。
「鳥の夢? また夢の中で空を飛んだの?」
「うん、手をこうやってばたつかせると、足元から宙に浮く。上空に舞い上がったら風に乗る。風に乗ったら、あとは風を読みながら、大空を自由自在にスーイスーイさ。電線と電線の間をピューーっとすり抜けるときなんか爽快だぜ」
シマちゃんが、身振り手振りを交えて空を飛んでいる様子を説明する。シマちゃんの鳥の夢の話は、妙な臨場感がある。あり過ぎるから、聞いていて、ちょっと引く。
「昔からよく見る夢だけれど、最近は特に頻繁に見る。カジくん、俺、いよいよ確信したよ。俺の前世は鳥だ。でなければこんなにリアルに、こんなに頻繁に見ないよ」
カア~、カア~。鉄塔の中腹にとまったカラスが、僕たちを見下ろしている。
――――
不良連中のイジメは、日増しにエスカレートして行った。正座手上げの刑、空気椅子の刑、殴る、蹴る、などの肉体的なイジメに加え、人前で卑猥な言葉を言わせる、屈辱的な行為をさせる、それをスマートフォンで撮影してSNSに拡散する、などの精神的にキツいイジメが増えていった。
僕とシマちゃんは、いつものように夕暮れの河川敷に二人並んで座っている。
「……」
「……」
会話がない。イジメの内容を半分ちゃかしながら話せていた頃が懐かしい。陰惨なイジメは言葉に出来ない。したくない。
「……ねえ、カジくん。風船おじさんって知っている?」
おや、久しぶりにシマちゃんが話しかけてきた。
「風船おじさん? 何それ、知らない。漫画? アニメのキャラ?」
僕は、せっかくの会話が途切れないように、質問を質問で返す。
「違うよ。昭和に実在した人物さ。昨日の夜、ネットサーフィンをしていたら、彼の記事を発見した。ヘリウム入りの風船を多数つけたゴンドラ『ファンタジー号』に乗り、アメリカ大陸を目指して、太平洋横断の旅に出た偉大なる冒険家さ」
「風船で太平洋横断? マジっすか? で、冒険は成功をしたの?」
「いいや、日本を出発した翌日に、海上で消息を絶った」
「そりゃそうでしょうよ。自殺行為だ。ぎゃはは」
「カジくん。君とは長い付き合いだけれど、今の発言には正直ガッカリしたよ。君は、風船おじさんをただの奇人変人と笑うのかい。ふん。いいさ。笑いたければ笑うがいい。でも、俺は笑わない。なぜなら俺も彼と同じ大空の住人だからだ」
「大空の住人?」
「風船おじさんを乗せたファンタジー号は、飛行に失敗をして海の藻屑と化したわけではない。別の次元に突入をしたのだ」
「別の次元??」
「そう、ファンタジー号は、俺たちがこうしている今も、別の次元を漂っている。この重力が支配する世界から解放された風船おじさんは、これからも別の次元を永遠に漂い続ける」
「シマちゃん、大丈夫? 連日のイジメで、かなり追い詰められているみたいだけど?」
「大丈夫に決まっているだろう。あんなド低能な不良連中、どうせ中卒。いずれオサラバ。あと二年の辛抱……」
「そうだね。二人で励まし合って、この地獄をやり過ごそうね」
カア~、カア~。鉄塔の中腹にとまったカラスが、大空に飛び立った。
――――
三日後。家で勉強をしていると「今夜9時に、市民病院の屋上に来て欲しい」というシマちゃんからのライン。シマちゃんは僕の親友だが、こうして夜中に呼び出されるのは初めてのことだ。いったい何ごとだろう?
親には内緒で自室の窓からこっそりと部屋を抜け出し、僕は、シマちゃんが指定した時間に指定された場所に着いた。シマちゃんは、この田舎町では一番高い建物である12階建ての市民病院の屋上で、僕を待っていた。
「やあ、カジくん」
「……なんの真似だい、シマちゃん」
オレンジ色の照明が二つあるだけの、ひと気のない屋上で、保険屋の店頭でちびっ子に無料でプレゼントされるような安っぽい風船を、背中から10個ほど浮かせたシマちゃんが、僕の眼前に立っている。
「え、なにって?」
「……背中のそれだよ」
「ああ、これ、これは俺のファンタジー号さ」
「いや、普通に言うなよ。確か、風船おじさんのファンタジー号は、巨大なヘリウム入りの風船を多数つけたゴンドラ式の乗り物でしょう? 僕には、君の背中のそれが、ただの百円均一の風船にしか見えないけど。てか、シマちゃん、今からここで何をする気だい?」
「何って? あはは。決まっているだろう」
シマちゃんは、屋上の金網越しに、まばらな星が瞬く夜空を眺め、清々しくそう言った。
「イジメはあと二年の辛抱だろう? 二人でこの地獄をやり過ごす約束だろう? なあ、シマちゃん、はやまるなよ」
「あはは。嫌だなあ、カジくん。はやまるってどういうこと? マジ意味分かんねえ。遅かれ早かれ、俺はこうして空を飛ぶ運命だったのさ。なぜなら俺の前世は鳥だから。そして風船おじさんと同じ大空の住人だから」
なんだよ、その満面の笑みは。そうやって吹っ切れたように笑うのをやめてくれよ。僕は深い溜息をついた後、ダメもとでもう一度だけ説得を試みる。
「ねえ、シマちゃん、どうしてもかい? どうしても旅立たなければならないのかい?」
すると、足元に転がるパーティーグッツのヘリウムガスの缶を蹴とばし、シマちゃんはこう言った。
「旅立つのではない。俺は、大空に帰るのさ」
二人でどれだけ酷いイジメにあっても、いつも平気な顔で僕を励まし続けてくれたシマちゃん。でも本当は、僕なんかよりずっと誇り高い男なのだ。さぞ辛かったろう。さぞ悔しかったろう。かわいそうなシマちゃん。僕は親友への説得を断念した。
「カジくん、俺と一緒に行かないか? 風船ならまだある。俺、カジくんとならいつまでも上手くやれる気がする。君がいれば、どこまでも飛べる気がする」
シマちゃんが、僕に手を差し伸べる。
「遠慮しておくよ。僕はこうして重力に翻弄されて生きるのが性に合っている」
僕は、大きくかぶりを振る。
「そうかい。とても残念だよ」
これが僕とシマちゃんの最後の会話だった。僕は、シマちゃんに背を向けて歩き出す。背後ではシマちゃんが、まるで講談師の口上のような口調で何やら叫んでいる。
「1992年。11月23日。我が同志、風船おじさんは、ファンタジー号に乗り、琵琶湖畔よりアメリカ大陸を目指し、太平洋横断の旅に出た!」
ガシャガシャガシャ。背後からシマちゃんが金網をよじのぼる音。
「順調に飛行を続けるが、翌朝6時の妻との会話を最後に携帯電話は不通。24日深夜には、海上保安庁の捜索機が、宮城県金華山沖の東約800キロメートル海上で飛行中のファンタジー号を確認。その高度は2,500メートルで、高いときには4,000メートルに達したと言う!」
シマちゃんの下手な口上を聞いていたら、何故だか胃がムカムカしてきて、僕は、口の中に溜まったネバネバした唾をペッと足元に吐く。
「約3時間の監視のなか、手を振っていたこと、ゴンドラの中の物を落下させて高度を上げたこと、遭難信号も消えたことから、飛行継続の意思があると判断して11時半に捜索機は追跡を打ち切る。以降、ファンタジー号は完全に消息を絶つ!」
パン! パン! パン! 金網の上部に取り付けてある有刺鉄線で風船の割れる音がする。
「風船おじさんは死んだのだろうか? いいや、彼は死んでいない! ファンタジー号は、別の次元に突入し、今もこの大空を飛び続けている! 風船おじさん、待っていろ、今から同志がそちらへ行くぞ! あなたと同じ大空の住人が! 俺が! 空へ帰るぞ!――ええいクソ、この有刺鉄線が! じゃまだ! 金網を乗り越えられやしない! チクショウ、風船が次々に割れていく。これじゃあ飛び立てやしない! 痛い! 痛いぞ! バカヤロウ! この有刺鉄線め!」
大空に飛び立つ寸前で有刺鉄線に行く手を阻まれているシマちゃんの悲痛な叫びを聞きながら、僕は一度も後ろを振り返ることなく、下界へ降りる階段を走った。
――――
翌日からシマちゃんは学校に来なくなった。不良連中の僕へのイジメは、シマちゃんがいなくなったので二倍になった。今日も今日とて、放課後の校舎裏で理不尽な暴力を受け、連中が消えた後も、しばらく動くことが出来ず、地面に大の字に倒れ伏している。体じゅうが小さく痙攣しているのが分かる。
シマちゃん、そっちはどうだい? こっちは相変わらず地獄だよ。でも僕、決めたんだ。今日も、明日も、明後日も、ここでこうして生きて行く。無様に大地にしがみつき、土の臭いを嗅ぎ、重力に翻弄されて、それでもこうして生きて行く。僕は、まだ帰らない。てか、僕には、帰り道なんてない。だって僕の冒険の旅は、まだ始まってもいないのだから。さあ、立ち上がれ。負けてたまるか。