第十五話 この名に懸けて
呪詛の作用により、頭の痛みを訴えて気を失ってしまったイリア。
彼女が目を覚ましたのは、その日の夕方だった。
ルーカスは騎士団本部へ戻るつもりでいたのだが——結局、イリアの容態が気になって一日休暇をもらう事にした。
西空が茜色に色付く黄昏時——。
イリアが眠るベッドの横で、椅子にもたれ書類を読みふけっていたルーカスは、固く閉じた瞼がゆるゆると開かれるのに気付いて、手に持った書類をサイドテーブルへと置いた。
勿忘草色のまどろんだ瞳が宙を彷徨い、様子を窺っていると視線が交わった。
「……ルーカスさん?」
「おはよう。気分はどうだ?」
状況を飲み込めないのか、イリアがぼんやりとこちらを見つめていた。
数十秒ほどそうした後、彼女は慌てたように体を起こした。
「ごめんなさい、また迷惑をかけてしまったみたいで」
眉尻と口角が下がり、しゅんとした様子を見せている。
気を失った時のことを思い出したのだろう。
「君が気に病むことじゃない。そんな事より、痛みや不快感があったりはしないか?」
「少しぼーっとするけど、大丈夫です」
「それなら良かった。でも無理はしないでくれ」
ルーカスはイリアが心配だった。
大丈夫だと言っていても、呪詛の事がある。
ルーカスは銀糸の輝く頭へ手を伸ばし、優しく撫でた。
イリアがほんのりと頬を赤らめて、恥ずかしそうにして——うっかり双子の妹たちにする様に触れてしまった事に気が付く。
彼女の身を案じて無意識に出た行動だ。
ルーカスは慌てて手を戻した。
「あ、あの、ルーカスさん。私に何があったのか……わかりますか?」
上目遣いに尋ねて来たイリアの瞳は、不安に揺れている。
——彼女の身に起きた事を話さなければならない。
酷な真実ではあるが、必要な事だ。
ルーカスは表情を引き締めて、イリアと向き合った。
「その事だが……君には記憶を封じる呪詛がかけられている。頭痛はその弊害で、無理に思い出そうとすると……命に関わるそうだ」
「呪詛……ですか」
「解呪できれば良かったんだが、いまのところ術がない。命の危険がある以上、俺が知る君の事を教える事は出来ない」
イリアの表情が曇り、きゅっと唇が引き結ばれる。
やるせない思いがこみ上げ、ルーカスは視線を落とし拳を握りしめた。
「……すまない」
何も出来ない事に対する、無力感——。
自分を責めても解決しないとわかっているが、そうせずにはいられない。
握る拳に力が籠る。
「ルーカスさんのせいじゃありません。そんな風に握ったら痛いですよ」
ベッドの横に佇むルーカスの傍へ、イリアが体を寄せた。
きつく握った右手に、自分のものではない温かな体温を感じて。
視線を向けると、細くて柔らかな両手が、右手を優しく包んでいた。
辛いのはイリアのはずなのに。
そんな状況でもこちらを気遣う彼女の優しさが、棘となって胸に刺さる。
「私は大丈夫です。だからそんな顔しないで下さい」
「——大丈夫な訳、ないだろう……!」
気丈に振舞う彼女に思わず語気を強めてしまった。
顔を上げると、無理にでも笑おうとするイリアの姿がそこにあった。
(君は——記憶をなくしても変わっていない)
今も昔も、自分のことより他人の心配をして。
泣きたい時に泣けず、弱音を吐かず、全て一人で背負い込もうとする。
こんなことになったのもきっと、周りに迷惑をかけまいと行動した結果だろう。
(イリアは……優しすぎる)
「怖くて不安な気持ちが、ないわけじゃないですけど……本当に、大丈夫ですよ」
(——嘘だ)
言葉とは裏腹に、触れる手が僅かに震えていた。
記憶がなくて、見知らぬ場所で、呪詛という不安まで知らされて。
それで平然としていられるわけがない。
ルーカスは固く握った拳を解き、震える彼女の手をそっと握った。
「平気なふりをしないでくれ。辛いときは言っていいんだ」
勿忘草色の瞳が大きく揺れる。
イリアは何か言いかけて——けれども、何も言わず俯いた。
弱さを曝け出す事、それが彼女にとって簡単でない事はわかる。
記憶がないのだから尚更だ。
それでも、こんな風に強がって我慢するイリアの姿は見ていられなくて。
「……君が、心配なんだ」
ルーカスは片膝を付き跪いた。
イリアの左手を握った右手を額の位置に掲げ、瞼を閉じる。
——これは騎士が忠誠を誓う時の姿勢だ。
その態勢のまま、言葉を続ける。
「過去を話す事は出来ない。だが、君の不安は理解できる。
だから——この名に懸けて誓おう。
この先何があろうと俺は——ルーカス・フォン・グランベルは君を助け、君の力になると」
イリアの指先が小さく跳ねた。
ルーカスは瞼を開くと、不安を映す勿忘草色の瞳を真っ直ぐ射抜く。
「どうして、そこまで……」
イリアは瞳を潤ませて、唇を嚙んでいた。
どうしてと問われれば、純粋にそうしたいと思ったからだ。
だからと言って、軽い気持ちで誓ったのではない。
「……君は恩人であると同時に、大切な友人だ。困っていたら力になりたいし、頼って欲しい。
もし俺を信じられないと言うのなら、この剣を捧げよう。
そして君の騎士となり、決して君を裏切らず、守ると誓う」
かつて絶望の淵にいた自分をイリアが救ってくれたように、今度は自分が彼女を助け、救う存在になりたい。
騎士として、イリアの為にこの先の人生を捧げても良いと思った。
覚悟もある。
「ずるいです……そんな風に言われたら、私は……」
イリアを思い遣る嘘偽りのない気持ちが伝わったのだろう。
彼女の瞳から、ぽろぽろと涙が流れ落ちた。
「泣きたい時は泣いていいんだ。気持ちを押し殺して、我慢する必要なんてない」
「……っ」
肩を震わせ、声を漏らして、堰を切ったようにイリアが涙を流し始める。
ルーカスは彼女の隣へ寄り添って座り、自分よりも小さな震える体を、真綿で包むように両腕で包み込んだ。
声を殺して泣くイリアの背中を、優しくリズム良く叩く。
そうしていると——イリアはルーカスの胸に縋りつき、涙と共に胸の内に秘めた「怖い」「痛い」という気持ちを吐き出した。
目覚めてからこれまで、幾度となく不安な気持ちを抱いた事だろう。
知らない環境で、いくら親切な人がいて不自由はしなかったとしても、だ。
そんな時に、任務で仕方がなかったとはいえ、傍にいられなかった事が悔やまれる。
——コンコンと、部屋の扉を叩く音がした。
返事をする前に扉が開かれ、ふわふわの長い桃色の髪を靡かせたシェリルが顔を覗かせる。
「お兄様、イリアさんは——」
鮮やかな紅色の瞳がこちらへ向く。
嗚咽を漏らし、涙を流すイリアは妹の訪問に気付いていない。
ルーカスが左手の人差し指を立て口元に当てると、動作の意味を汲み取ったシェリルが静かに頷き、音を立てないように扉は閉じられた。
イリアはひとしきり泣いた後、ルーカスから体を離して顔を上げた。
泣きはらした瞳と目元は赤く、頬も紅潮しているが、落ち着いた様子だ。
「大丈夫か?」
「……はい。泣いたらちょっとすっきりしました」
彼女の表情は晴れやかだった。
気持ちを吐き出したことで少しは不安が消えたのだろう。
良かった——と、ルーカスは心から思った。
「ごめんなさい、みっとも無いところを見せて。……それに服も汚してしまって」
「何てことないさ、服は洗えばいいだけだ」
気にする必要はないと、ルーカスは笑って見せた。
とはいえ、この状態ではイリアも気になるだろうし格好もつかないので着替えは必要だ。
先ほど部屋を訪れたシェリルと、それからシャノンとリシアも、イリアの様子は気になるところだろう。
三人を呼び退室の口実にしようとルーカスは考えた。
部屋に備え付けられたハンドベルを鳴らし、音を聞きつけ訪れた侍女に三人を呼ぶよう言伝る。
程なくしてやってきた双子の姉妹とリシアは、皆一様にイリアの心配をしており、部屋に来るなり彼女を取り囲んだ。
「心配したんだから!」と、シャノンがイリアに抱き着き、シェリルは体調を案じて質問を投げ、リシアが診察をする様子が見受けられた。
「それじゃ、書類の続きがあるから俺は部屋に戻るよ」
ルーカスが告げると、イリアを取り囲む三人は「あとは任せて(下さい)!」と、意気込んだ。
「あの、ありがとうございました」
イリアから今日、何度目か知れない感謝の言葉が伝えられる。
彼女に視線を向ければ、目線が結ばれる。
その瞳に不安や、苦しみの色は見られない。
少しでも彼女の力になれた事を嬉しく思って、ルーカスは頬を緩ませた。
「ああ。また夕食の席でな」
書類を手にルーカスは部屋を後にする。
廊下の窓に目を向ければ、茜色だった空はすっかり夕闇に包まれ、邸宅内には照明の温かな光が灯り始めていた。
——彼女の騎士として、この名を懸けて。
イリアを助け、イリアの力になる。
彼女が何に巻き込まれているのか。
真実に何が待ち受けていようと、この誓いが揺らぐことはない。
想いを胸に。
ルーカスは自室までの道のり、光に満ちた廊下を歩んだ。
だが——行動の奥底にある感情には、変わらずに蓋をした。
「面白い!」「続きが読みたい!」など思った方は、ぜひブックマーク、下の評価をよろしくお願いします!
応援をモチベーションに繋げて頑張ります!
是非、よろしくお願いします!




