第十三話 希望≪déesse≫
今回はそこまで病んでいません。
病んでない、けど……。
悪夢の終焉は、少女の取った予想外な行動が大きなきっかけとなった。
それは、眠りという安らぎの泉からルーカスの意識が浮上した時のこと。
意識が覚醒して行くのを感じて。目覚めたくない。このまま揺蕩っていたい。と、惰弱にも思いながら、ゆるゆると瞼を開くと、何者かの輪郭がおぼろに見えた。
耳の奥で「くははッ!」と不快な笑い声が木霊している。
(いつもの幻。ヤツの幻影だと思った。だから——)
影が落ち、近付く気配を察知したルーカスは反射的に起き上がり、拳を握った。
そして、憎しみを籠め、殴り倒すつもりで拳を振った。
だが、どうせ幻だ。この拳は届かない。
ルーカスはそう思った。
しかし、予想に反して拳に衝撃があった。鈍い音がした。
殴ったものに、実体がある。
ここに来てから初めての体験だった。
何かが「ドサリ」と床へ倒れる。その何かの元を離れて転がった物が「カランカラン」と高い音を響かせた。
「——は……?」
自分は一体、何を殴り倒したと言うのか。
ルーカスは瞬きを繰り返して〝何か〟を視界へ入れた。
飛び込んで来たのは——。
糸の様に細く光を反射して輝く銀の髪、穢れなき純白に金の紋章が施された衣裳。それを纏った少女が、へたり込む姿だった。
一目でわかった。あの少女だと。
うつむき加減の顔。表情は無。読めない。
陶磁器のように白い肌は頬が不自然に腫れて傷があり、鮮やかな赤が一筋、流れ落ちている。
この状況を作り出したのは紛れもなく自分だ。
だが、何故。
何故、自分が正気を失って錯乱状態の時に現れて、鎮めてくれるあの少女が今いるのか。
鉄格子を越えて、ここにいるのか——と、ルーカスは大いに混乱した。
少女は仮にも恩人と言って差し支えない存在だ。
彼女の歌がなければ自分はとうに、絶望に食い殺されていただろうから。
そんな恩のある相手に暴力を振るってしまった。とてつもない間違いを犯した気持ちになる。
(事故に近いものだが、騎士として……いや、人としてあるまじき行為だ)
「——ごめん、ごめん」
ルーカスは膝を折って頭を下げた。
罪悪感で胸がいっぱいだった。少女を見るのが怖くて、しばらく顔を伏せていた。
「大丈夫……か?」
恐る恐る、目線を少女へ向けると、銀糸の前髪の合間から勿忘草色の瞳が覗いていた。
いつも付けていた白銀の仮面は、床だ。
床に転がっている。
——瞳が、ルーカスを射貫く。
淡く透き通る、優しい色彩。紅眼とは正反対の色を持つ瞳。
一片の淀みもない神秘的な輝き。ドクリと心臓が跳ねる。
初めて見た時もそうだったが、抗えない魅力にルーカスは惹き付けられた。
釘付けにされて、動けなかった。
(瞳は心の鏡。その人の心を映し出すと言うが……本当にその通りだ。
抗えない魅力の理由も、今ならばわかる。彼女のもう一つの神秘【女教皇】。【法王】を宿す教皇聖下と同じく、女神の代理人である彼女に、使徒の本能が引き摺られたのだろう)
見惚れて、ルーカスが動けないでいると、少女が赤くなった頬へ手を添え、そよ風のように穏やかで短い旋律を紡いだ。
手のひらから柔らかな新緑の光が放たれ、同色に染まったマナが、舞う。
光に包まれて、頬は肌の色を取り戻している。
治癒術だ。貴重な治癒術の使い手であった事に僅かに驚きつつ、負わせた傷が綺麗に治ってルーカスは安堵した。
少女が無言、無表情のまま視線を逸らす。
と、床に転がる仮面を拾って、何事もなかったかのように装着した。
そうして立ち上がり、鉄格子の方へ歩き始める。
ルーカスはハッとした。少女は立ち去るつもりだ。
まだきちんと謝罪も出来ていないのに、このまま見送れば後悔する。
「ま……待ってくれ!」
咄嗟に手を伸ばして、少女の腕を捕まえた。
小さな肩が跳ねる。それほど強い力で掴んだつもりはなかった。
けれど、さっきの今で怖がらせてしまった可能性は十分にある。
ルーカスは掴んだ手の力を緩めて「ごめん」と呟いた。
足を止めた少女が振り返る。彼女が何を思っているかは、やはり読めない。
だとしても、まずは謝らなければ——と考えて、先程よりも深く頭を下げた。
「ごめん、本当に。心から謝罪する。君を、傷つけるつもりはなかった」
許して欲しいと思うが、そんなこと口が裂けても言えない。
ルーカスは待った。彼女からの言葉を。
ひたすら「ごめん」と繰り返して、頭を下げた状態で待ち続けた。
(どれくらいそうしていたのか……自分でもわからない)
——少女は長い、長い、沈黙を経て。
ようやく音を紡いだ。
「…………私は、平気。貴方は、大丈夫……?」
澄んだ高音域が鼓膜を震わせる。
顔を上げれば、仮面に隠されているせいもあるが、相変わらず表情の読めない少女がほんの少し首を傾げていた。
逆に、こちらを気遣う様子を見せた彼女に、何とも言えない気持ちになる。
「大丈夫か」と聞かれれば、お世辞にも「大丈夫だ」とは言えない。
こういう時は取り繕ってでも平然と振舞うべきなのに、そうする事がルーカスには難しかった。
未熟で自己本位な己に嫌気がさす。奥歯を食いしばり、瞼を伏せた。
「……泣かないで」
「泣いてなどいない」と、ルーカスは思ったが、少女の——恐らく、指先が頬に触れて。
つうっと流れる雫を掬った。
「もう少し……眠る?」
優しく問う声に、ルーカスは首を横に振る。
瞼を開くと、懸命に涙を拭おうとする少女の姿が映った。
「今は……いい」
目覚めたくないと思っていたはずなのに、不思議だ。
それよりも、思ってしまう。
「……君と、話を……」
少女と話がしたい、と。
置かれた状況の確認もそうだが——。
今日に至るまでのルーカスの暴走を〝歌〟で鎮めた少女。
自分を気遣う様子を見せる「この少女の事が知りたい」とルーカスは思ってしまった。
(——彼女は、絶望の淵にいた俺を救った、光。……俺の光……希望……。
……イリアは、俺の……俺だけの——)
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