第十話 見知らぬ場所
そよそよと何処からか吹き込む柔らかな風が、頬を撫でる感触に、沈んだ意識がゆっくりと覚醒していく。
——瞼を開いて最初に映り込んだのは、見知らぬ天蓋だった。
(ここは……私は、確か——)
覚醒したばかりで上手く思考が働かない。
でも、少しずつ、ゆっくりと直前の事を思い出してみる。
リシアと名乗った少女との出会い、花が咲いたような笑顔、禍々しい黒いオーラを纏った獣、怒号に血飛沫、そして——歌。
(……歌……)
あの時は不思議な感覚だった。
眼前に広がる凄惨な光景と悲鳴に、何も出来ず終わるのは嫌だと思った瞬間——力があふれ、旋律と詩が浮かんだ。
まるで昔から知っていたかのように。
それ以前の事は——思い出そうとすると、やはり記憶に霞が掛かったような感覚で、無理に考えようとすれば頭が痛んだ。
そよぐ風が肌をくすぐり、流れに誘われて窓辺を見れば暖かな日差しが差し込んでいた。
起き上がり、ベッドから一歩踏み出してみる。
一歩、また一歩と進んで、窓辺に辿り着くと、開け放たれた窓からテラスへと足を運ぶ——。
外へ出ると一瞬、眩しさで視界が白に染まったが、明るさに目が慣れるとそこには、四季の花々と木々に彩られた美しい庭園が広がっており、目を奪われた。
「綺麗……」
力強く咲き誇る美しい花と、景観美を考えて整えられた木々が見事な美を演出していた。
吹き付ける風が銀の髪糸を攫う。
靡く髪を抑え、欄干に手を添えて、景色に魅入った。
(ここはどこだろう? 私は……どうしてここに?)
振り返って、部屋の様子を確認する。
上品で気取らない、品の良い家具で内装が整えられている。
ベッド以外に、くつろぎのスペースもあって、多分一般的な部屋よりも広いと思われた。
そして、テラスから見える外観は、部屋と直下の地面までは距離があり、ここが二階である事を悟らせた。
左右に目を向けると壁に窓があって、部屋らしき場所がたくさん見え、大きな邸宅である事が窺える。
庭園もそれにふさわしく広く、邸宅の境界線はずっと先だ。
境界線の先には他の邸宅の屋根が見え、はるか先には大きな建物——お城の様な建物が微かに見えた。
部屋にも、外の景色にも、もちろん見覚えはない。
記憶が抜け落ちてしまっているのだから当然とも言える。
無我夢中で歌ったのは覚えているけれど、ここにいる経緯はまったく思い出せなかった。
「お目覚めに……なられたのですね」
急に背後から女の人の声が聞こえた。
くるり、と振り返り確認すると、金色の髪を束ねた濃紺の瞳の若い女の人がいた。
黒地のワンピースタイプの服に、白のエプロンを着用している。
(この家の使用人……侍女さん?)
その人はこちらを見て——何故か動きを止めた。
(どうしたんだろう?)
首を傾げ見ていると、暫くしてからその人がハッとした様に身じろいだ。
「お医者様をお呼びしますね。お嬢様、どうかこちらへ。お部屋の中にてお待ち下さい」
「えっと……、わかりました」
お嬢様と呼ばれた事に、言い知れぬくすぐったさを覚える。
言われた通り部屋へ戻ると、寝ていたベッドへと腰を下ろした。
自分の置かれた状況を把握出来ないが、目覚めた時の部屋の様子や、訪れた侍女と思われる女の人の丁寧な振る舞いから、きっと悪い事にはならないだろうと思った。
考えを巡らせていると、彼女が小走りで駆け寄り、ベッドの横のサイドテーブルに置いてあった白の布地を手に取って広げ——ふわり、と羽織らせてくれた。
ショールのようだ。
「こちらで少々お待ちください。すぐに戻ってまいります」
そう告げて、彼女は部屋を後にした。
扉が閉まるとパタパタと走る足音が聞こえ、遠ざかっていく。
羽織ったショールが暖かい。
寝間着は半袖で、少し肌寒い感じもあったのでちょっとした気遣いが嬉しく、心も温まるのを感じた。
——程なくして、先ほどの侍女と一緒に男性が部屋を訪れた。
顎と口周りに、髪色と同じグレーの髭を蓄え、 緑色の瞳の目元に皺が刻まれた熟年の男性だ。
男性は白衣を身に纏っており、「ファルネーゼ卿」と言うお医者様だった。
そしてここは「グランベル公爵家」らしい。
聞き覚えは、やはりない。
ファルネーゼ卿と対面する形で、いくつかの簡単な問診が行われた。
怪我を負った箇所は痛まないか、貧血はないかと言った質問や、魔術による身体状況の確認をされた。
その結果——。
「怪我も治っているし、これと言って異常はなさそうだね」
異常なしと診断が下った。
診察は終始、温和な雰囲気で行われたが独特の緊張感があり、終わった事にほっと胸を撫でおろす。
「どうかな? 何か気になる事はあるかな?」
気になる事と問われ——何も思い出せない事を話すべきか、迷う。
親切にしてくれたとは言え、知らない人に話すのは緊張するし、少し怖い気持ちがあった。
だが寄る辺はなく、隠してもいい事はない。
勇気を出して「実は」と話を切り出す。
「……思い、出せないんです。名前も、自分が誰なのか……も。私を治癒してくれたあの子、リシアさんと出会う以前の事が、何も」
「記憶が……ふむ」
隣に控えた侍女が、驚きの表情を浮かべる。
ファルネーゼ卿は顎鬚を撫でながら考えを巡らせているようだった。
沈黙が流れ、もどかしさが募る。
(どう……思われたかな)
この人たちは「面倒な事になった」と、困った笑いを浮かべるだろうか。
(何もわからないのに、もし見捨てられたら——。
この先、どうすればいいのかな……)
不安が心に降り積もり、自然と顔が下を向いてしまう。
ぎゅっと拳を握り、瞼を閉じた。
——すると、頭に温かな何かが乗せられた。
「記憶がなくて心細かっただろうね。何、心配はいらんよ」
ファルネーゼ卿の大きな手だった。
見れば穏やかな笑みを浮かべて、安心させるように頭を撫でている。
「儂も力になる。公爵家の皆様もきっと君の力になってくれる。だから安心していいんだよ」
高めの声でゆっくりと、ファルネーゼ卿は話した。
(優しくて、あったかい)
不安に思っていたのが嘘のように心が晴れて行く。
意図せず瞳から、雫が一筋流れ落ちた。
「……ありがとう、ございます」
リシアさん、侍女さん、お医者様——記憶を失って、目覚めた時に出会ったのは幸運にも優しい人たちだった。
優しさが嬉しかった。
安心したら涙が止まらなくて、次から次へと溢れては落ちた。
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