PROLOGUE 月夜の記憶
漆黒の闇が世界を包む、夜。
双子月が輝く寒空の下、「ずぶり」と嫌な音がした。
ぽたり、ぽたり。伝う赤。
刃物で貫かれたと理解するのに、そう時間は掛からなかった。
「……どう、して……」
力のない声が零れる。
焼ける様な痛みに、自分の顔が歪むのがわかった。
腹部から生暖かい鮮血が流れ落ち、纏う衣服を紅く染めて行く。
迂闊だった。
咄嗟の事とはいえ、身構えていれば反応が出来たのに。
〝彼〟が自分を傷付けるなど、考えてもいなかった。
(だって、あなたは私の——)
ドンっと、強い力で肩を押される。
衝撃に耐えられず身体が後ろへと傾いた。
背後は断崖絶壁、下は海だ。
バランスを失った身体はまるで吸い込まれるかの様に、呆気なく落ちて行く。
「ごめんね。でも、何事にも犠牲はつきものだから」
朦朧とした意識で落ち行く最中、靡く銀糸の合間から見えたのは——。月明かりに照らされ、悲しげに微笑む彼の姿。
(……ノ、エル……)
愛しい大切な人。彼の選択は、彼自身のために非ず。
自分達に背負わされた宿命から来るものと、わかっていた。
止めなければいけない。
ここで躓くわけにはいかない。
なのに……身体から力が抜けていく。
(……ああ。こんな事なら、もっと、早く……)
後悔が胸に落ちた。
残された力を振り絞り、忍ばせた魔耀石の宝石を握り締める。
思い浮かべるのは、あの人。
「困ったら、いつでも頼ってくれ」と言った〝光〟。
(……ルー、カス……)
彼の瞳。柘榴石の輝きを思い起こしながら、祈る。
どうか貴方に届きますように、と。希望へ繋がる可能性に懸けて。
そうして〝————〟の思考は、宝石から放たれた光と共に白の濁流に飲み込まれ、意識は闇に沈んでいった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「上手くいったみたいね」
彼女が落ちて行く様を見つめていれば、背後から鈴のような高い声が聞こえた。
振り返ると、小柄な少女と思われる人物がそこにいた。
黒いフードを被り、月明かりがフードの影を作り出していたため顔は伺えないが、それが誰であるのか、僕はしっかり認識している。
「本当に、ここまでする必要あったのか?」
「大ありですよ~。あの方の精神力の高さは異常ですもん。直接ぷすっとしてやっとどうにかなるレベルですよ?」
「……僕にこんな事までさせたんだ。抜かりないんだろうね」
「大丈夫ですって。彼らにもしっかり連絡してあります。計画通り今頃、崖下で貴方の大切な宝石を手厚く保護しているはずです。だからなーんにも心配なさらないで下さい」
口元に手を添え、少女がくすりと笑う。
それを見て、自分の眉間に皺が寄るのを感じた。
嘘——ではないだろう。
少女のことは信頼している。
これが必要である事も理解していた。
でもやはり、自分の手で彼女を傷つけた事実が、棘となって胸を痛ませる。
(かといって、他のやつらに任せられるものか。僕以外の誰かが——想像しただけで殺したくなる)
僕は彼女の血漿に染まった左手を見つめ、ギリッと握りしめた。
もうすぐ、もうすぐなんだ。
あと少しで全てが整う。
そしたら僕たちがこんな思いをすることもなくなって、馬鹿げたしがらみから解放される。
(だから——)
そう思考した直後、突如として後方、海の方から光が溢れた。
光に呼応するかの様に大気のマナが震えている。
これは——魔術だ。
誰かが魔術を発動しようとしている、その兆候だ。
(一体、誰が……?)
振り向けば、光は光度を強めて閃光を放ち——眩しさに目を覆ったところで、弾けるように消えた。
光源は崖下で、彼女が落ちた付近だ。
ドクリと心臓が脈打つ。
……嫌な予感がした。
想定外の出来事に、焦燥感を募らせる。
確認のため崖に向かおうとしたところで、彼女が落ちたそこから白いローブを纏った三人の人物が風を纏って姿を現わした。
魔術を使って上がって来たのだろう。
双子月が雲に隠されてしまったため、暗闇に紛れて容姿ははっきりと見えないが、長身の男が二人、小柄な少女が一人の組み合わせだ。
男のうち一人は魔術に用いる杖を右手に持ち、もう一人は鞘に納められた剣を両手で抱えるように持っていた。
三人は僕と黒いローブの少女を認識すると、膝を折って頭を下げた。
「何があった?」
「申し訳ございません。まだ動けるとは思わず……」
「瞬間移動の魔術です。純度の高い魔輝石を所持していたようで、油断しました」
「ごめんなさい、主様」
「……あらら、面倒な事になっちゃいましたね」
申し訳ありません、と頭を下げる三人を尻目に、その口で大丈夫だと言ったのは一体誰だ、と咎めるように黒いローブの少女を思い切り睨みつけるが、少女は怯んだ様子もなく笑みを保っていた。
「心配しなくてもばっちり追跡できるので大丈夫ですよ。ね?」
「はい、星が導いてくれます」
白いローブの小柄な少女が頷いた。
【星】の導きならば、間違いはないだろう。
それでも、不安は消えない。
手からこぼれ落ちた宝石は、ここにはないのだから。
ぐっと握りしめた両手は、そんな感情を表して、小刻みに震えた。
左手の彼女の血はとうに乾き、赤黒く変色を始めている。
男の一人がこちらを、と鞘に納められた剣を頭上に掲げた。
渡すタイミングを窺っていたのだろう。
掲げているのは、彼女の愛剣。
各処に魔輝石が施された銀の宝剣で、銘はエスペランド。
男から宝剣を受け取り、握る。
細身の見た目に反して重みのあるそれは、彼女の象徴であり十字架だ。
僕は剣を胸に抱き締めて、呟いた。
〝————〟と。
零れ落ちた、宝石の名を——。
これは月夜の出来事。
雲の合間から双子月が顔を出し、青き〝蒼月〟と、赤き〝紅月〟が、漆黒の闇の中、煌々と光り輝いていた。