プロローグ
拙著『首の世』(https://ncode.syosetu.com/n0839id/)の続編になります。
「君を課長にするという話だが、あれは無かったことにする」
桜木は驚いて、喫煙室の濁った空気を思い切り吸ってしまった。
「なに、いずれは上がれるさ。ただ今すぐではないというだけで」
人事部長が、口の端から煙を漏らしながらそっけなく言う。
桜木は咳き込んで、顔を紅潮させた。
興奮しながら、反論の言葉を懸命に探す。
そこへ、どこからともなく女性の声がする。
『はじめから期待値の低い打診でした。今さら感情を乱すほどのことでもありません。ここは、素直に引き下がってもよろしいかと』
話しているのは、桜木の使用する補助頭脳、蒼月だった。
喫煙室という密室には、桜木と部長の二人だけだが、彼の脳内で、AIがリアルタイムで彼に助言しているのだ。
『あるいは、シナプスへ鎮静物質を放出しますか?』
冷酷な言葉を放つ機械にゾッとして、桜木は何とか自力で平常心を取り戻した。
「わかりました。ですが、どういった経緯で?」
どこまで本当のことを教えてくれるかわかったものではない、と思いながらも、桜木はへりくだって聞いた。その態度に、部長は機嫌をやや上向かせて話し出した。
「来年度から我が社の社内規定が変更される。補助頭脳に関して、昨年末以降に発売された最新型首の使用を禁止するというものだ。市場において、一方的に高性能な首を導入すると、公正な取引と健全な経済秩序に悪影響を与えかねないとの見解が、どこかから出たそうだよ」
部長は虚空で指をくるくると回す。
それがどこなのかよくわからないが上の方からである、という意味のようだ。同時に、くるくるぱーとジェスチャーをした。
「膨大な費用もかかる。各社足並みを揃えようではないか、という意図だ。見方を変えれば、政府主導の談合だな。公正取引委員会もゲームの駒にされて、落ちたものよ」
鼻から煙を吐いて、部長はこう続けた。
「おそらくは、政府がイエロー・ラチェット社に弾丸でも積まれたんだろう。シンプルな話だ。これで天下のブルー・ムーンも、企業相手に商売をしたければ金を払わざるを得なくなったわけだ。お触れを出したからには、数年は新型の流通が滞るだろう。まったく非情だよ。国はどの企業が勝とうがお構いなしだ」
桜木は頷いて聞いていたが、しかし、腑に落ちない。
「私が使用しているのは、蒼月2.0という旧式です。それとこれと、どういった関係があるのですか?」
「謙遜するな桜木、私と同じ首だ。ついこの間まで最新機だった」
部長が上目遣いで言う。
だったら尚更、自分が割りを食う謂れはないと言いたげな喧嘩腰の桜木に、部長は続けた。
「3日前、早退した君は、その足で新たな首を購入したね」
試すように、脅すように、部長は抑制された発声だった。
「どうしてそれを?」
「最高位の蒼月は、さぞ使い心地が良いだろう?」
目を皿にして驚きつつも、桜木は間違いを指摘した。
「たしかに、私は先日、蒼月3.0を買いました。しかし、それは自分のためではありません。娘に与えるためのものです」
「まだ首も座っていない乳飲子に首か?」
部長は引き笑いをする。
「火のないところに煙は立たんのだ。少なくとも一年は、大人しくしておいてくれ。取引先との信用に関わる」
「プライベートな行動歴の閲覧は重大な規律違反では?」
桜木は憶測で、情報源を追求した。
「何を言うか。違う違う、たまたま見た人がいたんだ、君が販売店にいるのを。運が悪かったな、君を見たというのが、取引先のお偉方でなければ……」
『たしかに、記憶回路へのハックは検出できませんでした』
蒼月が静かに言う。
「よし、わかった。来年こそは、君の頑張り次第だが、望みのポストを用意しよう。課を飛び越えたっていい。好きなところに行かせてやる。どうだ、悪い話ではないだろう」
桜木はただ力無く頷いて、飲み込むことしかできなかった。
「失礼します」
煙の牢獄から這い出すと、蒼月が珍しく笑っていた。
『あの方についた蒼月はさぞ、発言のファクト・チェックに忙しい毎日を送っていることでしょう』