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91、殺害④

「ザルスシュトラ」

 ザルスシュトラが再びシグのもとに戻ると、シグはすでに身支度を終えていた。彼の目は決して濁っておらず、相変わらず力強く彼を捉えていた。

「行くのか」

「あぁ。ここのやつらにはうんざりだ。お前にもしばらく会いたくない」

「そうか。悪かったな」

「俺は東に向かう」

「ユーリア大陸、ギルド支配地域か」

「あぁ。冒険者稼業でもやってれば、新しい出会いもあるだろう」

「幸運を祈る」

「死ぬなよ、ザルスシュトラ」

「君もな」

 シグは、多くを語らず去っていった。ザルスシュトラは彼を見届けた後、すぐにイグニスのもとに向かった。


「先に礼を言わせてくれ。ありがとう。彼を見逃してくれて」

「意外だな。お前はもっと薄情な奴だと思っていた」

 イグニスは、不敵な笑みを浮かべてそう言った。彼は、エアに向かって話した時よりも、はるかに落ち着いている様子だった。

「カタリナを殺すのは、最初から計画のうちだったのはわかってる。だが、状況は変わるし、はっきりいって、その必要はなかったのではないかと私は思う」

 ザルスシュトラは、イグニスの方に顔を向けず、夜空を眺めながらそう言った。

「だからこそ、だ。俺は清算したいんだ。何もかもを」

「一切の未練を断ち切り、すっきりしたいというわけか」

「あぁ、そうだ」

「その君のわがままの結果として、君はすべてを失うことになる」

「それが何か? もともと、俺には何もないようなものだ」

 ザルスシュトラは、ため息をついた。イグニスの感情は理解できるが、ザルスシュトラの立場は、イグニスのそれとは異なっていた。

「もうじき、あの女が、退路を断ちに来る」

「皇帝か」

「違う。梟の方だ。一目見てわかったが、やつは人間の真似がうまいだけで、精神の根本が人間のそれではない。だから……」

 イグニスは、ザルスシュトラが見つめていた方角の空に目をやる。そこには、小さな黒い影があった。だんだんそれが近づいてくる。その手には、何か大きな球のようなものが握られている。

「……お前の言っていることの意味が分かったよ」

 そういうイグニスは、先ほどエアと語ったときのように、平静をよそおってはいたものの、動揺を隠しきれてはいなかった。

 やってきた黒夜梟、ノワールは、ノロイの首を持っていた。それを、イグニスに向けて投げてよこした。イグニスは、ひらりとかわし、それを受け取らず、地面に転がるに任せた。

「君は、エアとは違うんだね」

 ノワールの声色は、少し楽し気だった。ザルスシュトラとイグニスは、本能的に戦闘態勢にうつりそうになったものの、かなうはずもない相手であることを理性によって把握していたため、それを意識的に抑えた。

「報復か……」

「あぁ。エアに、君のことについては、私が手を出すべきじゃないと言われたからね。だから、この件にはそれほど深く関係していなくて、死んでも構わないけれど、君が苦しみそうな人を殺すことにした。そうすれば、少しはつり合いも取れるんじゃないかと思ってね」

 イグニスは、愛弟子であるノロイのことを、頭ではどうでもいいと思いつつも、長年自分を思い、尽くしてくれていたことに対して、感謝の念を抱いていた。最後まで表には出さなかったものの、小さいながら、愛情のようなものも感じていた。

 できるならば、彼女が自分が死んだ後も生きることを、イグニスは望んでいた。

 とはいえ、こうなることを予想していなかったわけでもなければ、もしそれが本当に受け入れられないことであるならば、もともとこんな計画など実行には移さなかったし、カタリナ殺害にだって積極的にはなっていなかったのだ。

「満足か? 黒夜梟」

 イグニスは、空に浮かぶ魔物を睨む。真っ黒な二対の星が、怪しく輝く。

「カタリナを殺したこと、君は悔やんでる? もし君が、もう少し賢ければ、その子は死ななくてすんでいたかもしれないと、私は思うけれど」

「悔やんではいない。それに、お前を憎んでもいない」

 事実、イグニスの心に憎しみはなく、あるのは小さく、確かな失望と、より強くなった決意だけだった。

 引き返すに足る理由が、自分から少しずつ、自然に剥がれ落ちていく。イグニスは、その感覚に、喜びとも期待ともいえぬ、なんともいえぬ高揚感を覚えていた。

 自分は、正しい方に向かっているのだという感覚。それがどれほど残酷で、痛ましい結末であったとしても、それが、あるべき姿なのだと思える、そんな、運命に対する、信頼感を。

「隣の君は、確か、ザルスシュトラだっけ?」

「あぁ。善悪の彼岸を率いている」

「君とも少し話したかったんだよね。ちょっといいかな」

「構わないよ。ノワールと呼んでいいかな」

「好きにしたらいいよ。ところで」

「なんだ」

 瞬きするほどの時間の間に、ノワールはザルスシュトラの目と鼻の先に転移し、彼の首を掴み、持ち上げていた。ザルスシュトラは、意図的に、抵抗をしなかった。

「ねぇイグニス。彼を殺したら、君は悲しむかな?」

 イグニスは、ノワールに目も合わせず「そうだな」と言った。

「だが、俺が悲しむことは、俺の死と同様に、俺にとって何の意味もない」

「ふむ。確かに、そうみたいだね」

「放してくれないか」

「あぁ、ごめんね」

 ノワールは、ザルスシュトラから手を放す。ザルスシュトラは、少しも動揺を見せない。

「おかしいな。なんで君は、平気でいられるのかな?」

「慣れてるからね。自分より強い者に、命を握られるのは」

 ザルスシュトラは、手を広げ、ノワールに握手を要求する。

「そもそも考えてほしいんだよ、黒夜梟。何の力もない人間は、他の何の力もない人間に対して、あまり恐怖を覚えない。その気になれば、後ろからナイフでも突き刺して、殺すことがいつでもできるのに。なぜだと思う?」

 ノワールは差し出された手をそのまま握る。

「恐怖なんて感じていたら、協力できないし、共通の脅威に立ち向かうこともできないから」

「その通り。それと同じことだよ、黒夜梟。自分に目的があるならば、やるべきことがあるのなら、自らの命を相手にゆだねることを、恐れてはいけない。人の身で何か大きなことを成し遂げるなら、最初に学ぶべきことだ」

「でも、人間は、力をつければつけるほど、殺されることを恐れ、その対策をするようになる。私もそうだし、唯一帝も、そこの魔術師もそう」

 そう言ってイグニスを顎で示すと、ちょうどいいとばかりにイグニスは姿を消した。

「そして、自分では何もできなくなる。そうだろう? ノワール。イグニスも、かつてはそうだったが、今はそうじゃない。死を恐れては、新しいことは何もできない。君もそうだ。君も、自分の力の強大さを恐れ、世界を自分が変えてしまうことを恐れている」

「世界は私のためだけに存在しているわけじゃない。だから、私が好きにやっていいわけがない」

「その通りだ。ノワール。だから私は、私だけではなく、世界のために動く。それはイグニスも同じだ。私も彼も、世界がそうあるべきだと定めた姿にせんがために、命をかけている。対して君は、そうして変わっていく世界を、強大な傍観者の立場から眺め、目で楽しむ。そうだ。それでいい」

 ノワールは沈黙し、転がっているノロイの首を手元に引き寄せた。

「この子を殺すかどうかは、本当に迷った。決して、悪い子ではなかったけれど……そもそも、私が行った時には、生きることと死ぬことのはざまにいて、私が来ても逃げようとしなかった。殺してくれるなら、そうしてほしい、と言わんばかりの目をしていた」

「そうだろうな。その女は、イグニスを本当に愛していた。そして彼が、近い将来死ぬことを知っていた」

「ザルスシュトラ。私は思うんだよね。人間の、愛っていうのかな。執着っていってもいいけれど。まぁ人間に限った話じゃないかもしれないけどさ、私にはそういうの、死ぬまでわからないじゃないかって」

「どうだろうな」

「特別な人はいる。特別な感情も。私だって、ある人を愛して、何百年も想っていたことがある。その人が死んだときは、何年もずっと墓の前で、思い出に耽り続けた。でもそれは全部、自分がそうしようと決めていたから、そうしていただけなんだ。そうせずにいられないものではなかった。やめなくちゃいけなくなったら、すぐにでもやめられることだったんだ。でも君たちのは違う。やめようと思ってもやめられない。あるいは、やめるのに多大な精神的な苦悩が生じる。そうだ。君たちには、私よりもずっと重い苦悩と、痛みがある。私にはそれが足りないし、欲しいともあまり思えない」

「だがそれが、人間の美しさでもある」

「その通り。私はやっぱり、君が言うように、見ていたいのかもしれない」

「なら、ひとつ頼まれてはくれないか」

「なにかな」

「皇帝が、できるかぎり動かないようにしてほしい」

「説得だけはしてみるよ。私は彼女とは戦えないし、彼女の側としても私とは戦えないしね」

「ありがとう。それだけでいい」

「君が見ている世界は、どうやら他の人が見ているのとは全然違うみたいだね、ザルスシュトラ」

「いいや。私と同じ世界を見ている人間は無数にいる。ただそれを、語ろうとしないだけだ」

「そうかもしれないね」


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