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90、殺害③



「はじめまして、エリアル・カゼットさん」

 街道沿いにある安宿の一室で眠っていたエアの耳元で、ノワールはそうつぶやく。エアはぱちっと目を覚ました。

「誰?」

「私はノワール。名前くらいは聞いたことあるんじゃない?」

「あぁ。リナちゃんのお師匠さん」

「正解。そのリナちゃんに呼ばれてね。何をするのかは自分で決めるつもりなんだけど、まだ状況がうまく掴めていないんだ」

 エアは体を起こし、あくびをして、伸びをした。外はまだ暗かったが、彼女がその仕草をするだけで、世界には早めに朝が来たかのような錯覚を、ノワールは感じた。

「私も、いまいち何が起こっているのかは分かってないんだけどね」

 エアはそう付け加えつつ、自分がこれまで歩んできた道のりを、ノワールに語って聞かせた。


 ノワールはずっと静かに聞いていたが、話し終わる直前に、エアの言葉を遮った。

「ところで、エアちゃんは、自分が人間だと思う? それとも、化け物だと思う?」

 エアは話を遮られたことに腹を立てることもなく、真剣にその問いについて考えてみた。その後首を横に振った。

「わからない。でも、人間らしくありたいと思う」

「どうして」

「人間は……素敵な生き物だから」

「化け物よりも? 魔物や、竜みたいな高い知性をもった獣よりも、人間は素敵な生き物かな? もしエアちゃんが人間じゃなくなっていたとしても……それによって、エアちゃんは人間より素敵じゃない生き物になったっていえるわけではないと、私は思うな」

 エアは目をつぶってまた考え始めた。その間ノワールは黙って、同じように、今人に投げかけた問いを、自分にも問い直していた。

「……私が人間じゃなくなったとしても、私は人の中で生きていたい。人間を、愛しているから。私は、自分が愛している存在と、同じ存在のままでありたいと思う」

「なら、もしあなたが魔物として生まれ、魔物の中で生きていたとしたら?」

 それは、ノワール自身のことだった。彼女は、魔物である自分を憎み、人間となることを望んだ。その望みはかなわなかったが、今は、自らの愛する人間たちと、自分にしかできない関わり方によって、生きている。

「わからない。魔物に生まれた私が何を愛するかだと思う。もし人間を愛するなら、人間のようにありたいと思う気がする」

 ノワールは窓の外、夜空を見上げる。ため息をついた。

「エアちゃん。私は時々、憂鬱な気持ちになるんだ。なんというか、理不尽だなって思うんだ。だってそうじゃない? 人間という生き物の大半は、その人間という生き物を決して愛してはいないし、それどころか憎んでいる人が多いと思う。人間にとって人間は、互いに敵であり、邪魔な存在であることがあまりに多いし、そうあることを望んでいる節さえある。そして多分、私たちが人間を愛することができるのは、私たち自身にとって人間が脅威でなく、利益にしかならないからだと思う」

「かもしれない。でも、だとしても、愛する人たちが苦しむのも傷つくのも、私は見たくなかった。だから……」

「だから、救おうとした。あなたは人間に生まれたのに、自分は人間以上の存在だと思い込んでいたんだね」

「ううん。そんなことない。私は人間として、自分にできるせいいっぱいのことをやろうとしただけ。その結果……こうなってしまっただけ」


 その後も、ふたりは色々なことを語り合った。まるで久しぶりに会った親友同士かのように、親し気に、会話は夜が明けるまでとめどなく続いた。

「エアちゃん。私はあなたと似ているかな?」

「似ているかもしれない。でも、違うところもたくさんあると思う」

「こんなことを言うのもなんだけどね、実は私、特別人間を愛しているわけじゃないんだ。もともとはそうだったけど、こういう生き方に落ち着いてみて思うのはね、私が本当に愛しているのは、私自身の……この、目なんだと思う」

 そういってノワールは、自らの、人のものとは異なる、異形の眼を指さした。

「私は人間を美しいと思った。そばで、ずっと見ていたいと思った。でも、世界をもっとたくさん見て思ったのは、美しいのは人間だけじゃないということ。そして人間は、他の美しいものを、自らのために奪ったり、壊すことがある。同じように、人間以外の美しい存在も、人間を含む、他の美しい存在を奪ったり壊したりしてしまうことがある。私はそれでいいと思ったし、そうであるべきだと思った。私自身も、本質的に美しく、そうあるものだと理解した。そう理解する、この心こそが、私にとってもっとも大切なもので、その心を共有できる相手なら、別に相手が人間だろうと魔物だろうと関係ないのだと思うようになった」

 エアは黙ってうなずいた。

「今まで、私のことを理解してくれていると私自身が感じることができた人が、ふたりいる。エアちゃん。あなたはそのうちのひとり」

 そういってノワールはエアを指さした後、柔らかく微笑み、立ち去ろうとした。


 立ちふさがったのは、何者かの生首の髪を掴んだ男だった。美しい銀緑色の長い髪のその奥にちらつく瞳は険しかった。目が合った時、その男は、必死になって、笑おうとしているようだった。

「エア、お前は、これを見てどう思う」

 エアは珍しく目を大きく見開いた。すぐに、その頭が、カタリナのそれであることに気づいて、腰かけていたベッドから立ち上がった。

「言っていたよな、お前は。カタリナは、戦いの末に死ぬだろう、と。また、彼女は英雄にふさわしい人物であると。だが実際には、自分よりはるかに優れた魔術師に、寝首を掻かれ、何の言葉も残さず、間抜けにも、何の感動も喜びもなく、その可能性が奪われた。お前はこの現実を、どう受け止める」

 素顔をさらしたイグニスは、震える声でそう尋ねた。

「ニス君。どうして……どうして、そんなことをしたの」

「お前に尋ねるためだ。お前に……ことの是非を問うためだ」

「そんなことは……すべきじゃなかった」

「もちろんそうだ。だが、お前が殺してきた人々の人生だって、それぞれ望みがあった。だが俺は、お前を解放したいがために、その人々の未来を奪った。お前に、俺はどう映る? 俺はまだお前のかわいい弟か?」

 エアは涙をぼろぼろと流しながらうつむいて、再びベッドに腰かけた。エアが話さないのを見て、顔をしかめたノワールは「それ、貸して」と言って、イグニスからカタリナの首をぶんどった。

「……ほんとに、殺したんだね」

 ノワールは、確認するようにそう言った。

「ああ」

「君は、この大陸最優の魔術師と評判の、イグニス君だね? 彼女が、私の愛弟子だというのをわかったうえで、ここに来たの?」

「そうだ」

「私に復讐される、とは思わなかったの?」

「逃げるくらいはできるだろう、と」

「その考えは甘いよ。私はその気になれば、この大陸を一瞬で不毛の地にすることもできる存在なんだよ。君ひとり殺すくらい、わけもない。もし君が殺せない存在だとしても、封印することなら簡単にできる。溶岩の海に沈めたっていいし、体を薄く広げて、空のカーテンにしてもいい。私は今、君にどう償わせるか、考えているんだ。だから君が考えるべきことは、どうやって私の怒りを鎮めるか、ということなんだよ」

「殺したいなら殺せばいい。俺は、自分が死ぬことも計画のうちに入れている。いつ死んだって、構いはしない。だが俺が今ここで死ねば、これから死ぬ人間はおそらく減ることだろう。もしお前が人間を少しでも守りたいなら、今すぐ俺を殺すべきだ」

 ノワールは一切表情を動かさず、決意を定めた。この男を殺す。後悔はするかもしれない。だが、殺すのに十分な理由はある。

「ノワール」

 もし、エアが声をかけなかったら、この瞬間戦いが始まっていたことだろう。

「なに」

「私は、ニス君を殺さないでほしい」

 イグニスはその言葉を聞いてすぐさま姿を消した。ノワールはその気になれば、転移を防ぐために空間を不安定にしたり、あるいは世界機構に干渉して、彼の転移先を変えることもできた。しかし彼女は、イグニスを行かせた。その気になれば、いつでも殺せるという自信があったからだ。

「どうして。この子は、あなたの親友でもあったよね」

 カタリナの首を抱えたまま、ノワールはそう問うた。その声は、奇妙なほどに穏やかだった。エアは涙を流し、体を震わせながら、頷いたり、首を振ったりを繰り返した後、息を大きく吸って、決意に満ちた目をノワールに向けた。

「私のことも、彼のことも、きっと……ノワールさんが解決していいことじゃないから」

 ノワールは何かを反射的に言い返そうとしたが、彼女の目を見て、考え直した。

 それでも、言わなくてはならないこともあった。

「この子の人生も問題も、あいつが解決していいことではなかったよ」

「私もそう思う。そう思うよ。本当に」

 エアはそういって、カタリナの首をノワールから優しく取り上げて、胸に抱いた。それは、ゆっくりと溶けていき、エアの体に吸収されていった。

「何をしたの」

 エアにも、自分が何をしたのか言葉にはできなかった。ただ、自分にそれができるということだけはわかっていた。自己と他者の境界線を排除し、同一の存在とすること。死者を自らの中に取り込み、その痛みや悲しみを引き受けるということ。

「ノワールさん。私は、あなたに見届けてほしいと思う」

 ノワールは、唇を噛んだ。納得していないことを、表現したかったからだ。

 傍観に徹することが自分の性にはあっていないことをノワールは自覚していたが、それでも自分の力が強大すぎるがゆえに、できるかぎりそうあろうと自らを律してきた。今回も、本当は自分が手を出すべき件ではないことはわかっていたし、親友でもある唯一帝ブランが出張ってきている以上、もし何か大きな問題があっても、自分ではなく彼女がよりよい方法で解決するだろうこともわかっていた。

 それでも、ただそこで見ているだけ、というのは彼女にとって大きな苦痛だったのだ。

「私は私自身の頭で考えるし、私は私自身の心で動くよ」

 そう言ってノワールは再びエアの元を立ち去ろうとした。今度はそれを妨げる者は何もなかった。


 ノワールが出ていったあと、邪魔をしないよう聞き耳を立てていたヴァイスがエアの部屋に入ってきた。

「カタリナさん、死んでしまったんですね」

「うん」

「残念です」

 ヴァイスの言葉は冷たかった。いつかこうなることはわかっていたし、わかっていたからこそ、彼女はふたりから距離をとっていたのだ。

 彼女にとって、この出来事は、遅すぎるくらいだった。だからこそ、彼女の胸に訪れたのは、悲しみよりも、安堵が大きかった。

 やはり自分は間違っていなかったのだ、という。

「次は、私かもしれませんね」

 そう言って、ヴァイスは振り返って、先ほどまでイグニスがいたところを見つめた。エアは何も言わなかった。

「私が死んだら、エアさんは、今みたいに悲しんでくれますか」

 エアは黙って首を横に振った。彼女自身にもそれはわからなかったし、考えられないことだった。

 いつだってエアにとって、人が死ぬということは、受け入れがたいことだった。それまで、普通に話して、動いていた人が、一瞬で、二度と、話すことも、動くことも、それどころか、何かを思ったり感じたりすることすらできなくなるなんて。

 それでも、彼女はそれを何度も見てきたし、感じてきてもいた。死ぬということは、二度と戻らないということだ。その別れが永遠のものとなり、もう二度と、話すことも、心を通わせることもないということなのだ。

 そしてそれは、必ずおとずれることでもある。これまでも、これからも、エアは、自分が見送る側であることだけは理解していた。

「私は……生きていてほしい。みんなに」

「そうですね」

 ヴァイスは反射的にそう同意した後、冷たいため息をついた。

「私は、自分が死んだほうがいいんじゃないかとよく思いますし、他の人に対しても、時々そう思いますよ。そんなに苦しくて悲しいなら、死んでしまった方がいいんじゃないかって。すぐそばに死が迫っていて、それをただ恐れて苦しみながら待つくらいなら、すぐその場で、自ら命を断つのがよいのではないかって。もっとも、帝国じゃそういう考え方は珍しいものでもないですが」

 エアは目を伏せた。それでも、はっきりした声で答えた。

「私は、それは違うと思う」

「なぜですか」

 エアは、理由は答えなかった。答えられなかったのだ。もっといえば、そんなものは必要としていなかったのだ。

 彼女はただ、自分の意志と信念をもって、生きるということを肯定しており、自ら死ぬということを否定していた。そういった考えは理解できても、その正しさには、断固として反対していた。

 その意志は、彼女自身の罪と責任という考えに、深く結びついていた。

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