88、殺害①
睡眠を必要としないノワールは、カタリナやシグを含めた街の皆が寝静まった深夜、上空はるか彼方に留まり、感覚を研ぎ澄ましていた。
彼女の魔力感知能力は、常人とは比べることもできないほどに優れていた。魔物というものは人間と異なり、魔力を空間の中に存在する座標のように認識せず、臭いを感じるように、その方角と強さから認識する。ノワールは、そういった先天的な魔力感知能力を自らの肉体に施した術式によって大幅に強化しており、それだけでなく、優れた魔術師が感じるような、正常な魔力感覚もまた有しており、魔物的な魔力認識能力の弱点をカバーしていた。
「意外と、近くにいるんだね」
ノワールは目をゆっくりと開いて、そうつぶやいた。少しだけ悩むそぶりを見せた後、すぐさま転移術式を唱えた。彼女は、エアの元に向かったのである。
彼女がその場を去ったのを、確認した者がふたりいた。ザルスシュトラと、イグニスである。
イグニスは、ノワールが転移術式でパレルモに到着するや否や、彼女を監視していた。ノワールがそれに気づけなかった理由は、イグニスの疑似概念形装『老杖』の効果によるものであった。この疑似概念形装の本質は、その見た目を老人の姿に変えるのではなく、彼の周囲に極小の結界をはり、その内部の魔力的情報を読み取れなくすることにある。またその効果は、世界機構に接続することによって偽装されているため、ただ魔力感覚が鋭いというだけで、その姿が擬態であることを見破ることも難しい。
イグニスはそれまで、老杖で姿を隠していても、その服装までは変えることがなく、彼が彼であることを見破ることは容易だった。しかし今回は、パレルモの街でよく見かける老人らしい格好で、魔術的な装備は何ひとつ有していない、誰が見ても平凡な老人の姿をしていた。そのため、何度も労杖を使用しているところを見ていたシグやカタリナでさえも、彼に気づくことはできなかった。
イグニスとは異なり、ザルスシュトラはノワールにすぐ会いに行こうとしていた。しかし、彼はその場ですぐにイグニスの存在に気が付いた。理由は単純だった。ノワールという、誰が見ても異常だとわかる存在に対して、不自然なほど無関心な様子の老人がいたからだ。
街の人々は、無関心を装いながらも、しばしばそちらの方に目をやり、ひそひそと噂話をしていることが多かった。忙しいものや、別のことに必死になっているものこそ彼女に関心を向けていなかったものの、手持ち無沙汰の人間の中で、ノワールに一切興味を持つそぶりを見せないものは、そのひとりの平凡な老人しかいなかった。
別の言い方をすれば、不自然な非日常の中、ひとりだけ、自然な日常を送っている者がいた。ザルスシュトラは、すぐにその老人に話しかけた。イグニスは、姿を隠しながら、ザルスシュトラを騙すのは無理だと悟り、沈黙という消極的な方法でその正体を認めたのだ。
「カタリナとシグを殺すつもりだろう」
ザルスシュトラは、ノワールが去ったあと、イグニスそう問うた。
「そうだ」
「ひとつ頼みがある」
「なんだ」
「シグは殺さないでくれ」
「なぜだ」
「親友だからだ」
「もし殺したら」
ザルスシュトラは笑った。怯えているわけでも、同情しているわけでもない。ただその笑いは乾いていて、少し寂し気だった。
「そうなったときに考えるさ。私は君に何かを強要するつもりも、命令するつもりもない。ただ、私が君に頼んだという事実があり、そのうえで君がどう選択するか、というだけのことだ」
「友の命がかかっていても、か」
「君だって友だ。君の選択は、君の命よりも大切な、君の魂がかかっている」
イグニスはふん、と鼻で笑い、何も言わずその場を去った。