87、黒夜梟ノワール②
ノワールは中央大陸にも多くの知り合いがおり、パレルモの街についてすぐ、いくつかの店に顔を出していった。シグとカタリナはそのあとをついていった。
「商売はうまくいってる?」
「そこそこだな」
先ほどノワールが話したのは、この街の娼館街を取り仕切っている不老の魔術師だった。彼の悪名はよく知られているが、学園の理事のひとりでもあり、簡単には誰も手が出せない。恨まれてはいるものの、あくまで彼はこの街の弱者からしか搾り取ろうとはしないので、その権力を脅かすものはいない。
「あんたはあぁいうやつとも楽しく付き合えるんだな」
シグは少し気分を害しながら、そう言った。
「ん? あぁ。だってそれも人の営みでしょ? 美しくて若い女性と一部の男性を揃えて、性欲をコントロールできない定命の人たちからお金を集めて自分の生活をよりよくしていく。そりゃあ、そういう生き方をしてない人からすれば嫌なことかもしれないけど、でもそういった経済の動きが、人間の暮らしでもあるんじゃない?」
「あの男は、人の心を少しも尊重していない。金の亡者だ」
「いっけんそういう風に見えるかもしれないけど、そうではないよ。彼の本質には、孤独があり、人との密接な交流を望んでいる。そしてそこには、毒が含まれていた方がいい。光の中で生きてきた君にはわからないことかもしれないけど」
「俺が、光の中で? そんなバカな」
シグは、何度もノワールの言動に反感を抱いてきたが、どうにも嫌いになったり、憎らしく思ったりすることはできなかった。彼女の発言は、どこかずれていて、人間離れしたものがあり、相手がそれまで信じていたものやそうであってほしいと願っていたものを、容赦なく否定するような傾向にあった。
「それに、私にとっちゃ人間の悪と呼ばているものだって、人間特有の、愛らしいものなんだ。ところでリナちゃん。善人と悪人を分けるものって何だと思う?」
「自制心と共感性の有無、とかじゃないの」
「ううん。それは知性を持った生命の優劣に過ぎないよ。善悪はね、才能なんだよ。善悪は行為に宿り、その行為を為すだけの能力があるか否かが、その人間の善悪を規定する。高度な善を行えるのは一部の人間だけで、同じように高度な悪を行えるのも、一部の人間だけ。人は目をそらしているけれど、実際に、高度な悪というのは人を引き付ける魅力があって、実際にそういった人物は愛され、守られる」
「じゃああんたはどうなんだ。あんたは、善人なのか、悪人なのか」
「私はどちらでもないよ。私は人を愛している化け物。人間のようにありたいとは思うけど、どんなに頑張っても私が化け物であるという事実だけは変えがたく、変えるつもりもないんだ。私は私でありながら、人間に近付いていたい。善でも悪でもない、ある種の自然災害的な立場から、人間の善悪を眺め、気が向いたらその両方を助けながら暮らしていたい」
この手の問答を、カタリナは幼少期から何度も聞いてきた。ノワールは友好的な怪物で、友人も多い。だからこそ、彼女は行く先々で「お前は何者だ」「何が目的だ」と尋ねられる。そのたびに彼女は違うことを答えるが、その内容は一貫している。
彼女は人間を愛しており、同時に、人間が人間を愛するようには愛さない。彼女は誰かに執着はしない。それでいて、いつも少しだけ気にかけており、たとえ相手との結びつきが弱くとも、喧嘩していたとしても、その人間が死んだと聞かされたら、とても残念そうな顔をする。悲しむのではなく、寂しそうにするのだ。
どこまでいっても、彼女にとって人間は、お気に入りのおもちゃかペットに過ぎないのだと、カタリナは思っていたし、それでいいとも思っていた。正真正銘の超越者であるノワールは、イグニスよりもさらに人間離れしており、いってしまえば、無敵の存在だ。
もしエアが暴走しても、彼女ならば止められるし、もしかすればエアの無害化にだって成功するかもしれない。
だが、どれだけそうする理由があるように見えても、彼女は、動かないときは決して動かない。また、どれだけそうする理由がないように見えても、彼女は、動くときには必ず動く。彼女の必然性はすべて彼女自身の中に宿っており、それが変わることは決してない。
西の皇帝、ブランが、己に義務と責任を強く課すことによって、人を超越した存在であるならば、東の怪物、ノワールは、己に一切の義務と責任を負わせず、本能や知性、思想にもとらわれず、心と体が完全に自由であることによって魔物を超越し、人に近付いた存在なのである。