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80、ひとつの終わり

「ミリネさん」

 青年の外見をした理事のひとりが、ミリネの研究室に入ってきた。ミリネは、学園の防御機構の改良の研究を行っていたが、手を止めて振り向いた。

「例の子が、外出許可を求めていますが、どうすべきでしょうか」

「責任者はリーン教授じゃなかった?」

「そのリーン教授が、ミリネさんに聞けと」

 理事たちは、エアの扱いに困っていた。彼女を制御できるのかどうかがまずわからなかったし、先日の彼女の暴走の原因が、イグニスによる彼女の殺害であった以上、むやみに危害を加えると、再び大きな被害を出してしまうかもしれない。

「わかった」

 ミリネはそう言って、立ち上がった。

「彼女と話してくる」

「ありがとうございます」


「忙しいところごめんね、ミリネ先生」

「外で話そうか」

「うん」

 ふたりは閑散とした海岸沿いを歩いていた。日は落ちつつあり、海を赤く染めていた。

「やっぱり外はいいね」

 エアは伸びをしながら歩く。その声は柔らかく、明るかった。

「なら、地下牢なんかにいなければいいのに」

「でも、ルールは守らないと」

 ミリネはため息をついた。ルールなんて、本来この子みたいな存在にとっては何の意味もないであろうに。

「わかっていると思うけど、学園の理事たちはみんな、あなたの扱いに困っているし、できればもう関わりたくないと思っている」

「島を出た方がいいのかな」

「私も、そうしてもらえると助かる」

「……でも、そういうふうに理事のみんなは決定できないんだよね?」

「もちろん。もし何の対策もせずあなたを大陸に放出して、そのあなたが大きな問題を起こせば、今以上に学園の評判は落ちる」

「だから、私が勝手に逃げ出した方が、まだマシってわけだね?」

「そう。学園は何とか抑えようとしたけれど、ダメだった。学園最高の魔術師であるイグニスが、この事件を引き起こした、ということにすれば、学園の信用自体はこれ以上落ちずに済むから」

「彼岸のみんなはどうしてるの」

「ザルスシュトラがいないからね。みんなバラバラだよ」

「リナちゃんたちは」

「知らないね」

「そっか」

 エアは夕日をまっすぐ見つめた。

「ねぇミリネ」

「なに」

「夕焼けって綺麗だね」

「……そうね」

「私、なんとなくわかってきたんだ」

「何を」

「生きるって、どういうことなのか」

 ミリネは、沈黙するしかなかった。

「あらゆる善とか道徳っていうのは、しょせん生きるための知恵のひとつに過ぎないのかなって、思うようになったんだ。ひとりでじっと考えて、自分の罪と向き合っていると。たとえば狼が兎を捕まえるのとか、蜘蛛が蝶を捕まえるのとか、そういうのと同じように、人間はひとりで生きていくようにはできていないから……それをうまくやっていくための、力に過ぎないんじゃないかって」

「善や悪も、力の形態のひとつに過ぎない、と」

「うん。だから、人間の視点での善悪は、その人が生きていくうえでとても重要だけど、生命の視点での善悪は、もはや武器のひとつに過ぎなくて……この世界にはたくさんの、生きるための方法があるんじゃないかって思うんだ」

「エアは、人間であることをやめたいの?」

「ううん。私は人間でありたい。わかったうえでも、善と悪の中で生きていたい。私に罪があると人が言うのならば、私は罪人として生きていたい。私は人間を愛していて、人間のいないところでは生きていけないから」

「たとえ、多くの人を傷付けることになったとしても?」

 エアは頷いた。

「私は、悪い人間になってしまったんだ。ううん。もともと、私は善い人間なんかじゃなかったのかもしれない。ただ、色々なことを知らないことにして、気づかないふりをして、自分だけ潔白であればいいと思っていたのかもしれない」

「私は今でも、エアは潔白だと思うよ」

「難しいね」

 エアは、その場で座り込んだ。外は、もう暗くなりつつある。ミリネもその隣で腰を下ろした。

「長く生きていると、色々なことがだんだんどうでもよくなっていくんだ。人はいつか必ず死ぬから、いつ死んだって、どんな死に方をしたってかまわない、と思うようになるんだ。残酷になるわけではないけれど、間違いなく情は薄くなって、どんどん現実的になっていく」

「今なら、ミリネの言うこともなんとなくわかるよ。昔の記憶が少し、戻ってきているから」

「でも、こうして一日が終わっていくのを眺めていると、ひとつの幸せが終わっていくような気持ちになる。たくさんの心配事と、忙しい日々。絶望的な結末を確信しながら、そのモラトリアムの中で日々を送ること。これ以上日は高くならず、あとは落ちていくばかり。どんどん暗くなっていく。もう、幸せは終わった。刻一刻と暗くなりつつある。それでも、このゆったりとした時間、まだ、すべてが見えなくなったわけではないという、この薄暗闇に、何とも言えない心地よさを感じるんだ」

「滅びゆくものの美しさ、なのかな?」

「うん。新しい朝を迎える元気もなく、暗いまま終わっていくことを、今の私は望んでいる」

「だから、イグニスに協力したんだね」

 ミリネは頷いた。もし自分がその気になっても、彼を止められたとは思っていないが、少しくらいは時間が稼げたかもしれない。でもそうしなかった。

 もし自分がその気になれば、死ぬ人をもっと減らせたかもしれない。学園の状況も、今よりましにすることができたかもしれない。でもそうしなかった。

 そうしないことを、ミリネは選んでいた。そのことに、後悔もなかった。

「エア、私は今ここで死ぬべきなのかもしれないと思っている」

「私に殺されて?」

「そう」

 エアは黙って立ち上がり、裁断の原理をその手に持った。

「ミリネ先生」

「うん」

 ミリネは目をつむった。心は穏やかで、気持ちがよかった。この瞬間が永遠であればよいと思うほどに。

 エアは裁断の原理を振り上げた。しかし、すぐにそれをやめて、裁断の原理も消滅させた。ミリネが顔をあげて、エアを見上げると、エアは静かに大粒の涙をこぼしていた。

「やっぱり、嫌だよ」

 涙をぬぐいもせず、はっきりとそう言った。声は少しも震えておらず、まっすぐに響いていた。

「やっぱり、あなたに人殺しは難しいのかな」

 エアは首を横に振った。

「振り下ろすのは簡単だと思う。それで、一通り悲しんで、また明るく笑うことも、簡単だと思う。自分なら、そうだと思う。でもやっぱり、嫌なんだ。人が死ぬのは悲しいことで、自分の手で悲しいことをするのは、やっぱり嫌だよ」

「誰かの手でそれがなされるほうが、あなたにとっては楽なんだね」

 エアは、再び裁断の原理を持った。そして、目を開いてほほ笑むミリネをまっすぐ見つめて、ほほ笑んだ。

「ごめんね。躊躇しちゃって。でも、それが私の役目なら、それが望まれているなら、そうするよ」

 エアはそのまま、ミリネに裁断の原理を振り下ろした。

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