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77、悲劇

 宙に浮かぶ純白の球に、人々は目を奪われる。翼のような、液体のような、不可解な滴りをこぼしながら、それは少しずつ拡大し、放つ光は強くなっていく。

 エクソシアの到来によって天候は不安定になっており、どんよりとした雨雲が空を覆っていたが、それゆえ、光はより眩く、強烈な存在感を放っていた。


 巨大な卵にも見えるその存在の中では、何かが脈動していた。それは、外に出たがっていた。人々は、誕生に立ち会っていた。

 腕が、その薄い膜を破るように、外に突き出される。這い出すようにでてきたソレは、神秘的であると同時に、本能的な恐怖と嫌悪を催させる姿をしていた。

 ふたつの顔。三つの腕。一本の足。胸の中央から伸びているもっとも巨大な、指が六本ある手の先には、宙に浮いた大剣があった。それは、まさしく裁断の原理であった。


 その顔についている、目鼻口は、そのどれも不自然なほど整っており、さらにそれらは、まともに機能していないかのように、びくとも動かなかった。

 単なる装飾であり、一切が本質ではない。それは天使という言葉を人々に思い起こさせると同時に、それが本質的に天使ではなく、むしろその象徴を寄せ集めてそのまま現実として具現化したようなものだった。


 エアの死体から生まれたその天使が剣を一振りすると、イグニスが用意した結界が吹き飛び、その魔力の破片が人々の頭上に降り注いだ。それ自体が致命傷になるほどの衝撃はないものの、人々はすぐさまパニックに陥り、我先にと逃げ始めた。

 その中には、ルティアやイリーナも含まれていた。エアを心配するような感情より先に、本能的な恐怖と、その場にいてはならないという直感が彼らの思考を支配していた。

 事実、少しでも逃げ遅れたものは、その場で惨殺された。


 生まれた天使は、一体だけではなかった。

 その一体の暴力に人々が圧倒されている間に、卵からは、次々と新たな天使が生み出されていた。


 天使たちは、それぞれ違った容貌であった。権能もまた異なっていたが、裁断の原理を有しており、また何らかの形で翼を持っていて、そのどれも人々を殺戮しようとする点で、同じであった。



 遠目からエアを眺めていたシグは、あれが手に負えない存在であることに、その場で気が付いて逃げ始めた。彼はその道中、後方で数百年生きていたであろう、学園の理事のひとりが裁断の原理によって真っ二つに引き裂かれ、しかもその存在ごと天使に飲み込まれ、その場で天使が分裂し、二体に増えたところを見ていた。

 おそらく、殺した人間の魔力を奪い取り、それを自らと同質化する力がある。そんな魔物は見たことがないが、だからといって、目の前で起こっている現実から目をそらしてはいけない。一刻も早く、この島を脱出しなくてはならない。

「カタリナ! 逃げるぞ!」

 彼は真っ先に、カタリナが寝ている病室に向かい、そこで有無を言わせず彼女を抱き上げようとした。

「何が起こったの?」

「わからない」

 病室で体を起こして外を眺めていたカタリナは、あたりの騒がしさに気づいていたが、いまだに立ち上がることは難しかった。イグニスにつけられた傷が、あまりに深かったのだ。自分の体の魔力回路が自然に自己修復し、安定するまでできるかぎり意識的に魔力を使いたくはなかった。

 シグは、カタリナの同意を得ないまま、彼女を抱き上げて、走り出した。カタリナは抵抗しなかった。

「エア?」

「そうだ。イグニスが、エアを殺した。そしてエアの死体が……あの、化け物たちを生み出した」

 カタリナは少しだけ体を捻って、後方を見つめる。天使が、ひとりの学友の頭を掴み、それを砕き、自らの体の中にその死体を投入するのを見た。

「逃げ切れる?」

「多分な」

 天使たちの移動はとても早かったが、しかしエアの死体から離れれば離れる程、その速度が落ちているのがわかった。いや、速度が落ちているというよりも……天使たちが、彼女の体から離れすぎるのを、躊躇しているようなそぶりがあり、それによって遅くなっているのであった。



 死は、理不尽に訪れる。物語では必ず、主要な登場人物の死が大きく描かれ、そうでない人物の死があっさり描かれるが、現実ではそんなものは関係ない。目立つ人物であろうが、そうでなかろうが、同じように死に、死んだあとにのみ印象と記憶に差異が生じる。

 運が悪かったものは、最後の言葉を残すこともできず、ただ息絶える。言葉を残すのは、生き残ったもののみだ。


 イリーナは、ルティアを見捨てて逃げた。むしろ、おとりにしたと言ってもいい。彼は遅かったし、一瞬だったが、取り残された人を助けようともしてしまった。

 彼女は、ルティアが殺されてしまったことに気が付いたが、ただ、逃げることだけに集中していた。実際、この一件において逃げ延びることに成功したのは、そういった人々ばかりであった。


 ハープとレオは、天使たちと正面から戦った。何回かハープとレオは協力して天使を無力化したが、天使はエクソシアと同様に、どれだけ傷つけられてもその場で再生し、再び襲い掛かってきた。天使たちの裁断の原理は、ザルスシュトラやエアほど強力ではなく、器用に扱うこともできなかったが、しかしそれの放つ剣の波が、あらゆる魔力防壁と肉体を無条件で切り裂くことに違いはなく、事実、即座に治癒魔法を用いたことによって大事はなかったが、レオの左足は一度切り落とされてしまっていた。

「逃げるわよ」

「賛成だ」

 結局ハープとレオも、天使の軍勢になすすべなく、退く他なかった。他の実力のある理事たちも同様に、戦闘を行う者も少なくなかったものの、そのすべてが、死亡するか、あるいはいったん退避するかのどちらかという結果になった。



 一晩で、ウスティカ島の南西部は完全に荒廃し、廃墟と化した。エクソシアがただ暴れまわったのとは異なり、そこには一切の魔力の残滓が残されていなかった。そのすべてが、エア自身に吸収されていたからだ。

 天使たちは、一定数まで人々を殺し、自らの存在を十分に、おそらくは百体程度まで増やしたところで、急にエアの死体である卵のところまで戻り、その胎内に戻っていった。卵は、まばゆい光を放ち、最後には、元通り、エアの肉体のみが残された。


 エアの精神は、眠ってなどいなかった。彼女は、自分の身に起きたこと、そして、悲惨な現実をすべて認識していた。

 天使の、一体一体の目に、正確には、魔力感覚によって感知された光景を、彼女は認識し、理解していた。

 自分を愛してくれていた人々、ルティアも含めた、様々な人々を、己の手で殺める感覚が、まだその手には残っていた。

 その意志は確かに自分のものではなかった。しかしその現実は、自らが引き起こしたものだった。

 確かに、とエアは思った。私は封印されるべきであった。だから何百年も封印され続けていた。

 それに、彼女はまだ力の三分の一しか取り戻してはいなかった。エアは、エクソシアが潜在的に有していた権能の分だけで、魔術の専門家が集まる、この大陸でもっとも戦力のあるこの都市を、数時間でここまで荒廃させてしまった。

 そしてその力の発露、自らの存在の強さの証明によって、自らの精神が昂ぶり、喜んでいるのも、エアには感じられた。つまるところそれは、エクソシアの本質であり、エクソシアの罪だった。

 自らが強者であること。あらゆる他の強い存在を、自らにひれ伏させることができること。自らが恐れられ、その強さが認められていること。どこまでも……自らの強さが、現実であり、強制力を持っていること。

 そういったことの喜びと快感が、エア自身の罪の意識や恐怖、人々への愛情や慈愛を塗りつぶそうとしていた。


「なかなか壮観だな」

 呆然と宙に浮かぶエアのもとに、ひとりの男がやってきた。ザルスシュトラだ。

 破壊されたその都市を眺めて、ザルスシュトラはハハハと笑った。その声に、無理な部分は少しも感じられなかった。

「たくさんの人が死んでしまった。私が、殺してしまった」

「まさか、予想していなかったとでも言うつもりかい?」

「ううん。わかってはいたよ。こうなるだろうなって」

「それでも君は、笑っていたんだな」

「うん」

 エアは、楽しかった学園生活を思い出していた。ルティアにしてあげたことも、してもらったことも、ひとつひとつ、確かに思い出していた。そしてそれは二度と戻らない。

 その事実を確認して、それでも自分にできることは何もなかったことを自分自身に確認した。

「しかし、君は君の大切な人を、あらかじめ逃がしておくことくらいなら、できたんじゃないかと私は思うぞ」

「それは、フェアじゃないんだよ」

「フェア?」

「私にとって大切な人を選んで助けるということは、私にとって大切ではなくても、他の誰かにとって大切な人を、選んで助けないということに等しい」

「なら、すべての人間を助ければいい。あらかじめこの都市を空っぽにしておけばよかったじゃないか」

「あのニス君が、そんなことさせてくれると思う?」

「なるほど。君自身の視点では、もうやりようがなかったわけだ」

「ううん。本当はいろいろな方法があったとは思う。でも私は諦めていた。というか、これは……これが初めてじゃなくて、何度も繰り返してきたことなんだ。だから、もう今更っていう気持ちが、本音なのかもしれない」

「カタリナはまだ生きているよ」

「知ってる。シグが助けてくれたんだよね」

「嬉しいと思うかい?」

「わからないよ。わからない。これからどうすればいいのかも、人とどう接すればいいのかも」

 ザルスシュトラは、ほほ笑んだ。ここまでの会話は、ほぼ彼の予想通りだった。だからこの先も、自分の思惑通りになるのではないかとほとんど確信に近い期待を抱いていた。

「なら、私とともに来ないか、エア」

「どうして」

「新しい道を探すんだ。イグニスは、君を完全に解き放ち、世界にその姿を明らかにしようとしている。だが私は、それ以外の未来だってありえると思っているんだ」

 エアは、ザルスシュトラの目が、力と喜びに満ち溢れているのを見た。それは、かつての、未来と人間に、期待と希望をなんの疑いもなく抱いている自分の姿を想起させた。

「たとえばどんな?」

「君を完全に神格化する。つまるところ、君が顕現させる天使を、君自身が完全に制御できるようにする。そうすれば、君の奇跡研究は完成される」

 エアは黙って首を振った。それでは意味がないのだ。自分の手が届かない人を助けられず、見捨てるしかないのならば、それではただ力を振りかざして統治する、自己満足的な権力者の姿に過ぎない。それは、エアの望むことではなかった。

「他にもいろいろな可能性はある。ソフィスエイティアやペイションに、君という存在の主導権を握らせる。そして彼女らを教育し、人間にとって無害な存在する」

「無意味だよ、それじゃあ」

「君の力の人格の繋がりを完全に断ち切り、力の方だけを封印する」

「そのどれも、可能であったとしても、問題の本質は消え去らない」

「問題の本質?」

「人が、幸福ではないという現実。そして幸福でないかぎり、人は傷つけあい、おのずと不幸を引き起こす。私はそれを変えたかった。誰もが、誰かを愛していて、その人の幸せのために何かがしたいものだと思い込んでいた。だから、人の感情に力を与えれば、世界はよりよくなると信じていた」

「だが、力がもたらしたのは破壊と混沌だった。そして君は、そこで立ち止まっているわけだ」

「これ以上、誰も傷つけたくなかったんだよ」

「もちろん。だから、そのために、私が君に協力したいと思っている。このままでは、イグニスは死に、君は皇帝に再び封印され、最初から何もなかったかのように、再びつまらない秩序が構築され、その中で人々はつまらない争いを続けるだけだ。私はそんな未来は望まない。もっと多くのものが存在しているべきだと思うし、争いはもっと高貴であり、運命に結びついているべきだ。あの、夏闘祭とかいうくだらない見世物とは異なる、もっとその人間の本質と生命、運命に結びついた戦いを、私は見たいのだ」

「それは、君の勝手だよ。みんなは、私の中で生きている『みんな』は、そんなことを望んではいない」

 ザルスシュトラは、何かに気が付いたように目を見開いた。そういうことか、とつぶやいたあと、何度か声をあげて笑った。

「そうか。君が殺した者たちは、君自身の中で、天使になっているのか」

「そう。本当はそんなつもりじゃなかった。でもそうなってしまったんだ」

「だが人間は本来、そんな邪悪なだけの存在ではない。しかし、邪悪な部分だけがそこに顕現してしまう。その理由は単純だ。君自身が、あまりに魅力的であり、人々のよき部分を引きつけ、邪悪な部分から逃げ出し、なかったものとして取り扱ってしまうからだ。彼らのよき部分、無害な部分はすべて君自身に癒着し、そうでない部分が、あぁして君の体から剥離し、それが再び人々を殺し、君はより強くなる。それをずっと繰り返してきたんだな」

「そんなつもりじゃなかったんだよ」

「あぁわかってるとも。だが思い出せないんだろう?」

「うん」

「その秘密はきっと、ソフィスエイティアかペイションの中にある」

 ともあれ、とザルスシュトラは最後にもう一度エアを誘う。

「話していて確信した。君は救いようのない存在ではないし、可能性のない、終わった存在でもない。君はまだ変わることができる。どのように変わるかは私にもわからない。だが、私は君のために何かがしたい。だから、一緒に来てくれないか」

 エアはそれでも首を横に振った。

「私のことは、私自身でやらなくちゃいけない。もし誘ってくれたのが、ザルスシュトラ。君じゃなかったなら、私もついていけたかもしれない。でも君だから……君についていけば、私は私の意志で、私自身を決められなくなるから、それはできない」

 ザルスシュトラは残念そうにため息をつき、そのあと軽く鼻を鳴らした。

「私が私であるがゆえに、か」

「私は誰にも導かれたくなんてない。君が導き手であるがゆえに、私は君に追従できない」

 ザルスシュトラは、息を思い切りはきだし、顔をあげ、晴れやかな表情でエアを見つめた。

「ならば、それでよし、だ。君のことは君自身で決めろ。私は私で、自分のやりたいようにやる。また会おう、エア」

「うん。またね」


 そうしてエアは再びひとりぼっちになり、荒れ果てた都市をひとりとぼとぼと歩いていた。その場ににつかわしくない、不自然なほど美しく、清潔な姿で。


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