76、力の向かう先
ひどい天気だった。エクソシアが近づいていることに皆が気づき始め、海岸沿いに集まり始めていた。イグニスはそこで、ミリネが夏闘祭で形成したものよりはるかに強力で巨大な結界を、沿岸沿いに張り巡らせた。そして、エアに「お前がひとりで戦え」と言った。エアは黙ってうなずき、ふたつの概念形装を発現させた。
野次馬の中には、ルティアやイリーナなど、エアの学友も含まれていた。カタリナは来ていなかったが、ヴァイスは遠目からそれを見守っていた。
ミリネは来ていなかった。イグニスは、ミリネにノロイをそこに引き留めるよう頼んでいた。これから起こることをぼんやりとだが確かに察していたミリネは、それを快く承諾した。イグニスはノロイに危険が及ぶのを避けようとしていたのだ。
承諾しつつも、ミリネは自分の薄情さに心底うんざりしていた。だが他にできることもない。
「エア」
姿を現したエクソシアの、尊大な態度は少しも変わっていなかった。力は確かに弱まっており、まとっている風は嵐というよりも、小さな竜巻のようなものだった。手にしている裁断の原理も、エアのものよりも小さく、また、力もあまり感じられなかった。
「少し、話がしたいな」
「そうだな」
ふたりは黙ったまま、見つめ合っている。
「ねぇ、君はどうして人を傷つけるの」
「それが力の本質だからだ。力を振るえば、傷つくものも出てくる。それだけのことだ」
「それなのに、どうして人は力を欲するの」
「力は、力自体が目的だ。その問いは、嵐に対して、なぜ嵐になったのか聞くようなものだ。人は、力を欲する。そして俺は力の化身だ」
「でも君は、私の一部らしいよ。私も力の化身だっていうこと? ううん。違う。君は力の化身なんかじゃない。ほんとはもっと……」
エクソシアは目をつぶって、己の中にある力を感じる。ずいぶん弱くなってしまった。それでも、自分は自分のままであり、その本質は変わらない。力を振るいたい。すべてを壊したい。そうして……永遠に、そうしていたい。
「お前とひとつになれば、それもわかるかもしれないな。もっとも、理解するのはお前であり、俺ではない。俺に、理解なんてものは必要ないのだから」
「それなら、どうして今こうして話してくれているの?」
「それは、俺の中にもお前がいるからだ」
エアは、裁断の原理を構える。
「最後にひとつ。それじゃあ、あなたにとって私は何なの」
「すべての罪とその赦し、だ」
その言葉の意味は、エアにもエクソシアにもわからなかった。ただエクソシアは、己の中にある、エアに引きつけられている「力」が語りかける言葉を、そのまま口にしただけであった。
エアは裁断の原理を振るった。それは音もなく、エクソシアの存在そのものを切り裂いた。
空間はそこにある。エクソシアであった魔力の塊も、そこにはある。だがエクソシアという存在そのものが、裁断の原理が振り下ろされたその瞬間、形を保てなくなった。
外野から見ているものたちも、それが振るわれた瞬間、その対象であるエクソシアに対する概念が、自分の中で一瞬揺らぎ、崩壊し、再形成されるのを感じた。
それは、世界認識そのものを揺るがす一振りだった。
「どうしてあいつだけあんなに大きな力を持っているんだ」
「怪物だ」
「恐ろしい」
「俺もあんなに力があれば」
「力のぶつけ合いは憎しみと悲惨さしか生み出さない」
「弱き者にだって生きる価値はあるはずだ」
「強き者に抗うには、団結するしかない」
「裏切りものを許すな」
「力なきものは、ずっと、永遠に、奪われ続けるだけだ」
「救いなどない」
「力だけが、価値を決定する」
「弱者に価値なんてない」
「俺は弱者だ」
「力が欲しい」
「力が欲しい」
「もっと、力が欲しい」
――力を手に入れて、どうしたいの?
「誰かを助けたい」
そんなの嘘だった。ただ、強者として、弱者を蹂躙し、自らの幸福と安息、そして力の感覚を味わってみたいだけだった。
だけれど、弱者として、ひとりのちっぽけな弱い存在として、より強い人間の問いに対して、望まれた答えを口にしたに過ぎない。
彼女は、人間を愛していた。人間を信じていた。彼女の力に怯えると同時に、彼女の善良さを信じる我々は、彼女が我々に望んでいることを、真実にしてしまいたかった。
我々は、ただ弱いわけではない。他の弱い人間を助けることに、力を使いたかった。弱者を虐げるのではなく、弱者が虐げられることのない世界を作り出したかった。
少なくとも、我々の理性と、おしゃべりな口は、そう考えていた。
そして我々の、出来の悪い本能と、思考は、最後にこう語ったのだ。
「いずれにしろ、自分以外が持つ悪しき力のすべては、破壊し尽くしてしまうに限る」
エアは、自分の心に流れ込んでくる力と思念を感じて、涙を流しながら、深く頷いた。
「そうだったんだね」
返事をする者はいなかった。いや、いないはずだった。
「気づくのが、遅すぎたな」
先んじてそれに気づいたものは誰もいなかった。エア自身でさえも。
エアの背後、すぐそばに立っていたイグニスが、手に持った赤熱の刃で、エアの心臓を貫いていた。イグニスは、エアが驚くことを想定していたが、エアはすべてを受け入れるように振り返ることもなく、力を抜いていた。エアの体を支える八枚の翼は、より大きく広げられ、光を放ち、彼女を抱きしめるように全身を包み込んでいった。
イグニスはすぐさま姿を消した。残ったのは、白い翼に包まれ、宙に浮かぶ、巨大な卵のようになった、エアの死体だった。
「天使の顕現……というより神の創造、か」
ザルスシュトラは、ソフィスエイティアがつなげた空間の向こう側から、エアたちの動向を眺めていた。
「……どういうこと?」
「まだ確かなことはわからない。だがいくつかわかったこともある。エアは不死身であり、同時に、彼女自身の精神によって完全に制御できる存在ではないということ。今彼女に吸収されたエクソシアだけでなく、君やペイションが、エアによって制御されていないように、彼女はもはや、彼女自身によってその力をうまくコントロールできていない」
「……どうしてそうなったの?」
「それはわからない。ただ……彼女はおそらく、人間の願いを形にしたのではないかと思う」
「人間の願い?」
「そうだ。救われたい、救いたい。そういう信仰に近い欲求を、彼女は現実にしようとした。そしてそれに成功した。結果として彼女はおぞましい存在となった」
「どうして? 人間は別に、不幸になりたいなんて思いはしないと思うけれど」
「しかし、気に入らない他人を不幸にしたいとは思う。自分は誰よりも幸福でありたいと思うし、誰からも傷つけられたくないとも思う。誰よりも成功していたいと思うし、誰よりも多くを所持していたいと思う。そのためなら、どんなものでも犠牲にしてよいと思うのが、人間の心であり、本質だ。奇跡という魔術は、人間の表面的な部分から引き出されるのではなく、もっと深層の、裸形の、精神のもっとも濃厚でおぞましい部分から引き出される。しかし、そういった深層の部分すら美しかった彼女は、他の人間のそれもまた、美しいものとして信じてしまった。だから、こうなった。きっとそうだ」
「正解だ。ザルスシュトラ」
ザルスシュトラのすぐ後ろにあらわれたイグニスに、ソフィスエイティアは恐怖を感じた。
「おお、イグニス。そうか。その気になれば、この子の体の中にも入れたんだな」
「いや。お前の位置情報を経由している。お前がいなければ、もう少し手間がかかる」
「ともあれ、あれはこのあとどうなるんだ?」
「見ていればわかる」
イグニスは鼻で笑った。彼に敵意や害意がないことを感じて、ソフィスエイティアはほっとしたものの、しかしその理由が、もはや自分たちに勝ち目がないということだと理解し、絶望に近い感情を抱いていた。