75、責任
夏闘祭が無事に終了し、学園の理事たちは胸をなでおろしていた。しかし、そう楽観的になることのできない人物もいた。
「ミリネさん。ザルスシュトラさんは今……」
イグニスの弟子であるノロイは、できるかぎり現状を把握しようとしていた。ヴァイスなど、皇帝の眷属たちからも情報を集めていたが、それでもいまいち全体像がつかめずにいた。
「彼のことは私にも予測できないよ」
「……気づいていますよね? エクソシアがこの都市に近付いていることを」
ミリネは黙ってうなずいた。それ以上何も話さないのを確認してから、情報を引き出すためにノロイは言葉を繋ぐ。
「エクソシアの勢力は以前より弱まっています。下手をすると、私ひとりでも倒せてしまうかもしれないほどに。理事たちがエクソシアの接近に気づかないのも、そのせいです。大した脅威じゃないんですよ、今のあれは」
「そうだね」
「でも、ザルスシュトラさんが、このタイミングでエクソシアを送ってくるならば、何か策があるのではないかと思うんです」
ミリネは観念したようにため息をついた。彼女は内心で「昔の自分を見ているようだ」と思った。
「それはわからないよ。彼は偶然と運命を愛しているから、めったなことがない限りは策なんて練らない。でも行き当たりばったりに動いているわけでもない。その場その場で、よく考えて動いている。たいてい彼は、誰かを操っているのではなく、その対象が本当に望んでいるものを引き出して、それを実行させる。彼は導き手であって、操り手ではない」
「じゃあ、この件についてはそれほど深刻に考えなくてもいいのでしょうか」
「そういうわけでもないんだ。エクソシア自身がどうあれ、それ以外の存在が、エクソシアの行動をきっかけに大きな動きを見せるかもしれないし、そのことをザルスシュトラ自身が見越して、別の計画を実行しているかもしれない」
ノロイは頭を抱えた。それでは、本当に何もわからないじゃないか、と。
それから数刻が経過し、理事たちはエクソシアの接近に気が付いた。迎撃に名乗りをあげたのは、意外にもイグニスだった。
事実上の学園の最高戦力たるイグニスに対して張り合おうとする人間をおらず、そもそも暗に、エクソシアという魔王自体、イグニスが作り出したものであることを察していたものが多かったので、それも含めて、誰も反対しなかった。
「エア」
すべてが決まったのち、イグニスはひとりでエアの自宅に訪れた。エアはひとりで、本を読んでいた。「神話の黄昏」という作品だった。学術書で、なぜ「神話」というものが現代においてほとんど語られることがないのかということを論述したものだった。
「あぁニス君。珍しいね。どうしたの」
エアは、カタリナの一件など何もなかったかのように、いつもの明るい笑顔を見せて、本を閉じて、体をイグニスに近付けた。イグニスは、近づかれたのと同じ距離遠ざかる。昔からそうだった。
「エクソシアが来る。お前がいないと、アレは止まらない」
エアから笑顔が消える。恐怖はまだ残っている。唇を噛んで、目を伏せる。
「わかった。行くよ」
イグニスが背を向けて出ていくと、エアもそれに従ってついていった。イグニスは背を向けたまま言葉を繋ぐ。
「教えてくれ。なぜ、拒まないのか」
「いろいろ考えたんだよ、私も。きっと、エクソシアは私の一部なんだと思う。それはとても破壊的で、邪悪なもの。私が怖いのは、私自身が傷つくことじゃない。私自身が、誰かを傷付けてしまうことなんだ。でもね、たとえ私が知らなくても、エクソシアは誰かを傷付けているし、その責任は私にある。そしてエクソシアという……あのかわいそうな男の子が、私の元に還りたいというなら、私にはそれに応える義務がある」
イグニスは、やはりエアはエアなのだと感じた。真っ白な鎧を着た、どんな障害も真っ二つに切り裂いてしまえる、清廉で、純粋で、どうしようもなく……愚かな人間。
「私もニス君に聞きたいことがある」
「なんだ」
「どうして魔王なんて作って、放り出したの」
「俺は魔王なんて作り出してもいないし、放り出してもいない」
「そうなの?」
「あれは必然的に封印を解く過程で生み出されるものであるし、あれらを安全な場所に留めて置くことも不可能だ。封印だけが可能だが……それでは本末転倒だしな」
「そっか」
それからしばらく歩いて、島の周縁に辿り着いた。そちらの方角からエクソシアが近づいていることは、ふたりには確かに感じられていた。
「これから起こることは、お前にとって悲劇以外なにものでもない。お前以外の人間すべてにとっても、だ」
「ニス君にとっても?」
「そうだ。とても悲しくて、残酷なことが引き起こされる。その責任は……俺と、お前にある」
エアは黙ってうなずいた。
「お前は、この先に何があっても、俺を恨んだりはしないんだろうな」
イグニスはひとりごとのようにそう呟いたが最後、それ以上何も言うことはなかった。