8、帝国の影
カタリナが去った後、ザルスシュトラは「さて」と、言葉を置いた。
「シグ。彼女はどうだった?」
「まっとうな魔術師だ。狡猾で、卑怯な、普通の、強い魔術師だ」
「イグニスのやつが言っていた通りだな。戦い方も情報通りだったか?」
シグはうなずく。
「風の魔剣と氷の単純魔法で牽制しつつ、隙を見て接近、体術を使いつつ、近距離から強力な腐蝕属性の魔法を放ち、離れぎわに高精度高威力の遠距離魔法。避けたら爆発。俺はそこで対処できなくなったが、おそらくそのあとの続く攻撃もあることだろう。戦いの後すぐに、起動済みの術式を五つか六つ解除していたからな」
「本当に聞いていた通りだったのか。わかっていても対処できなかったのか?」
「あぁ。先に攻撃を仕掛ければ動きづらくなるだろうと思ったのだが、あまり関係なかったな。それにしても、暗殺者が手の内を容易にさらしていいものなのだろうか。彼女の戦い方は、暗殺者にしては、派手で、わかりやすすぎる」
シグの疑問はもっともなように思えるが、事情を知るザルスシュトラにとっては、滑稽なものだった。
「そもそも彼女は暗殺者としては中堅どころだからな。ギルド直属の暗殺部隊は総員三百を超えるが、彼女はその中だと百番目程度だ。たまたま上司が死んで繰り上がりで小隊のリーダーになったそうだが、与えられる仕事は比較的易しいものだったらしい。その気になれば簡単に始末できる相手だからこそ、イグニスは彼女を選んだんだろうな」
シグは眉間に皺を寄せ、不快感をあらわにする。
「あのじいさんはそんなに強いのか。ザルスシュトラ、あんただってあの女を倒すのは簡単じゃないだろうに」
「中央大陸最優の魔術師は伊達じゃないってことだ」
「なぁ。お前も本当にあいつが企んでいることを知らないのか」
「実はいくらか知っているし、協力もしているが、お前は知らない方がいい。事情は結構面倒だし、結果を見てみないとことの是非も判断しがたいことなんだ」
「……今暴れている三大魔王と、あの記憶喪失の女とは何か関係があるんだろう?」
「あぁ。だが私にだって、イグニスの心の中まではわからない。ただあの、気難しく、繊細で、心優しい老魔術師が望んでいることを、叶えてやりたいんだ」
「気難しいってところには同意だが、他は意味不明だな」
「まぁいずれわかるさ」
ザルスシュトラは腕をまくり、畑仕事に出向いた。シグも暇だったので、ザルスシュトラの手伝いをすることにした。
「なぁザルスシュトラ。そもそもイグニスはどうやってギルドから情報を仕入れたんだ。あいつらは帝国と同じで口が堅いんじゃないのか」
「あぁ、私たちが持つ帝国の技術と引き換えに、近々中央大陸に渡る実力者の情報を引き出したんだ。やつら、どれだけ頼んでも現役の者たちの情報は出さな……」
シグは聞き終わる前に疑問を挟んだ。
「帝国の技術って、大丈夫なのか?」
「あぁ。三百年前のもので、今は使われていない時代遅れのものだからな。応用もほとんど効かない。皇帝からの許しも出てる」
「なぁザルスシュトラ。俺たちは帝国から逃げ出してきたが、結局は皇帝の手ごまに過ぎないのか?」
シグのまなざしは真剣だ。ザルスシュトラは笑うのをやめて、冷たいまなざしでシグを見つめる。
「奴にしてみれば、どんな敵も、理解し、誘導することで簡単に手ごまにしてしまえる。だからこそ、あれほどまでに偉大な国家を作り上げることができた。お前も帝国史を学んでいるならわかるだろう」
「だが!」
「そもそもだ。やつはその気になれば、私たちを一瞬で終わらせることができる。私たちの自由は、皇帝に許されなければ存在しないのだから、ある程度は配慮せねばなるまい」
「……俺たち全員で立ち向かっても、どうにもならないのか」
「どうにもならないな。一度でも会って、目を合わせてみればわかる。逆らうだけ無駄だと」
シグは最後に、もっとも重要なことをたずねた。
「この件に、皇帝はどれくらい関わっている」
「皇帝は懸念を示している。この計画は私たちのものではなく、イグニスのものだ。結果次第では皇帝が出張ってきて、私たちごとイグニスを潰すだろう」
「なら、イグニスを切り捨てるべきなのではないか。俺たちのために」
「なぁシグ。それじゃあ、帝国やギルドと同じじゃないか。都合の悪い部分を切り取って、自分たちの利益になる存在しか許さず、仲間として認めない、そんな団体として安寧を気づいたとして、私たちの理念はどうなる? 誰も憎まず、誰も罰せず、誰にも同情しない、そんな私たちの生き方を、どうやって守っていけるだろうか?」
「じゃあどうするんだ」
「だから、イグニスと協力して、皇帝のご機嫌を取らなくてはならない」
シグはため息をついた。帝国が嫌で逃げ出してきたのに、結局はその影である皇帝に怯えているままなのだ。
いや……影ではなく、むしろ皇帝その人が帝国の本体なのかもしれない。
唯一帝ブラン。八百年を生きる超越者にして、帝国の守護者。
エリアル・カゼットが、ある意味において皇帝と血縁の関係にあることは、今はまだ、皇帝以外の誰にも知りえないことであった。