70、夏闘祭⑤
グラウンドで、イグニスとカタリナが向かい合っている。雨はやんだが、曇り空だ。
「まぁ、この学園で今の私に勝てるのなんて、あなたかミリネくらいだと思ってたよ」
カタリナは軽口を大声で言う。観客にもそれは聞こえている。学園の教授陣は、あるものは顔をしかめ、ある者は苦笑いしている。
「茶番だな」
「本当の姿を見せてはくれないの? エアには見せてあげたんでしょ?」
イグニスは、手に持った杖を捨てた。背の高い老いた老人は、全身に真っ赤な鎧を身にまとった。
「……何それ」
「血迫の重鎧。疑似概念形装だ」
「なるほど。エアの概念形装を解析して、自分のものにしているわけか」
「理解が速いな」
その手には、槍の形をした渦状の紐が握られている。それらは周囲の魔力を吸収し、その属性を切断と熱に変化させ、高速で回転している。
「戦闘技術科元正教授、疑似概念形装の権威であり、大陸最優の魔術師、イグニス様のことは噂に聞いていたからね。いくつかの古い文献にも出てきていたし」
「勉強熱心で何よりだ」
ふたりの会話が止まり、会場に沈黙が流れた後、思い出したようなタイミングで戦いの開始を告げる鐘がなった。
先に仕掛けたのはカタリナだった。転移魔法でイグニスの背後に回り、サーベルを無防備な背中に突き刺そうとしたが、その刹那、サーベルを握った左腕に、強烈な痛みが走り、すぐにもう一度転移魔法を唱え、距離をとった。
イグニスは、指一本動かしていない。カタリナは焼けただれた左腕を治癒の魔法で癒している。もしイグニスがその気なら、すぐにでもとどめがさせるであろうことは、カタリナも理解していた。最初から、力量の差はわかっている。
「疑似概念形装って、概念形装の劣化だと聞いたんだけど」
「劣化だ。間違いなく」
事実、血迫の重鎧は、エアの潔白の重鎧よりも硬度は低く、また、その形状に自由度もほとんどない。エアのように、その重鎧を盾や槌に変化させて武器にすることはできないし、また遠隔操作を行うこともできない。
しかし、疑似であったとしても、概念形装は概念形装であり、所持者の精神にその性能は強く依存している。イグニスの、他を寄せ付けず、すべてを燃やし尽くすほどの拒絶の鎧は、彼に触れるもの一切を焼けただれさせる。
「なんか、わからないな」
「何がだ」
「冷めているのか、燃えているのか」
「よく言われる」
イグニスは、その手に持った炎の槍を前に突き出す。彼が刺焔と呼ばれる由来となったその槍は、遠く離れたカタリナの体を瞬時に貫くほどの速さでその先端を伸ばした。カタリナは転移魔法で再びイグニスの背後をとった。今度は、サーベルではなく、腐蝕の属性で結晶化した使い捨ての右腕を、彼の鎧にめり込ませた。こちらは、効く。カタリナは、焼けただれて崩壊する自分の拳が、イグニスの概念形装を浸蝕するのを確認し、彼の上空に再び転移した。
だが、その瞬間、カタリナの体に、無数の穴が開いた。彼女の周囲には、いや、周囲だけでなく、そのグラウンドの上空を埋め尽くすほどの数の、赤い、無数の棘に覆われた球体が浮かんでいた。カタリナの近くにあるものだけ、その棘が鋭く伸び、彼女の体を貫いていた。
責殻の業。防御的な疑似概念形装であり、本来は自らの周囲を囲う球状の防御結界だが、イグニスはそれを小型化、自律化し、宙に浮かばせ、機雷のように扱っていた。
カタリナは、すぐさま転移を行った。穴だらけの体をすぐさま治癒しようとするが、イグニスもまた、カタリナのすぐ目の前に転移魔法を唱え、彼女の首を掴んだ。カタリナはまた転移魔法で逃げようとするが、イグニスは「やめておけ」と忠告した。カタリナの首が、焼けただれる。声は出ない。魔力をうまく扱うこともできない。もし今無理に転移しようとすると、下手すると、体の部位が別々の場所に転移してしまうかもしれない。最悪の場合、首から上だけがどこかに飛んだりするかもしれない。
だが、それでも……
「やめて!」
エアの叫び声に、会場はしんと静まり返る。イグニスは、カタリナから手を離す。同時に、試合の終わりを告げる鐘が鳴った。エアはすぐさまカタリナに駆け寄る。カタリナは必死で自分の体を癒す。だが、イグニスに焼かれた体は、簡単には治らない。イグニスの火は、魔力回路ごと焼き尽くす。進蝕作用も含んでいるうえに、焼かれた部位の形質を即座に冷却する作用があり、傷が残りやすいのだ。
治癒魔法を専門とする理事会員が慌てて駆け寄ってきて、カタリナの体の様子を見て、丁寧に処置を施していく。
小さな声の会話が重なって、会場を不穏な空気が支配していた。カタリナの無事を心配する声も、少なくなかった。イグニスを称賛しようとするものはひとりもおらず、ただそこで起きた出来事に、みなが不快と恐怖に慄いていた。
イグニスは、そんな光景を、戦闘態勢もとかず、ただぼうっと見つめていた。
俺は何のために強くなったのか。そう己に問いながら。
イグニスは最後までカタリナを殺すかどうか迷っていた。
カタリナが学園にとって邪魔で危険な存在であることに変わりはなく、また、今ここでカタリナを殺すことで、エアの精神を不安定にすることもできる。メリットは十分にあった。
だが、デメリットの方も少なくない。部外者がいる場で、運営側であるイグニスがトラブルを引き起こすのは印象が悪く、さらに責任問題になる。
もしエアがカタリナと戦っていなければ、カタリナは客席の部外者たちにとっても悪役のままであったろうし、その場合なら運が悪く彼女が事故、あるいは自業自得のような形で死んでも、大きな問題にはならなかったことだろう。
イグニスは迷った結果、カタリナを事故に装って殺害することにした。転移魔法の失敗を偽装し、空間設置型の概念形装「責殻の業」でコアを貫き、即死させるつもりだった。
刺焔槍で地上付近を支配し、上空への転移を強制し、そこで迷彩術式で隠していた責殻の業をすべて起動し、その姿が観客にも見えるようにする。その一回目の発動ではまだ戦える程度の傷に済ませることで、決して狙って殺そうとしているわけでないことを周囲に示す。その後、カタリナの隙を見て、転移で急接近し、首を絞めるというよく知られた不完全な拘束を行うことで、誰が見ても、転移するか、降参するかという二択しかとれない状況を作り出す。
最後に、カタリナを、イグニス自身の転移魔法で飛ばす。四肢をそれぞれ別の場所に飛ばしたうえで、その心臓を責殻の業で貫く。これで、みなにカタリナ自身の責任であるような印象を植え付けたうえで、事故を装って彼女を殺害できる。
そのつもりだったが、首を絞めた時、イグニスは躊躇した。自分が転移魔法をカタリナに使う前に、カタリナはそれを察知したうえで、先に転移を発動して、イグニスを飛ばそうとしたからだ。もし同時に、互いに向かって転移魔法を唱えた場合、どうなるか。イグニスは、身の危険を察知し、転移に対する抵抗術式を自己の内部に即座に形成した。それは、ほんの一瞬のことであり、決して不自然な間ではなかった。ただその、イグニスの決断がほんのゼロコンマ数秒遅れたことによって、カタリナは命拾いした。エアが叫び、その瞬間に試合の終わりを告げる鐘が響き、何人かの観客がほっと息をついた。そして、カタリナも目をつぶり、発動直前だった転移術式を解き、力を抜いていた。ミリネも、結界を解き、もはや戦いを続けることは不可能な状況になっていた。
殺さなくてはいけない状況ではなかった。だが殺すと決めた。しかしできなかった。
「先生」
「ノロイか」
「大丈夫ですか」
「何がだ」
「その……カタリナさんが、生きていることは」
「さぁな」
実際、カタリナを殺すことは計画において重要な部分ではなかった。どちらでもいいことだった。
殺すことにした明確な理由は、単にこれから起こる悲劇的な劇の幕を、自分の手で開きたいと考えたからであった。
「その、このことも書き残した方がいいんですかね」
「お前が自分で考えて決めろ」
「わかりました」