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67、夏闘祭②

 トーナメントが始まったとき、ザルスシュトラは変装してウスティカ島に潜入していた。彼に気づくものは誰もいなかった。

 ザルスシュトラもはじめは観客としてトーナメントを観戦する予定だったが、道中、セラが会場から離れていくのを見て、彼女をつけることにした。

 イグニスの気配はなかった。彼が今トーナメント会場にいることは、ソフィスエイティアが確認しており、アイルは現在ソフィスエイティアの体内にいる。

 ならば、とイグニスは決意し、ソフィスエイティアに合図を送る。セラを、ソフィスエイティアの体内に送るよう指示した。


 セラはすぐさま異変に気付き、裁断の原理を顕現させたが、それは形を保てずに崩壊した。

「君に関しては、私たちが何かをする必要もなく、放っておけば消滅していたかもしれないな」

 セラが振り返ると、そこにはきわめて平凡な容姿をした見慣れない男性がいた。

「誰?」

 セラがあたりを見渡すと、そこは自分が歩いていた通りの景色ではあったものの、どこまで遠くを見ても、その通りの景色が無限に連なっていることに気が付いた。この空間は、正常な空間ではない。作られたものだ。

「ザルスシュトラだ」

 うさんくさい、彼岸の主。イグニスの盟友にして、享楽主義者。

「何のつもり?」

 ザルスシュトラの隣に、魔力の塊が集まっていく。そこに、セラとそっくりの容姿の少女が現れる。ソフィスエイティアがそこに出現させた、幻影体だ。

「……魔王」

 そうつぶやいた瞬間、背後に感じた覚えのある気配に気づく。ペイションだ。振り向くと、そこには真っ白に染まった髪の少女がうつろな目で自分を見つめていた。その魔力や存在の在り方は、かつて自分が力を奪い取ったペイションそのものなのに、その肉体は極めて現実的な、人間のものであった。

「ペイション!」

「今の私はアイルだよ、セラ。白智の空、アイル」

 そう言ってアイルはゆっくりとセラに近づいていく。セラは後ずさり、その背の美しい翼で自らの肉体を抱き、守ろうとする。

「さて、どうする? セラ」

 ザルスシュトラは楽しそうに、背後から声をかける。セラは、かつてペイションの力を奪った時のように、その場でひざを折り、祈るように手を結んだ。彼女の周囲に、魔力のひずむができるが、ソフィスエイティアの体の中に、アイル以外のペイションの分体は存在していない。

 アイルの肉体は、セラに引き寄せられるが、決してペイションの精神とアイルの精神が引き裂かれるようなことはなく、それは同時にセラに向かっていった。そして。

 アイルは、膝をつくセラの頭上に手をかざす。その手からは、白い粘液がぽたり、ぽたりとしたたり落ち、セラの美しい金色の髪を濡らした。

「生きることは苦しいよね」

 アイルの声は、天上から響いたかのように、セラには感じられた。

「……うん」

「もう、何も考えなくていいんだよ」

 もはや返事は必要でなかった。

「すべてを忘れればいい」

「あなたに罪はない」

「何もしなくていい」

「ただ呼吸をして」

「ゆっくりと呼吸をして」

「生きることを放棄して」

「死ぬことも放棄して」

「消えることも生じることも放棄して」

「ただそこに在るだけでいい」

「あなたはただ、生きているだけでいい」

 セラの体はゆっくりと溶けていき、最後には白いどろどろの液体に変わってしまった。アイルはそれを掬い取ると、それはすべてアイルの体に流れ込んでいった。

「一つ目の問題は解決したというわけだな」

 ザルスシュトラは、楽し気にそう言った。ひとりの少女の存在が消えたという事実を、彼は少しも悔やまなかったし、悲しむこともなかった。

「そうね」

 ソフィスエイティアは、自分がいつかエアに吸収されるときも、このように消えてなくなるのかもしれないと思い、小さな恐怖を味わっていた。

「アイル。体はどう」

「なくしていたものを取り戻した感覚」

「ねぇザルスシュトラ、イグニスは気づいているかな?」

 ソフィスエイティアの問いに、ザルスシュトラはほほ笑む。

「ずっと前から、やつは気づいているさ。だが、何の手も打ってこない。おそらくやつは、この状況を楽しんでいる」

 問題なのは、とザルスシュトラは胸の中でつぶやく。

 セラが消えたことに、エアが気づくかどうか、だ。彼女の裁断の原理は、その気になればソフィスエイティアの肉体を容易に切り裂けるであろうし、それだけでなく、アイルとペイションのつながりを消失させることも、その力を無力化させることも可能であるということ。

 今の段階で魔王たちにとってもっとも恐ろしいことは、イグニスと敵対することではなく、エアと接触することだ。力の多くを取り戻しているエアは今や、単独で容易に魔王たちを討伐できる。相性があまりにも悪いのだ。

「ともかく、今の段階ではエアを何とかするのは難しい。エアの力が弱まるか、あるいは封印の手段がわかれば、行動に移そう」

 アイルとソフィスエイティアは頷き、ザルスシュトラは試合を観戦するために再び闘技用グラウンドに向かった。



 エアは、善良で、強く、賢い女性だった。彼女は、迷える子羊たる私たちを導いてくれた。

 何のために生きるのか。世界はどうあるべきか、教えてくれた。私はエアを心の底から信じていた。周囲の人たちも、それぞれ欠点を抱えていたけれど、エアを愛し、信じているという点で、みんな同じだった。みんな、仲間だった。


 私たちは裏切られた。エアにではない。私たち自身によって。私たち自身の、悪によって。

 私たちは知っている。誰が一番傷ついたのかを。誰が一番、罪を背負わされたのかを。

 私たちは知っている。私たちは、すべてを見てしまった。すべてを、受け入れてしまった。


「ねぇセラ。生きることは苦しいことだよね」

 ひとりきりになったアイルは、自分の体の中にいるセラに語りかける。

「うん」

「すべてを忘れて生きたって、別に構わないよね」

「うん」

「……エアは、私たちを許してくれるよね」

「……うん」

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