64、野心
たいていの作られた物語には主人公がいて、その周りに主要な人物たちがいる。
その中で描かれる出来事のうちもっとも重要なのは主人公の行動や意志であり、周囲の人間は、その行動や意志をより美しく飾るために機能する。
普通、ヒロインも、親友も、そういうふうに扱われる。
悲しいことに、現実世界において登場人物はすべて、自分のことを主人公だと思い込んでおり、そのように行動しようとする。つまるところ、周囲の人間を、自分が活躍するための道具としてあってほしいと無意識的に思っているのだ。
そういう人間の心の自然な動きに反し、ただ現実を現実のまま見つめ、自分を、世界の上にたつ一個の塵に過ぎないことを知り、他者を自らと対等な存在として見なすところにのみ、新たな世界が開けてくる。
そうして生まれた力がかつて、魔法と呼ばれていた。
「はっきり言って、私は夏闘祭の主役になりたい」
カタリナは頑として譲らなかった。戦闘技術科の准教授であるアリシアがどれだけ説得しても、カタリナは聞く耳を持たなかった。
「今年はただでさえ問題が多いんです。魔王たちの動きも怪しいですし、彼岸の盟主も行方不明です。今年は例年より退学者の数こそ少ないものの……」
「それはあんたがたの事情であって、私の事情じゃないでしょ」
「こっちにもメンツってものがあるんですよ」
夏闘祭においてカタリナが圧倒的な実力を示して、優勝すること自体はそれほど大きな問題ではない。問題なのは、そのあとの、優勝者と講師のエキシビションマッチの方だった。現在、カタリナに対して確実に勝てるといえるような講師が、ミリネくらいしかいないうえ、そのミリネは大会の安全のための術式の維持で、手が空いていない。
「本当に、お願いします。辞退してください」
アリシアは、プライドがずたずたになりながらも、カタリナに何度も頭を下げていた。皆の前で、この女に伸されることだけは避けなくてはならない。もしこのままだと、自分のキャリアは台無しになる上に、これまで積み上げてきた生徒たちからの信頼や尊敬すらすべて崩れかねない。
「あのさぁアリシア。自分より強い人間と戦わないことが、戦闘技術科の魔術師として正しいわけ?」
「それは状況次第です。私にも、学園にも立場とメンツというものがあります。負けること自体が問題なのではなく、負けているところを何も知らない人たちに見られるのが問題なのです」
「でも私はさ、皆に自分の雄姿を見てもらいたいんだよね」
「どうしてそこまで目立つことにこだわるんですか」
カタリナは不敵に笑った。
「逆に聞くけど、じゃあどうしてあなたはそこまでして自分の職や地位にしがみつくの?」
「それは……」
「同じことなんだよ。私たち人間は、どこまでも自分の力を証明したい。他者から抑圧されていたくない。私は入学してから何か月もずっと我慢してきた。魔王を倒すためという目的をもって学園に入ったけど、途中で私もエアも、ヴァイスも、気づいていた。魔王は倒す必要がない。あれらは……勝手にエアに引き寄せられ、エアに倒される。だから私たちが学園に入れられたのは、単にイグニスが私たちの行動を管理しやすいからというそれだけの理由に過ぎない」
「私も学園も、そんな事情は知りませんよ」
「知ろうが知るまいが、私は一度も学園の規則を破らなかったし、夏闘祭に出場し、優勝し、あなたを叩きのめすことも、決して間違ったことではない。それにさっきからあなたは、自分と学園が困るというような言い方をしているけれど、実際にはそうじゃないでしょ? 学園は、あなたを更迭してしっぽ切りすることができる」
アリシアは唇を噛んだ。それは、おそらく正しいことだった。事実として、学園の歴史上、何度か生徒が教師を破った事例があり、その場合、教師は辞任に追いやられるか……それか、最悪の事例として、その試合の最中に死亡した者もいる。
生徒同士の試合と異なり、エキシビションマッチでは細かいルールの規定もなければ、罰則も存在しない。あくまでエキシビションは、学園の講師の実力を内外に示すためのイベントであり、生徒たちの実力を高めあうことを目的としていないため、安全措置は取られていないのだ。
もちろん、アリシアはカタリナをそこまで非常識で残酷な人間とはとらえていない。彼女は最低限他者に配慮することを知っている人間であるし、自分を殺すようなことはないと思っている。
だが同時に、他者の利益やメンツなどに関しては、カタリナは一切興味を持っていないし、何よりも野心の強い人物で、それを他の何よりも優先する傾向にある。
こんなことになるなら、もっと早めにカタリナのご機嫌をとって、なんとかうまく負けてもらうように頼むべきだったかもしれない。
「エアさんは、カタリナさんの行動をどう思っているんですか」
「エアは私に勝つつもりみたいだよ」
「え?」
「エアは最近、急激に力が戻ってきている。白鎧の硬度も上がっているし、循環魔力の総量も大きく増えている。技術は未熟だし、魔法の知識もまだまだだけど、油断できる相手じゃない。今の私とエアは、大会では敵同士だよ」
アリシアはそれを聞いて再び頭を抱えた。おそらく、うまくカタリナを説得できたとしても、エアが優勝して自分と戦うことになったなら、エアは八百長なんて器用なことはできないだろうし、そもそも誰かを騙したり、卑怯な策に加担するようなことが想像できる人物でもない。
もちろん、エアならばアリシアが全力で挑めば何とか対処できるだろうと想定されるが……しかし、夏闘祭まであと二週間あり、その間にエアがさらに成長したら、どうなるかはわからない。
「じゃあカタリナさん。ひとつ聞いていいですか」
「何?」
「私はどうすればいいんですか」
「対策を練ればいい。私が優勝すると思うなら、私の情報を集めて、私に勝てるように準備をすればいい」
もちろんアリシアは、すでに可能な限りの情報は集め、努力もしていた。だが無理なものは無理だ。魔力量自体がそもそもカタリナの方がはるかに上回っているうえに、使える魔法の種類も、その質も、カタリナの方が上なのだ。
アリシアは、神童と呼ばれていたことさえあるほどの才能豊かな魔術師であるものの、身体改造は行っておらず、成人してからの精神性自体、それほど成長しておらず、今や平凡だが優秀な若い魔術師という評価を受け入れて生きている。
反対にカタリナは、自己鍛錬を怠ったことのない人物であり、自らの才能をほとんど意識することなく、ただただ、自らの欲望と目的のために走り続けてきた人物である。誰からも足を引っ張られず、一切の躊躇や迷いもなく、その時々で自分がそうすべき、そうしたいと思ったことをしてきた人物である。
根本的に、魔法に対する向き合い方が違うのである。アリシアは、迷いながら、自分の将来を、決められた枠の中で、よりよい方向に持っていこうと四苦八苦して生きてきた。カタリナは、一切迷わず、自ら望んで危険の中に飛び込み、その瞬間の生を最大限輝かせながら生きてきた。アリシアの魔法は、人に教えるためのものであり、カタリナの魔法は、勝利するためのものだった。
「何か、欲しいものはないの」
「ない」
実際、カタリナに欲しいものなどなかった。それまで彼女が欲しがっていたもののほとんどは、すでに学園で共有されていたものばかりだった。魔法の知識、貴重な書籍。将来への展望に、自己理解。
今カタリナが求めていたものは、正当な力の放出であり、心躍るような冒険の衝動であり、勝利の美酒であった。
アリシアはため息をついて、夏闘祭の前に職を辞すことを考え始めた。恥をかいて、魔術師として生きていけなくなる前に、一時的に休職し、別の者にはずれくじを引いてもらう方がいい。
もし彼女が本当の意味で魔術師として一流であったなら、自らの破滅を覚悟で、大きな敗北に向かっていったかもしれない。だが彼女は、どこまでも世俗的な人間で、自らの身を案ずる、定命の者であった。
「ここらで潮時かなぁ」
カタリナとの交渉が決裂したあと、アリシアはひとり海岸沿いを歩きながら、アイルのことを想った。
落ちこぼれの妹。向上心がなく、逃げてばかり。ルティアと違って、根性もなければ、自らと向き合う強さもない。
それでも彼女にはいいところがいくつかあった。ひとつは、決して誰かを傷付けようとはしないところ。もうひとつは、諦めが早いこと。
なんとなく、彼女にもっと優しくしておけばよかったと思った。もし自分がこの大会ですべてを失うことになったなら、家に帰って、彼女と一緒にゆっくりした時間を過ごそうと思った。
「お前がアリシアか」
低く、深い声が背後で響き、アリシアは驚いて振り返る。そこには、赤いローブを身にまとった老人がいた。
「イグニス、さん?」
「夏闘祭は俺が出よう」
「え?」
唐突な申し出に、アリシアは驚く。もちろん、アリシアの頭の中に、イグニスに代わりを頼むという選択肢はあった。しかしイグニスは、基本的に誰かの頼みを快く引き受けるような人間ではない。どこまでも世俗と離れており、禁欲的で、独立的な彼は、あまり人前に出たがらないし、面倒ごとを避けようとする性格だった。
そういう性格が、むしろ他の欲にまみれた学園の理事たちに好かれていた。彼は学園の勢力図に一切関与してこないうえに、誰の頼み事も聞かず、それでいて自ら判断して学園の利益になる行動をしてくれる、都合のいい人物だったのだ。
「余計なお世話だったか?」
「い、いえ。ものすごくありがたいです。で、でもなんで」
イグニスは、鼻で笑って、アリシアの耳元まで顔を近づける。ほのかによい香りが漂ってきて、アリシアはそれを意外に感じた。
「俺はここでカタリナを殺しておきたい」
その理由はわからなかった。アリシアは、イグニスの計画も、エアの正体も、何も知らなかったし、知りたくもなかった。
「殺したいなら、いつでもそうすれば……」
「重要なのは印象付けることなんだ。俺が、カタリナを殺したということを」
「どうして」
「そうした方が、エアが苦しむと思ったからだ」
イグニスの声の中に含まれていたのは、期待と興奮だった。アリシアは不思議と、恐怖しなかった。それは、新しい遊びを思いついた男の子のように無邪気で、無害なもののように、アリシアには聞こえてしまったのだ。
実際、イグニスの心の中にあったのはそういった感情だった。彼にとってカタリナはつまらない人間だったし、いつ殺しても構わない人間だったが、エアにとってはそうではないということが、重要なことだった。
「結局きっかけはいつもお前だ。お前が悪に走るなら、俺だってそうする。俺はお前についていこうとしているんじゃない。ただ俺はずっと、お前が先に行くのを待っていただけだ。それは……お前への敬意であり、愛着であり……ダメだな。俺はお前のようにうまくは話せない」
イグニスはひとり、その場にはいない親友に語り掛けていた。その声が届くことはないが、おそらくザルスシュトラは、イグニスがそういったことをしていることを、想像し、理解していることだろう。
「最初からそうするつもりだった。だが、俺とお前の弱さが、人間性が、平凡さが、彼女らに時間を与えた。そしてそれは、俺たちの悪を、より甘美で、優れたものとして飾り立てる役に立った。何かを破壊するなら、その破壊されるものは、美しければ美しいほどよい。価値があればあるほどよい。お前はいつかそう言ったよな」
イグニスは自らの死を想った。それは、自らのこれまでの生を想うのと同じ重さであった。
「あまりに多くのものを見てきた。あまりに多くのものを感じてきた。残ったものは、空しさだった。倦怠感と、絶望だった。だが今の俺にあるのは、俺が生まれた時に持っていたものだ。それは火だ。生命の本質だ。燃え続けること。燃やし続けること。そして、燃え広がり、最後には、燃え尽きて、灰になること。俺は今、それだけを望んでいる」
違うな、と鼻で笑う。
「そうでない生を見たいんだ。そうでない生を、エアなら、きっと……」