63、タイムリミット
「先生。報告しなければならないことがあります」
ノロイは、師をがっかりさせるような報告はしたくなかった。でもこの件に関しては、一刻も早く告げなくてはならない。
「ザルスシュトラが裏切ったか」
イグニスは冗談交じりの口調でそう言った。椅子を回して、ノロイの方をしっかりと見据える。機嫌はよさそうで、ノロイとほっとする。
「はい」
「そろそろだと思っていた。最近のあいつは……どこか、物足りなそうだったからな」
「そうなんですか?」
「あいつは悪事を働くのが好きなんだ。そしてあいつは、友情なんて生ぬるいものよりも、必ず自分の直感や本能を優先する。そしてそれは、俺も同じだ。いや……それをあいつから教えてもらったというのが正しいか」
ハハハと、イグニスは高笑いをする。ノロイは、最近のイグニスはよく笑うようになったと思った。そのことを、ノロイは密かに嬉しく思っていて、この時も同じだった。
だとしても、事態は深刻である。ノロイは咳払いをして、ザルスシュトラがソフィスエイティアとペイションに接触し、おそらくは魔法の知識と学園の情報を流していることを報告した。イグニスの表情は崩れない。すべて予想できていたのだろう。
「先生。それで、大丈夫なんですか」
「大丈夫ではない。そもそもザルスシュトラは、その気になればひとりでこの島と学園をつぶすことだってできるだろうし、そこに魔王の力が合わされば、俺もお前も無事では済まないだろう。もっとも、そうなる前に出てくるであろう皇帝をどうにかしないといけない上に、その皇帝を対処できるほどの力はあの男にはないだろうがな」
「えと、つまり……皇帝頼み、ということですか?」
「いや。もともと俺はこういう状況になったとしても構わないように準備している。もっと言えば、俺が死んだとしても、計画は進むようにしている」
イグニスが死んだとしても、ということをノロイは想像して、息がつまりそうになる。もしそうなったら、自分は何を頼りに生きていけばいいのだろう?
ノロイは不安のあまり、頭に浮かんだ嫌な予感をそのまま口に出す。
「先生は、この計画の中で死ぬつもりなのですか?」
イグニスは鼻で笑った。ノロイはそれを肯定ととらえ、涙がこぼれそうになる。もし彼がそれを望むなら、必ずそうなってしまうことだろう。そういう人だから。
「エアの封印はもともと時限式で、それを更新する者がいなければ、自動的に解除される。そして俺は、それを俺自身や皇帝であっても更新できないように、不可逆的な処置を施した。つまるところ……時間とともにエアは力を取り戻し、それにともなって、魔王たちも、それに抗えなくなっていく」
珍しくイグニスは饒舌になっている。
「そもそもだ。魔王たちとエアは、すべて合わせてひとつの存在で、物体的には離れているように見えるが、実際には太い鎖でつながれており、今はただ、構成要素が拡散している状態に過ぎない。それらは風船がしぼんでいくように、放っておいても最後には統合される。そして統合されるタイムリミットは半年後……」
「先生。なんで、今更私にそれを教えるんですか」
「お前が迷わないように、だ」
「どういうことですか」
「ザルスシュトラが裏切った以上、俺はいつ死んでもおかしくない。その時にお前が、意味もなく俺のために無謀なことをしないように、だ」
「つまり、先生は、私に何もするなと」
「いや。そうではない。半年後、おそらくは冬頃になるだろう。その時に、エアは極めて危険な存在になる。お前程度の魔術師では、どうにもならないような存在になる。お前がどうしようとお前の勝手だが、俺自身の考えを予め示しておこうと思ってな。俺はお前に、記録者になってほしいと思っている」
「記録者」
「俺はお前に、エアという存在のことを書き残し、広めてほしいと思っている。それと同時に……俺のことも書いておいてほしいと思っている」
イグニスは、地位や名声にあまりこだわらない人間だと思っていたし、死後の人々の記憶に残ることも、あまり気にしていないのだとノロイは思い込んでいた。だから、その頼みは意外だった。
「勘違いするな。俺はただ、エアという存在を……どこまでも、そうであった通りに、残してほしいだけだ。そのために、俺という実在した彼女の弟の性格と行動を、書き残すことが合理的だと考えたに過ぎない。そしておそらく、今この瞬間、俺のことを少なからず理解している人間のうち、俺のわがままを理解し、聞いてくれるのはお前くらいしかいないから……あぁ、エアが今の俺を見たら笑うだろうな」
「わかりました。先生とエアさんのことを、書けばいいのですね」
「これまで起こったことと、これから起こることとを、だ。だがお前が死んでしまったら元も子もない。だから、自分の命を最優先しろ。お前は記憶力がいいし、文もうまい。お前のほかに適任者はいない」
ノロイは一瞬だけ、イグニスは自分の命を案じて、つまり、イグニスが死んだあと、自分もあとを追うのではないかという心配から、そういう長く続く任務を与えたのではないかと思った。でも、その考えはすぐに振り払った。イグニスは……そんなに自分を愛してくれてなどいない。
「なぁノロイ」
「はい」
「もし嫌なら、俺の言ったことは全部忘れてくれても構わない」
「どんなに嫌でも、先生がそうおっしゃったなら、私はその通りにしますよ」
「なんといえばいいんだろうな。言葉、文章なんてものは、どうやっても現実の拙劣な模倣にしかならない。お前がどれだけ努力をして、優れた表現をしたとしても、本当の俺やエアを描くことはできないことだろう」
「私もそう思います」
イグニスは、ため息をついて、また椅子を回し、背を向けた。
「お前にはずいぶん助けられた」
ノロイはもう、以前のようにその言葉に感動することはできなくなっていた。今はもう、最愛の師が近いうちに死ぬということと、その師が最後に自分に命じてくれた任務のことで、頭がいっぱいであった。
「俺は最後まで、お前をどうすればいいのかわからなかった。もしかすると、それがわかるようになるまで、もう少し生きた方がよいのかもしれない」
ノロイは何も言えなかった。
「それでも俺は結局、最後まで姉の背を追うことしかできなかったんだ」
そのあと、イグニスは深い息をついた。
「すまない。ノロイ。ひとりにさせてくれ」
「はい。失礼します」
長くても、あと半年。ノロイにとってそれが、残された時間だった。イグニスはおそらく、もうすべてをやり終えていて、これから何があっても問題ないと思っているのだろう。
ノロイは、生まれて初めてイグニスを裏切ることを考えた。エアの封印が解除されるのを阻止すれば、イグニスはそのためにまだ生きなくてはならなくなる。
だが、封印に手を貸していたノロイだからこそわかるのは、そんなことは不可能だということだった。封印はすでに解かれているし、考えうるあらゆる封印への対策を、あらかじめイグニスとともにエアに施したのは他でもない自分自身だった。
そもそも彼女に施されていた封印だって、十年以上かけて完成されたもので、半年でどうこうできるものではない。
それに、もし自分まで裏切ったら、誰が孤独なイグニスのそばに寄り添うというのだろう。その相手がいたとして、自分はその人間を許すことができるだろうか? それよりも、彼の人生の最後をともにいた人間として……
ノロイはあれこれと考えながらも、結局は何の行動も起こすことはできなかった。