61、裁断の原理
ソフィスエイティアはまずはじめに、イグニスの手札についてザルスシュトラに尋ねた。ザルスシュトラは、慎重に言葉を選びながら、イグニスに関することを彼女に教えた。
イグニスの専門とする分野は、疑似概念形装系統である。
疑似概念形装とは、実在する、あるいは実在した概念形装の精神的特徴と術式を解析し、それを自分の精神の中に取り込んで利用するものである。
言葉では簡単なように思われるし、実際に、概念形装の精神的特徴と術式を解析するところまでは、他の魔道具系統の分野との間に、大きな差はない。誰にでもできるものではないとはいえ、魔術の才能のあるものなら努力次第で一定の成果を上げることのできる分野だ。
しかし問題となるのは、それを自分の精神に取り込むに際してだ。疑似概念形装は、基本的にもととなった概念形装の劣化にしかならないうえに、元のものにはなかった欠点や制約といったものが生じてきてしまう可能性があり、それだけでなく、概念形装は精神的なものの発露たる術式であるため、当然、術者の精神に大きく影響を及ぼしてしまうわけで、場合によっては術者の精神が疑似概念形装の精神性に取り込まれたり、あるいは相性の悪さから互いに壊し合ったりする場合も多く、メリットとリスクがあまりに見合わないのだ。
他の人の真似をすることは、魔術のない時代ならいざしらず、イグニスが生まれた時代ではすでに悪いことではなく、概念形装を分析し模倣する疑似概念形装という分野も、決して地位の低いものではなかった。しかしきわめて危険であるということと、危険なことをしなくてはその研究の成果が見てわかる形にならないというたぐいのものである事情から、それを究めんとする者はかなり少数だった。
それに、それまでの疑似概念形装系統の研究は、戦闘系というより、利便性の高い概念形装に関するものが多く、その筆頭は、飛行、転移、肉体拡張、魔力拡張などに関係する概念形装ばかりだった。
エアの白鎧や裁断の原理といったわかりやすい戦闘用の概念形装は、概念形装というものの全体から見て少数であり、アイルが発現させた、精神汚染の概念形装である白智の空などの方が、似ている概念形装は多いのである。もっとも、物語や英雄譚で語られる概念形装は、エアの持つそれのような、派手で、見栄えの良い戦闘用のものが多いわけであるが。
イグニスは、極めて修める人間の少ない分野である、戦闘用の疑似概念形装の権威であり、彼は十を超える疑似概念形装を所持していると言われている。彼は基本的に秘密主義者で、自分が実際に所持している疑似概念形装のうち公開しているものは四つにとどまっており、実際に人前で使うことがあるのは二つだけである。
ひとつは、「老杖」。彼が普段持っている何の変哲もない杖であるが、それは彼の肉体と密接に結びついており、瞬時に彼の姿を隠す、変身系の疑似概念形装である。
もうひとつは、「刺焔槍」。彼の二つ名のもととなったこの疑似概念形装は、きわめて拡張性が高くかつ強力で、もし彼を攻略するならば、まずはこの疑似概念形装への対策が必要である。
刺焔槍は、端的に言えば、魔力を常に吸収、放出し続ける紐であり、イグニスはそれを円錐状の槍の形にして用いることが多く、しかもその長さは自由自在である。紐は魔力の流れに逆らうように動く性質を持ち、常に円を描くように回転をしている。
これは極めて鋭い切断の属性を持っており、刺し貫かれた者は、内側から切り裂かれ続ける。また、これに触れたあらゆる物体がそうなるため、飛翔物などの攻撃も、これひとつですべて防げてしまう。さらに、これを出せるのは一度にひとつだけというわけではなく、紐は常に切断、接着が可能で、複数に分けて用いることも可能である他、遠隔操作することも可能である。
また、これ以上は不確かな噂話ではあるが、彼は、コアが傷付けられたとき、すなわち死んだときに相手ごと爆破したあと無傷で復活する疑似概念形装や、自らのコピーを作り出す疑似概念形装、また、魔力の感覚と、自己の肉体の範囲を拡張させ、遠く離れた地点の出来事をその場で認識し、感知することのできる疑似概念形装を持っているという噂もある。
さらに彼は疑似概念形装のみに特化した魔術師ではなく、他のあらゆる分野でも功績を残しているオールラウンダーであり、苦手としているのは、精神干渉系の魔法のみであるとされている。
ザルスシュトラが今の段階で、ソフィスエイティアとペイションに話すことができるイグニスの情報はこれくらいだった。情報通なら、別にザルスシュトラでなくともこれくらいのことは語れるかもしれないが、とかく、ザルスシュトラが伝えたかったのは、自分がどれだけ知識を授けても、イグニスと正面切って戦うことはおそらく不可能であるということだった。
「ザルスシュトラ。あなたはどうしてそんなことをするの? そんな意味のないことを」
アイルは、ソフィスエイティアにいろいろなことを教えているザルスシュトラに、そう尋ねた。彼女の耳に、それまでのザルスシュトラの知恵は全く入ってきていなかった。
「ふむ。では、君にとって意味のあることは何だ」
「白。すべてが白くなること。この世界は、本当は無意味なことに、皆が必死になりすぎている。いらないものは捨てないといけない。有害なものは、無害にしなくちゃいけない。人は幸福でなくてはならないし、そのためにならないことはひとつもしてはいけない」
「白、か。では君にとって、赤や青は、意味のないことなのか」
「赤も青も、私を疲れさせるだけ。白を濁らせて、醜くするだけ」
「黒は」
「黒は、余計なものが混ざり合った先にあるもの」
「ふむ。アイル。だが色が混ざり合って白くなることもあるとは思わないか。色が互いに打ち消し合って、すべてが白くなる。その、白くなる瞬間のために、この世にはこんなに豊かな色があるのだとは思わないか」
アイルはその時、はじめてザルスシュトラの声に、自らの精神を向けた。色が混ざり合って白くなる、ということは、今までのアイルの経験上、見たことも聞いたこともないことだった。だが、あり得ないことではないと思ったのだ。
そんなアイルの目の前で、彼は右手と左手に、それぞれ熱と冷の魔力を込めて、それらを互いにぶつけた。魔力は互いの属性を打ち消し合って、その魔力量自体はその合計に過ぎないが、魔力はすべてニュートラルな状態になり、色はなくなった。
「君はこれまで魔法にまったく触れてこなかったと思う。だから、君は白というものを、まだすべて理解できていない。透明であることと、白であることは違う。私は今、赤と青をぶつけて、何もない状態にした。だが君の求めているものは、白であって、透明ではない。君は存在が存在しなくなることを求めているのではなく、存在が白くあることを求めている」
「あなたは、私が言いたいことをすべて代わりに言ってくれる。それなのに、あなたは白くない。白くなることを求めてもいない」
「その通り。私を白く染めたいと思うか?」
「思わない。あなたはあなたのままでいい。だけれど、私は、白くありたい。完全な白でありたい。そして私と繋がっているすべての存在を、白く染め上げたい」
「なるほど。君は理解しているのか、私という存在を」
「断絶された存在。あなたと私は、違う世界に生きている」
ザルスシュトラは深くうなずいた。そうなのだ。白智の空アイルと、自分との間には、知性と非知性の間にあるのと似た、大きな壁のようなものがあった。
普通、人は、人との間にどれだけ多くの距離を感じたところで、それでも地続きになっているものがある。それは習慣でもいいし、本能でもいい。食べ物の好みでもいいし、芸術的な趣味の一致でもいい。人間は互いに影響を及ぼし合う定めにあり、自分に理想と呼ぶべきものがあるならば、人は自然と、他の人にもそれを求めてしまう。求めあってしまう。だからこそぶつかり合い、争うのである。
しかし、そういったものが生じない人間、いや、生じさせなくなった人間がいる。
そう。概念形装、裁断の原理の所持者である。ザルスシュトラの本質のひとつである、その純粋な概念形装は、彼が、自然と、ごくごく自然と、自分と他の人間との間に、超えることのできない溝を作り出すことに、その起源があるのかもしれないと、彼自身そう思っていた。
だからこそ、アイルがそれを見抜くような発言をしたことに、ザルスシュトラは深く納得し、彼女もまた、概念形装を所持するにふさわしい精神性を持つのだと認めた。
「エアも優れた人間だが、君が彼女に飲み込まれ、消滅してしまうのはもったいないかもしれないな」
「もったいない?」
「この世には、失われてもすぐに似たようなものが生まれてくるものと、一度失われてしまえば、二度と生まれてこないものとがある。おそらく、以前の君を見ても、私は何とも思わなかったことだろう」
「この世に、失われてしまってはいけないものなんて何もないと思う。全ては生まれ、すべては消えゆく。そこに剣を振り下ろすのは、野蛮で、醜い者の行い。白くない、正しくない、愚行」
「ふぅむ。だが私は剣を振り下ろす者だ。私も、エアも、だ。何に価値があり、何に価値がないか、自ら決定できるものだ。他者の影響を受けず、他者に影響を与え続けることのできる存在だ。いうなれば、私たちは価値の破壊者であり、価値の創造者でもある。既存の善に対する悪であり、既存の悪に対する、新しい善である」
「あなたの言うことなんて理解できないし、理解したくもない」
「あぁ。それでいい。白と黒を愛好する人間は、他のあらゆる色彩に吐き気を覚える。その豊かさを消化できず、認められず、愛することができないから、もっと単純なもの、考えなくてよいもの、組み合わせなくてよいものを愛好する。言い方を変えれば、モノトーンを愛する人間は、この世界の豊かさに疲れ果てた人間なのだ。そして君は、その典型であると同時に、そこからもう一歩さらに進んだ人間で、モノトーンの中に存在するシンプルではあるが同時に豊かでもある、灰の色彩や情緒、感情的表現すら否定して、本当に何の表現もない、白だけの世界だけを求めている。たとえ、君の精神にこびりついた疲労感がなくなったあとも、その感情だけは、強く強く残っている」
「豊かさを求めることが、不幸のはじまりなんだよ」
「そうだ。だが幸せは、不幸でないことではない。大きな幸せとは、より大きな不幸を抱えたまま、自らを肯定して生きていけることだと私は信じている。不幸でない人間など、少しも幸せではないのだ」
「不幸を手放せなかった人間の戯言だね」
ザルスシュトラとアイルは互いに決してまじわらない。ただぶつかり合うのみであり、そのぶつかり合いによって、両者の隔たりはより鮮明になると同時に、それぞれが、自分がどういう存在かはっきりと理解する。つまるところ、自分とのはっきりとした境界を持った他者に触れることによって、自分自身の輪郭を知ることができるのである。
アイルは、ザルスシュトラと語るほどに、自分がどういう存在であり、何を求めているのかはっきりと理解するようになった。それはすなわち、精神が深くなるということであり、その分、魔術や魔法への適正も上昇することを意味する。
ザルスシュトラは、アイルという、自分とは全く異なる方向から人間を超越しつつある存在に触れることによって、自分という存在の固有性を強く感じ、自分が何を為すべきか、パズルのピースが次々埋まっていくように、明らかになっていくのを感じた。
ザルスシュトラは色彩を愛していた。この世界が、可能な限り豊かであることを望んだ。どれだけ多くの悲劇や悪が生まれようとも、ザルスシュトラはそれを歓迎するつもりでいた。自分自身もまた、そのひとつでありたいと欲した。
彼は、凡庸さすら愛していた。この世に平凡さが消えてなくならないことさえ望んだ。非凡な人間である自分自身が、また同時に、平凡な部分を人並み以上に所有していることを望んだ。
自分を知らない人間が、自分を天才だと思うことも、悪だと思うことも、狂人だと思うことも、凡人だと思うことも、善人だと思うことも、すべてを望んだ。彼は、そうでありたいと願ったのだ。
彼は、何かになりたいと望んだのではなく、何かでありたいと望んだのだ。すべてを内に含んだ存在として、何一つ捨てず、もっとも豊かかつ複雑で、決して理解され尽くされない存在でありたかった。
もはやその望みすら、彼の無数の夢のうちのひとつになるほどまでに、彼は多くのことを望むと同時に……その望みのすべてを、あるひとつの観点において、諦めてもいた。
赤くなると同時に青くなることはできない。赤と青を同時に所有するためには、それらが決して混ざりあわぬように、距離を置かなければならない。豊かさに必要なのは隔たりである。つまるところ、ものごとを定義、画定し、固定化する、裁断の原理である。
「私は、この世界に固有のものが混ざり合わないことを欲する。善が悪にならないこと。悪が善にならないこと。あるひとつの悪が、ずっと悪であり続けること。その悪の美しさが、悪の卑劣さと混ざり合わないこと。そうだ。私はただ、固有のものは、永遠に固有であるべきだと言いたいのだ」
それに気づいた時、ザルスシュトラの、エアに対する態度が決定した。もともとのエリアル・カゼットという人物は、おそらく固有のものであった。それが解体され、封印され、再び世に解き放たれたとき、彼女の存在は複数に分かたれた。そして分かたれたそれぞれの存在は、奇妙な運命によって、それぞれが固有の存在となった。エクソシア、ソフィスエイティア、ペイション、それに、セラ。その主人たるエリアルだけでなく、彼らもまた、もはや既成事実的な意味で、固有な存在であり、その固有性は守られなくてはならない。彼らが彼ら自身である限り、彼ら自身の行為を愛さなくてはならない。
「普通、ひとりの人間が複数に分かたれることなどありえない。だがエリアル・カゼットは、裁断原理を所有していて、おそらくはそれを使って、自分という存在を分断したのだ」
しかしその分離は決して完全ではなかった。完全であるはずもない。裁断の原理は、あくまで「そのように扱える」だけであり「実際にそうする」ものではないのだから。一枚の布を切って二枚にしたとしても、その二枚はもともと別の布であったことにはならないように。
そしてそれは、裁断の原理のもうひとつの力である、異なるものを関係づけ、繋ぎ合わせる能力もまた、同様なのだ。異なる色の布を縫い合わせても、その二つの布の色が同じにはならないように。