60、善悪と白
アイルはその日、地べたに座ってじっとしていた。
ソフィスエイティアは、夏闘祭に合わせてアイルとペイションをウスティカ島に侵入させる予定だった。
夏闘祭というのは、魔法学園の一大行事で、初日のメインイベントは、戦闘技術科に所属する生徒たちに、トーナメント形式の決闘を行わせるもので、優勝者は最後に魔法学園の正教授のひとりと決闘させ、講師陣の実力を生徒と外部の者たちに誇示する目的があった。
また、二日目には、部外者も含めた、自由参加のトーナメントもあり、そこでは普段見ることのできない激しくレベルの高い魔術師同士の戦いを見ることができ、他の大陸からはるばる参加したり、見物しに来るものもいるほどである。
さらに、そこで催される賭け事も人気で、非常に多くの人がこの日を楽しみにしている。
ウスティカ島は、夏闘祭に合わせて、一時的にその結界の働きを緩めるうえに、大量の人が島に入ってくるので、その中にアイルが紛れ込んでも怪しまれることはないだろうという算段だった。
みな、なんでそんな意味のないことをするのだろうか。
夏闘祭の話や、ソフィスエイティアの計画の話を聞かされて、アイルはただうんざりしていた。
エリアル・カゼットを白く染め上げることができれば、おそらく血を分けた兄弟のようなものであるエクソシアやソフィスエイティアも、自らと同じような、幸福で、苦しみのない素晴らしい存在になってくれることだろう。そう想像するだけで、ペイションとアイルは穏やかな気持ちになって、必死になって動き回る人々を見ることと、そういった人々に協力しなくてはならないことによる苦しみから逃れることができた。
「アイル様。お食事をどうぞ」
「ありがとう」
アイルは家を出てから、ずっと路上生活を続けていた。同じ場所で寝て、信者が運んでくる食べ物をなんでも口にした。
「今日はお酒もありますよ」
酒、と聞いてアイルは顔をあげる。アイルは、酒というものをどう扱えばいいのかわからないでいた。禁ずるべきか、それとも勧めるべきか。
酒は、人間の精神を微睡ませる。だが、無害化するわけではなく、酒を飲んで暴れまわる人間も、別に珍しくはない。それに、酒を飲むことによって精神が安らぐことによって、酒が入っていないときに、かえって人間の心と体が活発化することも、想像に難くない。
「お酒は、よくないよ」
「まぁ、いいから飲んでみてくださいよ」
その信者は、妙なほど強引で、無理やりアイルの口元に、瓶に入った酒を注いだ。アイルは抵抗せず、ごくごくと飲み干す。
「あなた、誰?」
信者は、ニヤッと笑った。アイルの頭はくらくらし、その顔は良く見えなかった。
「善悪の彼岸、盟主、ザルスシュトラだ。はじめましてごきげんよう。白智の空の教祖、アイル殿」
うやうやしく礼をして、ザルスシュトラもまた、瓶に残った酒を一気に飲み干した。
「君の思想を聞かせてくれ」
「別にいいけど」
ザルスシュトラの誘導的な問いかけによって、アイルは、自らの考えていることだけではなく、自らの正体や、ソフィスエイティアの計画まで、あらいざらい話すことになった。
ザルスシュトラは、まさか自分の話している相手が三大魔王のひとり、ペイションであることなど想像もしていなかったから、それにまず驚き、思考を整理する必要があった。
ソフィスエイティアの計画にイグニスが気づいているかどうかはわからない。もし、彼との友情を重んじるなら、一刻も早く彼にこの件を伝えるべきだが、ザルスシュトラは、そもそもソフィスエイティアの計画がうまくいくとは思えなかった。イグニスが彼女らに殺されるとは思わなかったし、あのエアが、こんなどうでもいい人間の思想に染められるとも思えなかった。
「面倒なことになった、と思っているんだろう?」
ザルスシュトラは、自分とペイションの会話をそばでずっと盗み聞いている存在がいるのに、最初から気づいていた。その正体も、話の途中で勘づくことができた。知恵の魔王、ソフィスエイティアだ。
「まったく、ね。だから、ここであなたを返すわけにはいかなくなった」
ソフィスエイティアは後ろからザルスシュトラの肩に触れた。ザルスシュトラは自分が何をされているのかわかっていたが、抵抗はしなかった。いざとなれば、裁断の原理を振るえばいい。
深い森の中に、二体の化け物と人間がいる。ここはソフィスエイティアの体内。暗闇の中、ランプを持った少女がアイルとザルスシュトラの間に立ち、両者を照らしている。
「まずひとつ聞きたいことがある」
先に話したのは、ソフィスエイティアだった。
「何かな」
「イグニスは、今のところ私たちの動きに気づいているの?」
「気づいていたら、多分この場に出てくると思うよ。彼は転移魔法のエキスパートだし、君たちのいる場所をいつでも把握している」
「でもペイションの分体のすべてを把握しているわけじゃない。私も、体の性質から、彼に捕らえられることはない」
「君たちは気づいていないだけで、おそらくイグニスは、瞬時に君たちを無力化する手段を持っている。だから、君たちが何を計画をしていようと、意味がないと私は思う」
「やってみないと分からないでしょう」
「その通り。もしかすると、イグニスは私が思っているよりもずっとずさんな性格をしているかもしれない。あるいは……ずさんであっても構わないほどに、強力な存在であるのかもしれない」
「それでも、私たちは戦うしかない。そして、あなたには、その邪魔をしないでほしい」
ザルスシュトラは鼻で笑った。
「邪魔はしないよ。このことは黙っておいてやる。だが、それだけじゃつまらないな。君たちの反逆は、あまりに分が悪いから」
酒に酔ってくらくらする頭の中で、ザルスシュトラは考えていた。
この状況で、主導権を握っているのは自分だ。そして自分にとって最も簡単なことは、適当なことを言ってここを脱出したあと、すぐにイグニスに報告することだ。逆に、もっとも難しいことは……
「協力してやろうと言っているんだよ、私は」
ソフィスエイティアは、ザルスシュトラの想定外の言葉に、頭を悩ませた。
もしかすると、ザルスシュトラはここから逃げる手段がなく、窮地に陥っており、それゆえに、そんな提案をしてきたのかもしれない。そう考えるのが自然だったが、ザルスシュトラの余裕に満ちた表情と自然体そのものの魔力の反応を見て、自分の考えを否定した。
「何を考えているの?」
「私は、私に為せる最高の善と、最深の悪を為す。このままでは、君たちの計画はあっさりと潰え、イグニスの雑務が増えるだけだ。そんな状態で私がイグニスに真実を告げるのは、私にとって友情でも善でも悪でもない、くだらない仕事というわけだ。それよりも、イグニスがより、彼らしく、優れた行いを為し、同時に、君たちの存在と、その美しき行動がこの世界に表出されるために行動する方が、よっぽど私らしい」
ソフィスエイティアは、ザルスシュトラの言っていることがさっぱりわからなかった。彼女がこれまで食らってきた人間の中に、彼ほど優れた人間はいなかったからだ。
「君のような愚かな存在にもわかるように言おう。私は、このままじゃつまらないから、面白くしたいと言っているのだ」
ソフィスエイティアは、彼を信じることはできなかった。疑り深いまなざしで彼を見つめるが、ザルスシュトラは、意に介さず、話を続ける。
「夏闘祭までに、君たちに魔術を教えよう。この世の理も、イグニスの手札のうちのいくつかも。エアやカタリナの情報も、すべて教えよう。その方がフェアだ。そして君がそうしたいと思った時、いつでも相談に乗ってやる。君はまだ、知恵の魔王の名にふさわしいほど賢くないから、私がそのために知恵を授けてやろう」
ソフィスエイティアにとって、その申し出は僥倖だった。もしザルスシュトラの知識を際限なく得られるのなら、おそらくウスティカ島に入り込むような危険を冒さずとも、イグニスに対抗できる手段を知ることができるかもしれない。
ただ、ソフィスエイティアがそう考えていることを、ザルスシュトラは容易に感じ取り、釘をさす。
「悪いが、私はイグニスの弱点を知らないし、彼を始末する方法は、唯一帝かミリネといった彼以上の天才を利用することくらいしか思いつかない。ウスティカ島に行けば、私が知らないような禁忌的な魔法や、イグニスが究めている疑似概念形装という特殊な術式の欠点なんかも知ることができるかもしれない。だから、君たちの計画そのものには問題がないと思う。重要なのは、それをイグニスに気取られず、スムーズに行うこと。それに、そもそもイグニスがエアと君たちを使って何をしようとしているか、正確に把握しなくてはならない。君たちにとって、君たちが殺されることがもっとも重要かもしれないが、俯瞰して考えれば、重要なのは、君たちが殺されるかどうかではなく、どのようにして殺される予定であるのか、ということだ」
ソフィスエイティアは、ザルスシュトラの知性に触れて、かなり混乱していた。自分がそれまで食らってきたあらゆる人間より、はるかに複雑な精神と思考を持っており、話をしただけで、胃もたれするほどだった。
ただ、自分の不完全で出来の悪い計画が、より成功の見込みのある計画に近づいているという事実に、満足はしていた。