閑話 ミリネとカタリナ
「ミリネ」
校舎の中で、眠そうな目をした背の高い女性とすれ違ったカタリナは、振り返ってその名を呼んだ。
戦闘技術科正教授のミリネは立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
「何かな」
「あなたと一度、ちゃんと話しておきたいと思って」
ミリネはほほ笑んだ。柔らかく、落ち着いた笑みだ。
「いいよ」
ふたりは食堂の二人席で向かい合って座っている。暖かいコーヒーを飲みながら、ミリネは話し始める。
「ノワールさんは元気している?」
「あの人のことを知っているんだ」
「彼女は時々帝国に遊びに来ていたからね」
カタリナはため息をついた。
「いつものことだけど、あの人の人脈には驚かされる。ミリネはどういう印象を受けた?」
「神出鬼没で、行動原理もよくわからない人だね」
「ただ享楽的で人間を愛しているだけだと私は思う」
ミリネは首を傾げて、空にしたカップを机の上に置いた。仕草の一つ一つが丁寧で上品だ。
「カタリナ。あなたは、人間を愛しているの?」
「さぁ? そもそも私は愛という感情のことをよく知らないから、何とも言えないかな」
「エアのことは?」
カタリナは何か言おうとしたが、言葉に詰まった。咳払いをしてから、落ち着いて答える。
「エアは友達だよ。大切だけど、愛しているかどうかはわからないし、わかろうとも思わない」
「じゃあ、エアは、カタリナのことをどう思っていると思う?」
「愛してくれている」
ミリネは深くうなずいた。カタリナは言葉を繋げる。
「愛することは才能だと思う。それも、多くの人間を、何の下心もなく心の底から受け入れて、その幸せを願うということは、特別な人間にしかできないことだと思う。私にはできないな」
「その通りだと思う。私も、エアのように人間を愛することはできない」
「ミリネ。私にはあなたがどんな人間なのかよくわからない。善悪の彼岸でもっとも強い人間であるという評判は知っている。あなたが、私なんかよりはるかに優れた魔術師で、戦ったとしても、おそらく手も足も出ないだろうことは、わざわざ試さなくてもわかる。だからこそ、わからないんだ。あなたからは……意志のようなものが感じられない」
「私は、人間性という観点では凡人だからね。人から尊敬されていたいし、自分を尊敬してくれている人の役に立っていたい。誰かを不幸にはしたくないし、面倒ごとにも巻き込まれたくない」
「平和的……帝国的と言った方がいいのかな。でも、そういう性格のあなたがなんで帝国を出てザルスシュトラについてきたのか私にはそれが一番わからない」
「居場所がなかったからだよ」
「尊敬はしてもらえていただろうに。役に立つことだってできただろうに」
「私にもわからないことはあるよ。わかりたくないこともね」
「じゃあ質問を変えよう。ミリネ。私のことをどう思う? あなたと私は、似ていると思う?」
「全く似ていないよ。カタリナ。あなたは……若い。とても若くて、前向きで、冷徹で、人生に対して希望と期待を抱いている。人生を信頼している、ということもできるかもしれない」
「その言い方はまるで、自分が人生に絶望しているみたいだね、ミリネ」
「絶望はしていないよ。でも、たくさんのことを見てきたし、感じてもきた。そして少し……疲れているというのは、事実だね」
「不老者はたいてい三百歳ほどで自殺するらしいが、あなたはもう六百年生きているそうだね。長生きする者と、そうでない者の違いは何だと思う?」
「さぁ。それはわからないよ。長生きしそうなバイタイリティに溢れている者がすぐ死んで、逆に、すぐ絶望して死にそうなうすぼんやりした人間が、しぶとく生きていたりする。ひとつ言えることは、不老者は、生に執着しているから長生きしているのではなくて……義務や役割が残っているから、仕方なく生きていることが多いことかな」
「それだと、まだ死ぬことができない、と言っているように聞こえるな」
「そうだね。幸いなことに、私にはまだいくつか役割が残っていて、私自身それを楽しみにしている。だからもう百年か二百年くらいは生きるだろうね」
「そういう時間のスケールは、三十年も生きていない私にはわからないな。年をとればとるほど、時間はあっという間にすぎるというけれど、あなたもそう感じるの?」
「感じない。確かに、人生がはじまって最初の二十年か三十年はとても長く感じる。まるで、自分の人生が永遠に続いていくかのような感覚にとらわれる程に。でもそのあとは、ただ……等速で進んでいく。自分がいくら年を重ねても、出来事の頻度は変わらないし、人々の生活の変化だって、別に加速するわけでも減速するわけでもない。ただ世界は、そのときそのときで気ままに変化する。不老者と言えども、その変化とともに生きていくのならば、時の流れの速さはその時々で変わるとしか言えない。ベースとなる速度も変わらないよ。百年はどう考えても長いし、その中には自分のものすら汲み尽くせないほど多くの豊かな体験がある。疲れ果てて、悩んだり考えたりを諦めるだけなんだ。そう。私たちはただ、役割を果たすだけ。為せることを為すだけ」
「なんというか、気の毒だな。私もいつかそうなるのかな」
「あなたはその前に死ぬと思う」
「ほう。私が生を厭うて、自殺すると?」
「ううん。あなたは戦って死ぬ。きっと」
「そう?」
「どう思う? そういった自分の運命を」
カタリナは少し悩んだ。確かに自分の人生は戦いに満ちていたし、それによって幕が引かれるのは至極当たり前のことのように思えた。
「何とも思わないな。そんなものだと思う。実際、私は人の命をこの手で終わらせたことが何度もあるし、そのたびに、同じように自分が殺されるところを想像してきた。いつか、自分はそうやって死ぬのだと覚悟してきた。だからこそ私の心臓に、罪悪感や、後ろめたさは一切ない。私は私の生を知っているし、覚悟も十分にできている」
ミリネはほほ笑んで席を立った。
「でも、人を殺すのが嫌だったんでしょう?」
カタリナも立ち上がった。
「私は英雄になりたい。そのためなら、己のすべてを捧げるつもりでいる。ギルドの命令で邪魔な人間を消す仕事は、いい経験だったが、私の人生の中核にはなりえなかった」
「カタリナ。きっとあなたは、あなた自身をとても誤解している」
カタリナは鼻で笑った。
「ザルスシュトラやエアにも、似たようなことを言われたよ。教えてくれればいいのに」
「あなたはもっと優しい人になれるっていうことだよ」
「わからないな」
カタリナは考えることが得意な人間だったが、自分自身について考えるのはあまり得意ではなかった。彼女はあくまで、抽象的で、論理的なことを考えるのが得意なのであり、経験的な、無意識的な部分を掘り起こして具体化することには慣れていなかった。
優しさとは何か、ということまでは深く考えることができる。だが、自分が優しい人間かどうか考えることは、うまくできなかったのだ。
うまくできていないということを自覚すらできないほどに、カタリナは自分という人間の本質や可能性について興味を持っていなかったのだ。