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58、白智の空

 ペイションと同一化したアイルの精神は、ほとんどまったく人間とは異なるものになっていた。

 彼女は目をつぶり、両手を上に向けている。それは、何かに捧げものを贈ろうとしているようにも、誰かに施しを与えようとしているようにも見えた。

 その手の中にあるのは、力であり、同時に、力を否定するものでもあった。

 白智の空。

 彼女の手の上、宙に浮くように二つ存在している真っ白な球体を、彼女はそう呼んだ。

 彼女は貧しき人、絶望した人、苦しんでいる人を見つけると、その球体をその人の上に広げて、彼らの頭上を覆った。覆われた人には、自分の世界の空が、白く塗りつぶされたように思えたことだろう。


 すべてを忘れてしまえばいい。

 無関心でいればいい。

 生きることに価値なんてないし、この世界に、自分が傷付けるべきものも存在しない。

 ただ生きているだけでいい。いや、生きている必要すらない。だが、死ぬ必要はもっとない。この世界に、あなたが必死になって生きたり死んだりする価値なんて少しもないのだから。

 白くなってしまえばいい。白くなって、賢さも愚かさも意味のない世界に囚われればいい。魔力も魔法もない世界。進歩も努力もない世界。本能も知恵も何もない世界。ただただ、意味もなく存在しているだけの世界に、私たち自身が、なってしまえばいい。


 それがアイルの幸福であり、不幸のどん底にいるすべての人間が心の奥底で密かに望んでいることでもあった。


 すべてが白く塗りつぶされてしまえばいい。すべての善と悪が溶けあって、一切の価値が消失し、私たちの存在ごと無意味になる、そういった幸福に自らを委ねよ。


 アイルは言葉を発しなかった。言葉は、彼女に染められた人間たちによって生み出された。アイルはどこまでも純粋な存在になっており、完全に染められることのできなかった、不完全な、アイルへの憧れだけを持った、彼女の信者たちによって、彼女は語られることになった。



 パレルモに白智の空という奇妙な教団ができつつあることは、すぐにウスティカ島に伝わったが、ほとんどの有力者はそれを危険視しなかった。イグニスも同様だった。

 なぜなら、その教団の教義は聞く限り、どこまでも人間を無害化するものでしかなかったからだ。

 善も悪も説かず、一切の攻撃性と価値を否定し、ただうすぼんやりと存在することだけを肯定する宗教を、どうして危険視したり弾圧する必要があるのだろうか。


 だがそれに強く反応した男がひとりいた。善悪の彼岸の盟主、ザルスシュトラだ。

 彼にとって、その教団が危険かどうかはどうでもよかった。興味がそそられるかどうかという点でも、まったく趣味が合わなかった。

 ただ彼の精神に訪れた直感は、その教団が、自らの精神性や生き方、意志に真っ向から対立するというものであり、それゆえ彼は、その教団に対して「敵」とするに十分な理由を見出したのだ。


 今までザルスシュトラには、敵と呼べるような人間も集団も存在しなかった。彼は好き嫌いの激しい人間であったが、好き嫌いで自らの行動を決定するような人間ではなかった。もちろん、有用、有害、といった観点において、敵に近いような人物は存在したことがあるが、彼は通常、敵すらも自分に都合よく利用することのできる類の人間であった。

 たとえば彼は帝国を離れ、それと対立するような思想をもって中央大陸に訪れたが、帝国の民も、その主である皇帝も、敵視したことはなかった。それどころか、友情や愛情に近い感情まで抱いていた。

 だからこそ、彼は敵意というものを欲しがった。自らの損得や、好き嫌いといった趣味を超越した、無条件の敵意、相手が相手であるというそれだけの理由で、攻撃することが正当化されるような、そんな道理を彼は求めていた。

 人生に戦いは必要である。だが、彼は、自らが戦うべき相手を見つけたことがなかった。ずっと探していたのに、自らが憎むべき悪も、望むべき善も、見つけることはできなかった。

 だから彼が、この世の価値のすべてを否定し、ただ穏やかに、死んだように生きていくことを肯定する教団が成立し、その勢力を広げていると聞いた時、直感したのだ。


 これは私が破壊すべきものである、と。


 ザルスシュトラはにやりと笑い、単身、アイルのもとに向かった。




 ソフィスエイティアにとって、このペイションの変化は想定外だった。とはいえ、それに動揺することはなかった。

 彼女は生まれてこの方、想定通りにことが運んだことなどなく、世界は混とんとしており、自らの貧しい知性で理解できるほど単純かつ簡単なものではないと分かっていたからだ。


 ただ彼女にとって問題だったのは、アイルと同化したペイションが、自らの計画への協力を拒んだことだった。


「なんでそんなことをしなくちゃいけないの?」

「でも、そうしないと私たちは生きていけなくなる」

「そこまでして生きる価値なんて、この世界にはないよ」

 ソフィスエイティア自身は、世界の価値なんてものを考えたことはほとんどなかった。彼女が食らってきた人々の中に、世界の価値なんて自らの生活とほとんど関係のない概念的思考をする人間はいなかったのだ。

「でも私たちは、生きなくてはならない」

 その考えも、しょせんは人を食べて手に入れたものだった。

 生命はすべて、生きようとする。価値も意味も、努力せず生きられるようになってはじめて考えられるようになるもののだ。

 生きること以上のものを人生に求め、ただ生きること以上の努力と信念によって支えられて、はじめて価値や意味は存在できるものなのだ。なぜそこまでして誰かが生み出したものを否定しなくてはいけないのか、ソフィスエイティアには理解できなかった。

「生きること。生き続けることは、単に事実に過ぎないよ。私たちは、生きたい、生きなくてはならない、と思って生きているわけじゃない。ただ、生きているだけ」

「でも、死が近づいてきたら、私たちは恐れる。そして、その死を逃れるために全力を尽くす。そうでしょ? もし自分に死が近づいてきているのに、それに気づかないのは愚かであるし、気づいているのに動かないのは、怠惰だと私は思う」

「生きとし生きるものはすべて死ぬ。私は、何もせずに生きて死ぬことを怠惰だというのなら、怠惰でありたいと思う」

 ソフィスエイティアは、ペイションを見捨てることに抵抗はなかった。だが、ペイションなしで、ウスティカ島に入り込み、イグニスたちの計画を破綻させることができるとは思えなかった。

「ねぇペイション。あなたは前に、イグニスに嫌がらせができるなら、そうしたいと言ったよね」

「そうだね。でも、私気づいちゃった。彼、イグニスに、そこまでの価値はないって」

「イグニスが、私たちにしていることを何とも思わないの?」

「思わない」

「イグニスにとって、価値があるのはエリアル・カゼットであり、私たちは彼女を……どうにかするための、道具に過ぎない。ねぇ、私は、道具として生きることに耐えられない。エクソシアもそう。あなたも、かつてはそうだった。あなたは道具でいいの?」

「私を道具として見ているのはイグニスであって、私は私をそう思っていない。だからそれで十分だよ。私はただ、私の幸せで世界を染め上げたい」

「死んでしまったら、それもできない」

 そこまで言って、ペイションの中に知恵が浮かんで、口をつぐんだ。少し沈黙が場を支配した。その後、ソフィスエイティアは、厳かな調子で語った。

「ねぇペイション」

「何?」

「なら、あなたにとって、意志を持って行動している人は何なの?」

「世界の理を知らない、愚か者」

「イグニスも、そうなの?」

「もちろん」

「彼を救ってあげたいとは思わないの?」

 ペイションはそこで初めて思考した。だが、すぐに結論を出した。

「思うよ。でも、そのために特別努力しようとは思わない」

 ソフィスエイティアは思った。ペイションは、決して頭がよくなっているわけではない。概念理解力は向上したように見えたが、結局彼女の短絡性はそのままだ。

「じゃあ私に対しては?」

「あなたは、私と近い存在だから、その分だけ、あなたにも私と同じようになってほしいと思う」

 そういって、ペイションは両手に持った白い球体をソフィスエイティアの上に広げて包み込むが、ソフィスエイティアは白く染まらない。なぜなら、彼女の本体は巨大な森であり、ペイションの前にいる少女は、単なる幻影に過ぎないからである。

「私も、できることならあなたと同じようになりたいと思う。だから……」

「だから?」

「エアを、白く染めればいい。エアを白く染めれば、彼女を愛するイグニスもそれを受け入れると思う。当然、私やエクソシアも、あなたのようになるはず」

「それはいい案ね」

「だから、私の計画に協力してくれない?」

「うん」

 ソフィスエイティアは内心ほくそ笑んだ。彼女は、ペイションの語る「白」になど全く興味がなかった。理解の及ぶものだとも思えなかったし、知的好奇心も刺激されなかった。彼女が語る思想には、知性の貧しさしか感じられなかったのだ。

 ソフィスエイティアがほしかったのは、ペイションの力だけなのである。

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