57、白く
アイルの朝は遅かった。使用人に対して、時間が来たら起こしに来いと言うくせに、彼女らの呼びかけに対して悪態をつき、布団の中に潜り込んで惰眠を貪ることが多かった。
次第に使用人たちは、アイルの言うことを聞かず、あくまでケイロス家の邸宅を維持する仕事だけに集中するようになった。もちろん彼女の身の回りの世話はするが、わがままにいちいち付き合っていたら仕方がないし、もしアイルとの関係が悪くなっても、他のケイロス家の人間に相談すれば、アイルよりも自分たちの方が大切に扱ってもらえるであろうことを、使用人たちは理解していた。
もちろん、アイル自身もそのことはわかっており、使用人たちに対して、主人然と接することができず、わがままな末娘としての立場に甘んじていた。
「はぁ。死にたいなぁ」
彼女は、自室の窓をぼんやりと眺めてそう呟いた。太陽は、憎いほど明るかった。
外に出る元気はなかった。いやもちろん、体は十分に健康で、朝食も昼食も普段通り食べることができたし、排泄にも生理にも問題はなかった。
ただ彼女は、もはや自分で自分の生きる道を選択する気力を失っており、ただ自室でごろごろしながら、暇そうにしている使用人たちに、無茶ぶりをしたり、面白い話がないか聞いてみたりするくらいしか、やることがなかった。
そう、彼女は、悪事を働くどころか、悪事を思いつくことすらできないほどに無気力で、退屈な人間になっていた。自らの劣等感や弱さに向き合うことすらできず、逃げることもできず、ただその中でぼうっと時間を過ごすことしかできない、人間としてもっともつまらなくてくだらない生き方の中に、アイルはいた。
アイルは、もうルティアのこともどうでもよくなっていた。
諦めることに慣れていた彼女は、つらいことをわざわざ何度も自分の中で繰り返すようなことはしなかった。ルティアのことは忘れてしまった方がいいと思った彼女は、本当にルティアのことをほとんど忘れて、気にせず生活するようになってしまった。
「こんにちは」
「うわ!」
そんな風に生きていたアイルの前に、ひとりの女性が現れた。真っ黒な長い髪に、不気味なほど真っ白な服を身にまとった、半透明の、人間と言い切ることのできない存在。精神の魔王、ペイションの分体である。
幽霊、という古い言葉がアイルの頭に浮かんだが、時間は昼間だったし、その幽霊に敵意がなく、自分と同じか弱い存在であることを、アイルは直感的に感じ取った。
「アイルっていうのね、あなた」
「え、えっと……あなたは?」
「ペイション。あなたに力を与えに来たの」
「力?」
「そう。あなたの生活をしばらく見ていたのだけれど、あなたはずいぶん惨めな暮らしをしてきたみたいね。本当はもっと、才能豊かで、活動的な人間として生きていたかったんじゃない?」
アイルは、考えることが嫌いだった。だから、その問いかけが、自分の頭を悩ますものだと分かった時点で、首を振って「わかんない」と答えた。そういった態度自体が、出来損ないであるゆえんであるとも知らず。
「力、欲しい?」
「いらない」
アイルは、抽象的なことを具体的なものとしてイメージすることができなかった。自分に才能があったらどうするか、ということを想像して楽しむだけの、想像力もなかった。だから、欲しいと思ったことのないものを欲しいかと問われて、彼女はただひねくれていたわけでも、無欲を演じようとしたわけでもなく、ただただ、力というものを欲しいとは思わなかったのだ。
「あなたを馬鹿にした人たちが憎くないの?」
「仕方ないもん。私は馬鹿だから」
「私は、あなたを並み以上の人間にしてあげられる」
「もういいよ。私なんて、どうしようもないから」
ペイションはさすがにため息をついた。弱い人間の精神を乗っ取ることができるといっても、あくまで人間の精神の自然な抵抗力というものは強力で、本人が自分を受け入れる意思がないと、うまく成功しないことが多い。
「じゃあアイル、あなたはどうしたいの?」
「……もうどうでもいい。死ぬまで私はここでぼうっとして生きていくんだ」
「なら、私にあなたの体を貸してくれない?」
「ん?」
ペイションは、ダメもとで本当のことを告げることにした。うまくいかなかったら、ソフィスエイティアに頼んで殺して口封じすればいい。
ペイション自身も、短絡的で、感情的な性格であり、思慮深くない存在だった。だからこそ、軽々しく自分たちの重要な計画を話してしまうし、人を殺すことのリスクをあまり深く考えていなかった。
「私は、あなたの体を乗っ取って、ウスティカ島に入り込みたいの。そうすれば、私が大っ嫌いな奴らを困らせることができる。だから、あなたに協力してほしいの。あなたにしかできないことなの」
「何すればいいの」
「あなたはただ、私を受け入れてくれればいい」
「いいよ」
「え?」
「どうぞ」
アイルは、ペイションの言葉のほとんどを理解していなかった。
ただ、アイルにはもう意志と呼べるようなものはほとんどなく、自分の人生を放棄したくて仕方がなかった。だから、ペイションが、自分の体を乗っ取りたいと言った時点で、抵抗する気が完全になくなっていた。
ペイションは、戸惑いながらもアイルの体の中に入っていった。
これまでペイションは、何人かの人間の精神の中に入り込み、その中で主導権を奪い合い、時に勝利し、時に敗北した。敗北した方の精神は、勝利した側に取り込まれ、ほとんど消滅してしまう。
だから今回も、ペイションの分体の精神か、アイル自身の精神のいずれかが消滅するはずだと思っていたのだが、奇妙なことに、アイルの精神は、肉体の主導権をペイションと争うつもりがなかったため、精神同士の本来起こるはずの争いが起こらず、速やかにペイションは肉体を手に入れることができた。しかも、アイルの精神は消えることなく、ペイションの精神のすぐそばに存在し続けることになった。
ひとつの肉体の中に二つの精神。ただし、肉体の主導権はすべてペイションにあり、アイルはただ、ペイションの精神を通して、世界を眺め、ペイションに語り掛けるのみである。
「これ、私どうなってるの?」
「わ、私が聞きたい」
「ま、どうでもいっか」
「さっきも思ったけれど、どうしてあなたはそんなに……執着がないの?」
肉体を失ったアイルは、暖かい布団の中にいるような心地よい感覚に包まれており、思考もスムーズに回転するようになっていた。それもそのはず、肉体に接続された精神の魔力回路のすべてが、ペイションに奪われることによってそのつながりを失い、その分のリソースが、精神そのものの運動につぎ込めるようになったからである。
「執着なんてしても、苦しいだけだからね。私は楽に生きていたかったんだ」
ペイションは、アイルの記憶を探った。どれも断片的なものばかりで、あやふやだった。アイルは、つらかったことの記憶をほとんど自分自身で消し去って、忘れてしまっていたからだ。
ペイションは、人間の憎しみや恨み、絶望といった感情と親和性が高かった。そういったものを取り込み、人間と、その生を呪ってばかりいた。
だからこそ、アイルのような、苦しみ抜いた上に、すべてに対する気力を失い、ただただ怠惰に生きている人間に対して、ある種奇妙な好意を抱いた。
彼女は、無力である。どこまでも無害で、善良である。
「私、あなたのこと好きよ」
「どうして?」
「人間が嫌いだから」
「私は人間らしくない?」
「あなたは、人間のよいところと悪いところのどちらもほとんど持っていない」
「中身のない人間ってことね。何回も言われてきた気がする」
「そう。それも、あなた自身が選んでそうしている。過去もなく、経験もなく、能力もなく、本当に何もない人間として、日々を怠惰に過ごしている。それをよしとしている。他の人間の営みのすべてを『関係ない』と割り切って、ただ空虚に時を過ごしている」
「それの何がいけないの?」
「私は、それが素晴らしいことだと思う。人間はみんな、欲望まみれで、すぐ何かを恨んで、その魔力を私に流し込んで、私を苦しめる。でもあなたは私を苦しめない。私は、あなたに……私自身を感じる」
「あなたも、私と同じってこと?」
「そうでありたいということ」
アイルは、奇妙な感情に囚われていた。彼女はずっと、自分自身のことが大嫌いで、消してしまいたいと思っていたのに、だんだん、そう思っていたことがすべて嘘のことであったような気がしていた。
アイルは、自分自身を愛しており、認めており、これでいいのだと、かつてずっとそう思っていたかのように、自らの過去を改ざんした。
人間を超越しており、痛みや苦しみから許されており、この世のすべての存在は自分のためにあり、自らの運命は必然であったと、そう思うようにした。
意志薄弱であったアイルは、ペイションの意志に飲まれ、そういった人格に作り替えられたのだ。ペイションも、アイルも、気づかぬうちに。
「ペイション。私、あなたを愛することにするわ」
「嬉しいよ、アイル。うん。二人で一緒に、世界を白く塗りつぶしてやろう。私を苦しめる人間たちを、みんな、私たちと同じ存在にしてしまおう」
ペイションに芽生えた新しい意志は、人間を、かつてのアイルのような無気力で善良で、無感情、無感覚的な存在にしたいというものだった。
なぜそれが生まれたのかと言えば、単純なことで、肉体をもたないペイションは、その空間の魔力に常にさらされており、その影響を絶え間なく受けてしまう。人間のいるところにいれば、人間たちのごちゃまぜになった感情性の魔力によって不安定になり、誰か一個人の肉体をのっとったとしても、その人間の記憶や、肉体に保存された感情によって苦しめられてしまう。
つまるところ、ペイションは、純粋に自分自身であることが一度もなかったのだ。
ペイションは、アイルの中に入り込み、アイルとその肉体を共有することによってはじめて、自分自身という存在を見ることになった。そこにあったのは、無力で、無害で、無気力で、何の感情も抱いていない、純粋な自分自身。
それこそが「善い存在」であり、すべてがそうあるべきだと、彼女はそう素朴に思ったのだ。そしてそれを実行するための「力」を、彼女は有していた。
すぐさまその意志を、ペイションは他の分体たちに流し込み、共有した。他の、ほとんど意志を持たないペイションたちは、すぐさまその強烈な「自分自身の意志」に感化され、同質化していった。
「すべてが、私たちのようでならなくてはならない」
それは、平均化の意志、凡庸化の意志、無力化の意志と呼ぶべき、ある種の、普遍的な感情でもあった。
私たちは等しくなくてはならない。私たちは、もっとも弱い存在でなくてはならない。私たちは、誰にも害を与えてはならないし、誰の感情を害してもならない。
ただただ、どこまでも無害で、真っ白な存在でなくてはならない。そうでない存在は、白く塗りつぶしてやらなくてはならない。
絶望的な、白に。