51、初恋
ルティアは、食事会の後、数日の間ほとんど何も考えることができなかった。
決闘に負けて精神的に不安定になっていたルティアは、昔からの習慣で、本能的に誰かに寄りかかりたがっていた。それをわかっていたのか、エアはその一日ずっとルティアに付き添い、彼を気遣った。
いやもちろん、エアは、そんなこと意識していたわけではない。ただ、エアのような根っから善良な人間は、落ち込んでいる人間や、ふさぎ込んでいる人間がいると、自然と彼らの方に行き、ただそこに存在しているということで、彼らの心の負担を軽くする。
ルティアは結果として、決闘と、それにまつわる自分のプライドといった精神的な問題に、押しつぶされず、それを小さなこととして認識することとなった。
もし彼がひとりきりでそれに耐えなくてはならなかったとすると、場合によっては、自ら学校に行くのをやめることにはならずとも、孤独を好むようになり、周囲の人間とうまく馴染めなくなったり、自分を負かしたイリーナに対して逆恨みしたり、決闘を必要以上に忌避したりなど、精神をこじらせてしまっていた可能性もあった。
「エリアル・カゼット」
ただ、ルティアの胸にはまた別の問題が芽生えてしまった。
彼は、それまで恋というものをしたことがなかった。誰かに心惹かれて上の空になったり、誰かのことを思うだけで一日中楽しく暮らせるような経験をしたことはなかった。ルティアの内的世界は、それまでいつも彼中心であったし、他の人間は、彼に対して十分に興味や関心を抱いてくれない、彼を満足させてくれない存在だった。
しかし、ルティアの目に映った活発で善良でかわらいらしい女の子であるエアは、そんな彼の閉じた精神の窓に差し込む、鮮烈な光として彼の心を眩ませた。
光が光であるだけで、私たちの心を慰めてくれるように。
誰が誰を見ているかなど関係なく、太陽がその下で暮らす私たちを等しく愛するように。
ルティアにとってエアは、ただそこに存在しているだけで、自分の心を喜ばせ、微睡ませる存在となっていた。
エアが何かを話すと、その話の内容はほとんどルティアの頭には入ってこなくて、代わりに彼女の跳ねるような、親しみやく明るい声に聴覚が踊り始めてしまう。
エアが笑いかけると、ルティアはだらしなくほほが緩み、恥ずかしくて顔を隠すことしかできなくなってしまう。
エアが歩いていると、自制心を強く働かせていないと、その背をいつまでも追いたくなってしまう。
十六歳の少年ルティアは、性的なことをまだほとんど知らず、恋に対する興味など何もなく、ただ自分自身を変えたいと思ってここ魔法学園にやってきた。しかし、そこであった出会いによって、彼のこれまで考えていたことや、人生の経験は、すべて吹き飛んでしまうほどの衝撃を受けてしまった。
言わずもがな、彼の反応は大げさであり、わかりやすかった。
カタリナとヴァイスは、ルティアがほほを赤く染めるたびに顔を見合わせて苦笑いした。
エアの方はというと、人から愛されることに慣れすぎており、ルティアが自分に好意を持っていること自体には気づいていたが、それを特別なものとはみなさなかった。カタリナやヴァイスが自分のことを好きでいてくれているのと同じようなものだと、恋情に鈍感なエアはそう思っていた。
入学式の時も、ルティアは少し離れたところにいるエアをぼうっとした表情で眺めるばかりであったし、最近はずっとそうだったから、新しく誰かと仲良くなるようなこともなかった。
新しい学校生活の不安や、これからやらなくてはならない現実的な義務についてのことがらなんかよりも、今この瞬間の、痛々しいほど瑞々しい恋心の方が彼の心を支配していた。
そんな調子の彼を、戦闘技術科の准教授の地位についている姉、アリシア・ケイロスは、見るに見かねて叱責する。
「ルティア、恋するなとは言わないけどね、でもちゃんとやることはやらないと」
ルティアの一人部屋におしかけたアリシアは、入ってすぐに、ぼうっと窓の方を眺めているルティアに言い放った。
「アリシア姉さんはさ、恋ってしたことある?」
アリシアは、まだ不老の術式を完成させておらず、そもそもそれを目指すかどうかも決めかねていた。
魔術的に才能のない三女のアイルがケイロス家の世継ぎを作ってくれる見込みはあるので、自分が子供を残さなくてはならないという義務感はあまりない。ただ、せっかく女に生まれたのだから、子供を産んで育ててみたいという、好奇心とも性欲ともいえない感情を、捨て去る勇気も覚悟もまだなかった。
さらに、極めて優れた才能を持つアリシアは、二十代のうちに正教授の地位について、その役職を退いたあとは、学園の理事会に入るという将来の展望を見ていたが、ノロイが戦闘技術科正教授を退いたあとに、本来なら自分が繰り上がりで正教授になるはずだったのに、善悪の彼岸という新興の武装グループのコネで、ミリネという名前も知らない帝国の魔術師がその地位についてしまった。そのうえ、彼女は、当分正教授の座をゆずるつもりはなさそうだった。
そういった現実に納得のいかなかったアリシアはミリネの実力を直接確かめたのだが……その結果として自信を大きく失い、魔術の研究に対するモチベーションは、なくなったわけではないが、大きく減退することになった。
そんな事情もあり、アリシアは不老者となって魔術を究めることよりも、もっと人間的な幸せを得たいと考え始めている時期だった。それゆえ、恋というものについて、アリシアもいろいろと考え、想像力を豊かにしていたが、いかんせんそれまで魔術一辺倒の人生を歩んできたので、恋の経験は一切なかった。
「関係ないでしょ」
「姉さんには、俺の気持ちはわからないよ」
アリシアは、そう言われると言葉が出てこない。なんとか頭を回して、別方面から彼を説得しようと思った。
「エリアル・カゼットだっけ? あの子、結構訳ありみたいだよ」
「姉さん、彼女のことを知っているの?」
「まぁね。私の就くはずだった正教授のポストを奪った人のお気に入りでもあるし」
ミリネは、エアのことをずいぶん気に入って、毎日のように研究室に呼んでいるという噂があった。さらに、イグニス、ノロイといった、理事会に所属している有名人たちとも知り合いであるらしい。
「釣り合わないんじゃない? ルティアとは」
「姉さんって、時々ひどいこと言うよね」
事実、アリシアはあまり人付き合いが得意でなかった。正しいことならば、まっすぐいうべきであるし、そこで何か感情の衝突が起こるならば、決闘で決着つければいいと考えるタイプの、ある意味まっすぐすぎる性格だった。それゆえ、顔は悪くないのに男が近寄らないという事情があったのだが、本人はそのことに無自覚だった。
「私、ルティアに彼女は無理だと思うな」
「でも、エアは、俺のことが好きかもしれないんだ」
「どうしてそう思うの?」
「俺のことを、ティア君って、親し気にあだ名で呼んでくれるんだ」
エアは、誰に対しても一番かわいらしいあだ名をつけたがる人間である。カタリナに対してはリナちゃん。ヴァイスに対してはイスちゃん。ミリネに対してはリネ先生。
だから、ルティアのことを特別扱いしていたわけではないのだが、彼の精神は今、正常な状態になく、どんな小さなことでも勘違いしてしまえるおめでたい状態にあった。
「それ、多分勘違いだと思うよ」
「でも彼女は、たとえ俺が勘違いしても、そのことで俺のことを嫌いになったりしない」
その考えも、もし相手が普通の女の子だったなら、痛々しく、そして、なんとも不憫な過大評価である。いずれ気持ち悪い行いをして、気持ち悪いと思われ、場合によってはそれを面と向かって言われ、傷つき、自信を失い、恋愛に対する恐怖を生涯抱えることになってしまう。そんなネガティブな将来予測が容易に見えてしまうほど、ルティアの状態は悪かった。
ただ現実はというと、幸運なことに、ルティアが恋をしているのはエアである。あの、善意の塊であり、どんなにひどい目にあっても誰かを恨んだりすることなど、露ほども思わない、あのエアである。ルティアの状態がどんなに悪くとも、彼がどんなに気持ち悪いことをしたとしても、エアは大して気にせず、騒ぎ立てる周囲を「まぁまぁ」となだめつつ「それくらいいいじゃん」と笑うことだろう。
しかし、逆の面を見れば、エアは根本的に他人に深い興味を抱かない人間であるうえに、無自覚な不老者でもあり、性欲は一切なく、恋愛に対する興味も関心も、本当に、まったく存在しない。もしエアが、誰かから愛の告白をされたり、性の対象として見られたとしても、かわいらしい犬や猫が、自分に対してしっぽを振って寄ってきた場合と同じような反応しかしないことだろう。極端なことを言えば、エアにとって定命の人間は、かわいらしくて、面白くて、一緒にいて楽しい、ペットのようなものだったのだ。
そんなエアの人格的特徴をほとんど理解していないかわいそうなルティアと、彼の現状を実際よりはるかに悪いものとして考えている彼の姉は、その日一日中エアのことで口論して、お互いにぐったりと疲れきってしまった。
ただその一連の会話が無駄だったわけではなく、ルティアは、エアのことを考えつつも、確かに自分の生活のこともちゃんとやらないと、エアと一緒にいられなくなるかもしれないということがわかる程度には、頭が回るようになった。
まだ正気には戻ってはいないとはいえ、最低限言われたことを言われた通りにできる程度には回復した弟を見て、アリシアはひとまず安心した。しばらく学校生活を続ければ、恋心も少しは落ち着いてくるだろうと、楽観的に考えることにしたのだ。