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5、冷たい雨に降られて

 いくら破壊されたばかりの廃墟であるとはいえ、そんな毎日のように事故が起きて人が死ぬのは不自然だと思うかもしれない。実のところその理由は、破壊を引き起こした力の魔王エクソシアの残留魔力によるものであった。監督官より上の階級の者たちは、建物が脆くなっているだけでなく、その脆くなった物体が人間を殺そうとしていることを知っていた。つまり、がれきは半分ほど魔物化していたのだ。


 先日エアを襲った男も、その瘴気にあてられて狂気に陥ったのだと、逃げた上司はエアに説明した。

「だから、人が死ぬことをあまり気にするな。お前のように、人当たりがよくて体のよく動く若者なら、すぐに安全なところに配置換えされる。消費されるのは、もっとも役に立たない者たちなのだから、気にするな」

 エアは納得できなかったが、言い返すこともできなかった。数か月前より以前の記憶は一切ない上に、この世界の仕組みや常識といったものにも疎かったから、自分ごときが何か意見を言うことはできないと自制したのだ。

 だがその様子を見て髭の生えた子持ちの監督官はエアの肩を叩いて気を遣った。

「だが、できる限り死なないようにすることも重要なことで、俺たちの仕事でもある。頼んだぞ」

「はい」


 それにしても、とエアは考える。物体が魔物化することなどありえるのだろうか? そしてその魔力が人の中に入り込んで、正気を失わせるようなことが。

 エアは、思考こそ正常に行うことができたものの、それを組み立てるのに十分な知識を持っていなかったので、答えを出すことを諦めるほかなかった。代わりに、がれきがもし敵意をもって自分たちを襲うとして、それを防いで仕事を進めるにはどうすればいいか具体的に考えることにした。たとえ石が落ちてきて下敷きにされても、無傷に済むためには。

 もちろん、危険な場所にできるだけ近づかないのが一番だが、仕事の内容自体が、その危険な場所を削り取ってなくしていくことだ。事故自体が起こることを防ぐことは確かにできなそうだと諦めかけた時、先日自分の両腕に出現させた概念形装が、どれだけ殴られても一切傷つかなかったことを思い出した。

「これを使えば……皆を守れたりしないかな」


 エアは監督官補佐でありながら、他の労働者たちと並んで歩いていた。何も運ばず、ただ至近距離からその働きぶりを監視しているのだと周りの者たちは思ったかもしれない。

 一言も話さず、周囲を常に警戒してきょろきょろとあたりを確認し続けている彼女に気が散って、労働者たちは作業があまりはかどらなかった。

 幸運なことにその日は小さな事故すらなく、順調に仕事が進められた。

 エアは考えた。もし、がれきに人を害そうという意志が宿っているのなら、それを防ぐ自分がいれば、無理だと諦めてくれるかもしれないと。


 その楽観的で子供っぽい考え方を否定するかのように、次の日は事故が多発した。エアはそのうちの半分ほどをその概念形装を使って防いだ。軽傷者こそ出たが、その日も比較的問題なく仕事を終えることができた。


 もっとも危険なエリアでの仕事にも、エアは慣れてきて、結果を残しつつあった。目に見えて負傷者の数は減り、仕事の能率が上がったからか労働者たちの給料も上がり、少し生活も改善された。

 しかし、そういったよき日々にも必ず終わりは来る。


 エアたちに割り振られたもっとも危険なエリアの作業が半分ほど終わったときのことだった。エアはいつも通り、もっとも危険な作業をしている人のそばで、何が起こっても対応できるように警戒を続けていた。

 エアの体は土まみれで、細かい傷がいっぱいだった。もともとは美しく整った顔も、こうなってしまえば男か女かすら判別が難しくなってしまっている。しかし、もともと彼女は、性というものをあまり感じさせないような、どこまでも無邪気で、誰にも媚びない、独立した人間らしい人間であったので、本人はそれをまったく気にしていなかったし、周囲の人間も疑問に思うこともなかった。

「疲れた」

 エアのすぐそばにいた労働者が、ふとそうつぶやいた。エアは彼の方を見て、いたわるように肩に手を置いた。

 現在エアのチームが作業している三階建ての、石と煉瓦によって建てられた豪邸だった建物は、もともとエントランスが天井まで吹き抜けになっていたが、入り口側の天井は半分ほどすでに崩落しており、その先には青い空が見えていた。窓ガラスはすべて割れていて、二階に続く左右対称の半螺旋階段は、右手側のみ崩れていた。その崩れた階段の残骸を、廃墟の外に運び出している最中のことだった。

「少し休んできなよ」

「いや……」

 彼の顔色を見て、エアは事情を察した。体調が悪いわけではない。ただ、もう仕事を続けたくないという気持ちが強く、精神的に限界が来ているようすだった。

 そういった者は彼が初めてだったわけではなく、むしろ毎日のように誰かがそういった状態になり、弱音をはき、時に逃げ出し、時に自殺した。

 エアはこういうとき、自分が何もできないことについて深く悩んでいた。

「もう、俺のことは守ってくれなくていいよ」

 男はぼそっとそうつぶやいた。

「そもそもあんたがやってることは、俺たちの苦しみを長引かせているだけじゃないか」

 落ち込んだようにエアは視線を落とした。すると、話を聞いていた別の男がつかつかと遠慮なく近寄ってきて、精神的に疲れ果てている初老の男を殴りつけた。そして何も言わずに去っていった。エアはぽかんと間抜けに口を開けたまま、倒れている初老の男の手を取って、起き上がらせようとした、そのときだった。

 ガタガタと、地面がゆれるのを感じた。軽い地震だ。通常なら、建物が壊れることはおろか、家具が倒れたりすることすらほとんどないような小さな揺れだったが、このような壊れかけの建物の場合、そういった小さな刺激が大事故につながる。エアは大声で何かを叫ぼうとしたが、何を叫べばいいのかわからなかった。建物の外に大急ぎで逃げるべきなのか、その場でもっとも大きくて丈夫なものの下に隠れるべきなのか。

 生きる気力を失った男は、助け起こそうとしたエアの手を拒んでいた。エアは「なんで!」と叫んだ。

「ほうっておいてくれ」

 がたがたと揺れる大きな音が響く中でも、男の小さな声は確かにエアの耳に届いた。エアが頭上を見上げると、まだ崩落しきっていなかった天井が、ぱらぱらと小さな粉を落としており、いつ崩れてもおかしくないとエアは判断した。ここに残れば、十中八九生き埋めになる。

「逃げないと!」

 エアが無理やり男の腕をつかんで、運び出そうとした瞬間のことだった。ついに天井が崩れて、ふたりの体を完全に覆うほどの大きさの石の塊が、彼らに迫ってきた。

 エアは概念形装を発現させ、迫ってくる石に向かって両腕を構えた。これを受け止めることができれば、そのあと迫ってくる他のがれきも、その下でしのぐことができるかもしれない。エアは焦ってはいたが、判断力は正常に機能していた。

 今まで感じたことのないほどの強い衝撃をエアは両腕に感じた。概念形装に覆われている肘から先に痛みはない。問題は、それが覆われていない肩からひじの部分だった。受け止めた衝撃がそこまで伝わり、自分の中の魔力回路がつぶれ、破壊されていくのを感じた。より強い衝撃が加わった左腕は、肩から肘が一瞬半分ほどまで縮んだかのように錯覚した。

 しかしそれでもエアは崩落した天井の一部を支え切った。左腕の概念形装は、解けていた。エアはほっとして力を抜くと、左腕がだらんと重力に負けた垂れ下がった。エアは慌てて両手に力を込めたが、左腕は全く動かなかった。

 男はそのような状況になっても、死んだような目でくうを見つめていた。地震が止まって、一旦落ち着いたように見えてから、エアは右腕でがれきを支えながら、男を説得した。

「君が出てくれないと、私も出られない」

「ほうっておいてくれ」

「もしそうしたら、私が人殺しになっちゃうよ」

 男は、人殺しという言葉を聞いて、我に返ったようにぱっとエアの方を見た。見て、エアの動かなくなった左手に目を移した後、また目をそらした。

「俺は人殺しなんだ。それも俺は、兄弟を……」

「話はあとで聞くから早く出て! もう限界だから!」

 男が薄暗いがれきの下から出ると、そこは地獄のような光景が広がっていた。逃げようと焦って入口の方に戻ろうとしたものたちが、崩落した天井の餌食となっていた。まだ生きているものはうめき声をあげていたが、明らかに助からないような状況の者も少なくなかった。二人が押しつぶされそうになったがれきのすぐそばには、誰のものかわからなくなってしまった左足が落ちていて、そこからは血がとめどなく溢れていた。

 男は吐き気を我慢できずに嘔吐した。エアも右腕一本で巨大な石塊を支えながら、何とか脱出した。エアが支えるのをやめた瞬間、ドン、と大きな音が響いて建物全体が揺れた。それほどの重さだったのだ。

「はぁ、はぁ」

 エアの目は焦点が定まっていなかった。足元もふらついていて、いつ倒れてもおかしくなかった。吐き出すものを全部吐き出した男は、そんなエアの様子を見て、歯を食いしばった。これが最後だ、と思った。男はエアを半分背負うような形で肩を支え、そのまま安全なところまでともに歩いて行った。エアはその道中に気を失っていた。


 エアが目を覚ました時、からだじゅうに痛みが走った。そこはいつも自分たちが寝ている場所ではあったが、いつもと様子は違っていた。あちこちからうめき声が聞こえてきた。エアは体を起こした。左腕が動かないことを見て、エアの心はくじけそうになったが、歯を食いしばった。

「……死にぞこないが目を覚ましたか」

 目にクマができた痩せた老人がエアの方に近寄ってきた。エアは座ったまま、彼をじっと見つめた。

「お医者さん?」

「そうだ」

「私の腕、治せる?」

「無理だ。そのままほうっておいてもろくなことはないから、切断した方がいい」

 エアはそれを聞いても、嘆くことはなかった。

「じゃあそうしてほしい」

「金がいる」

 エアは全財産をいつも自分の服の中の内ポケットに入れていた。寝床に隠していたこともあったが、必ず盗まれてしまっていたからだ。

 エアは自分の服のあちこちを探したが、金は一文も残っていなかった。

「お前の服の中の金は応急処置代としてもらっておいた」

 その小さな地震によって、エアの上司も命を落としていた。代わりに新しく着任した監督官が医者を呼んだが、当然もっとも評判が悪く、しかも手癖が悪かった。

「他に金はあるか? それか、代わりに出してくれるやつは」

 エアは、嘘をつくことができない人間だった。ただ首を横に振ることしかできなかった。

「じゃあダメだな。俺は忙しいんだ。お、また死にぞこないが目を覚ましたな」

 別の者が体を起こしたので、医者はそちらの方に行った。エアは傷むからだに鞭を打って小屋を出た。

「お、もう大丈夫なのか?」

 見知らぬ背の高い女性にそう尋ねられて、エアは「誰?」と尋ねた。

「今日からここの監督官を任せられたものだ。で、こいつが監督官補佐」

 その隣には、背の低い意地の悪そうな男がいた。明らかに左手が無事ではないエアを見て、笑っていた。

「えと……私は?」

「あぁ、君が前の監督官補佐か。悪いけど、もうその枠はうまってる。さっさと仕事を始めないと、給料は払えないぞ」

 隣の小男が、背の高い女に話しかける。

「セリナさん。前任の監督官補佐と言えば、あの件のことが」

「あぁ。忘れていた。ついてきてくれ」

 小男は何かを想像して楽しむように、エアの顔をちらちら見ながらそのたびにくすくすtと笑った。

 ふたりが向かった先には、一本いやな雰囲気の木が立っており、その一番太い枝には何かが吊るされていた。人だ。

 すぐそばまで来て、そこに吊るされている者が、エアが助けた初老の男であることに、エアは気づいた。女からナイフを渡されて、鼻をつまみたくなるような悪臭をこらえながら、エアはそばにあった足場に上り、ロープを切った。ぼとっと、地面に死体が落ちた。

 小男と大女は、ニヤニヤと笑いながらその様子を眺めていた。エアはただ無表情で、やらなくてはならないことをやった。ひどい悪臭を放つ男の体を背負い、ふらつく足で、焼却場に向かった。

「律儀なものだな」

 エアは、けほけほと咳をしながら、燃やされる彼に膝をついて手を合わせた。すべて終わると、大女が金の入った袋を差し出した。

「昨日までの、お前とその男の分の給料だ」

 小男は、クカカカカと骨が鳴るような嫌な笑い方をした後に「でかいゴミを運んだかいがあったな!」と言って、背伸びしてエアの頭をなでようとしたが、エアはその手を振り払った。小男は一瞬顔をしかめたが、そんなこと慣れているかのように、エアの腐りかけている左腕を軽くこづいた。

「ま、明日からも頑張って働いてくれよ!」


 エアは金をもって寝床に戻ったが、医者はすでにいなかった。医者がどこに行ったか聞いて回っているうちに日が暮れて、エアは露店でカビが生えているパンを買って食べながら、寝床に戻る道を歩いた。

 その途中、小さな男の子が道の端で倒れているのに気づいて、エアは慌てて駆け寄った。

「大丈夫?」

 返事はなかった。エアは硬貨の入った皮袋を地面に置いて、男の子の体をだきおこそうとした、その時だった。後頭部に強い衝撃を受けて、地面に倒れこんだ。ずきずきとした痛みをこらえながら、何とか起き上がると、先ほど倒れていたはずの男の子と、もうひとりその子より背が高い子が遠くの方でハイタッチしていた。近くには太い棒切れが落ちており、それでエアを殴ったのだ。

 背の低い方の、エアを騙した少年が振り向き、エアと目が合って、その左手をぶらぶらと動かして、ダメになったエアの左手を揶揄した後、あっかんべーと指で瞼を伸ばしてから、大声で笑って走り去っていった。

 ひとり残されたエアは、ついに涙が抑えきれなくなった。ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、のどの奥から響く、抑えようにも抑えきれない声を上げて泣いた。


 世界が理不尽なのは知っていた。自分が理不尽な目に遭うことだって、初めてではなかった。人間が薄情なのも知っていたし、それぞれ生きるために自分勝手なことをせずにいられないのもわかっていた。

 エアは、こんなことで泣きたくなんてなかった。嫌なことがどれだけあっても、自分は前向きに生きていかなくちゃいけないのだと分かっていたから。それでも、涙が抑えられなかった。ずっとこらえてきた痛みや悲しみが決壊し、抑えられなくなった。

 しかしそうした激しい感情が、何か現実を変えることはない。魔法は、繊細かつ冷静な精神によって扱われるものであり、感情的な魔力の増大は、コントロールできなければ形になる前に空気中のエーテルと同化して消えていくのみである。

 数時間ほど泣き続け、もうそれ以上流す涙がなくなって、エアは仕方なく立ち上がった。

 とぼとぼと一文無しで帰路についた。その道中、エアの腐りかけていた左腕が、肩からちぎれてぼとりと地面に落ちた。エアは一瞬だけ立ち止まって、かつて自分の左腕だったものを見つめたが、それがもう元に戻らないことは明白だった。


 翌日、エアは高熱を出したが、しかし金がなければ生きられない。働かなければ寝床すら奪われてしまう。

 冷たい雨が降る中、エアは何とかからだを起こして、周囲の人間に助けられながらも、何とか一日働き切ることができた。エアを助けた人の中には、かつてエアから命を救われた者も含まれていた。エアは彼らに感謝をして、何とかこの先も生きていけそうだと新しい希望を持ち始めていた。

「ご苦労さん。明日から来なくていいよ。お前がいると、他の奴らの作業効率も落ちるし」

 大女が、エアにその日の分の給料を渡しながら、そう告げた。エアは振り返って、仲間たちを見たが、誰もエアと目を合わせようとしなかった。

「今までみんなありがとうね」

 エアはかすれた声を振り絞ってそう言ったが、誰も返事はしなかった。エアはとぼとぼと、今夜の宿代にすらならない給料を今度こそなくさないようにしっかり握りしめて、街の方に向かった。

 ぽつぽつと小さな雨の音が絶えまなく鳴り響いている。


 エアはそれでも世界を、人を、憎んではいなかった。運のせいにもしていなかったし、自分が悪いなどともこれっぽっちも思っていなかった。

 ではエアは、このような現状を、どのように考えていたのだろうか。いや、おそらく彼女は何も考えていなかった。何も考えられなかった。ただ、その日を懸命に生きなくてはいけないということだけが、彼女にとって重要なことだった。

 カビの生えた安いパンを買ったら、お金はもう残らなかった。それが最後の晩餐になるということを、エアは意識的に考えはしなかったものの、はっきりとそう感じずにいられなかった。

 そのパンは、今まで食べたどんなものよりもおいしく感じた。一回噛むごとに、疲れ果て、壊れかけているからだに、その栄養が全身に行きわたり、生の喜びで満たすかのようだった。あるいは、生の最期に与えられた、最後の慰めかのように、エアはその食事を心から楽しみ、幸せを感じていた。

 しかしその幸せも、先日エアが少年たちに襲われた通りに近づいたときに、消えてなくなってしまった。パンはまだ半分ほど残っていたが、すぐそばに、祈りをささげるかのように、両腕をそろえて差し出している、痩せた男が座り込んでいた。雨粒が差し出された両の手に降り注ぎ、指の隙間からそのしずくが滴っていた。その手はぷるぷると小刻みに震えていた。

 エアはそれまで、乞食を見るたびに自分が持っている食べ物を半分与えていた。それに意味がないことはわかっていた。ただ、そうせずにいられなかったのだ。

 しかしその日は、おそらくエア自身も最後の食事になる。仕事も寝床もなく、健康なからだもない。エア自身が、乞食にでもならなければ生きていけない状況にあり、エアは、乞食として誰かに食べ物を恵んでもらいながら生きるくらいなら、どこか静かなところでその生を終えることを望む人間だった。

 エアは、自分が何日も働いてきた廃墟となった街の、一番目立たない隅のところでその日の夜を過ごすつもりだった。そこでもう、動かず、悩まず、ただ夜空を見上げて、パンの最後の一口をほおばって、一粒だけ残った涙を流して、眠りにつこうと考えていた。

 エアは、その乞食を無視して歩いた。でも、一歩進むたびに足は重く、右手に持ったパンを一口かじろうとしたが、手が震えて、口も開かなくて、うまくできなかった。エアはその場で立ち止まって、一粒だけ涙を流した。振り返って、最後に力を振り絞って走り、乞食の前に立った。そして、消えそうな声で言った。

「ごめんなさい」

 エアは座り込んで、パンをその手の上に置いた。乞食は感謝の言葉すらなく、何かが手の上に置かれたと分かった瞬間、それが何かを確認することもなく、がつがつと食べ始めた。エアはその様子を見て心の底から人間というものの無精神性に幻滅したが、しかし後悔はなかった。

 またとぼとぼと歩き始めた。ほとんど意識は消えかけていた。

「もう、疲れたな」

 倒れる直前、エアはそうつぶやいた。同時に、こういう気持ちになって、こういう風に終わりを迎えるのは、これが初めてではないように感じた。そして、この死の予感が、自分にとっての本当の死にはなりえないことも確信した。

 悲しいほどに、絶望的なほどに、エアの苦悩は、痛みは、ここで終わってはくれないのだと、エアはそう確信したまま、道端で力尽き、眠りに落ちた。


 彼女の体にはますます強くなる雨が降り注いでいた。


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