42、魔王の企み
道の魔王、ソフィスエイティアは悩んでいた。
同胞であるエクソシアとペイションの両方の力が大きく削がれたところを、彼女は近くで見ていた。そしておそらく、彼女がそれを見ていたことも、イグニスらに察知されている。
ソフィスエイティアは、空間を司る道の魔王であると同時に、迷い込んだ人間の知性を吸収し、知能を高めていくことのできる怪物であった。
だからこそ、彼女はエクソシアやペイションなどとは異なり、自分自身の存在や、これから生き残っていけるかどうかなど、不安なしに考えることはできないような事柄にも、踏み込まざるを得なかった。
「今の私じゃ、何もできない。知識もなければ、方法もない。前に何とかエアと接触できたけれど、もう少しで体を突き破られるところだった」
ソフィスエイティアの映し出す幻像は、かつてエアたちの前に姿を見せたときよりも、具体的で、美しいものになっていた。その理由は、単に、それだけ多くの人間を食らい、彼らの想像する「もっとも警戒する必要のない人間像」を取り込むことができたからだ。
彼女は、いたいけな少女の姿をしている。黒髪黒目で、目がくりっとしていて、表情が豊か。今のソフィスエイティアには、なぜそういった姿が警戒されづらいのかまで、ちゃんと理解できている。
「エクソシア。これからどうするつもり?」
少年の姿で正体を隠し、人間たちに混ざって生活をしているエクソシアは、ソフィスエイティアから生活費を受け取っている。ソフィスエイティアは、自分の体内に誘い込んで食らった商隊が持っていた金やものを大量に保存していたので、それを負担に思ったりはしていなかった。
「ソフィスエイティア。あの女は、俺にこう言った。存在すべきではない、と」
その言葉は、ソフィスエイティアにも聞こえていた。
「それで?」
「だが、俺は自由と破壊を愛する力の魔王、エクソシアだ。存在すべきかどうかなど問題ではなく、俺は現に存在していて、存在し続けるしかない。始まったものは、終わらせるものがいないのならば、続くしかない。俺は、気づいている。俺の体は、ヤツに殺されたがっている。別の言い方をすれば、ヤツの一部に戻りたがっている。だが俺は、俺の芽生えたばかりの自我は、俺は俺でありたいと言っている。ソフィスエイティア。お前はどうだ? お前は何を感じている?」
ソフィスエイティアもまた、エアに引きつけられているのは感じていた。かつて彼女と強引に接触した理由も、それだった。
「私もあなたと同じだよ、エクソシア。私は私でありたい。だから、生き残る方法を考えなくちゃいけない」
「生き残る方法、か。何か策があるのか」
「ない。だから、策を思いつくための策が必要」
「どういうことだ?」
「私は、取り込んだ人間の知能の一部を吸収できる。だから、より優れた知性を持っている人間、より多くの有用な知識を持っている人間を取り込むことができれば、この状況を打開できるかもしれない」
「そうか。じゃあそうするといい」
「でも、有用な知識を持っている人間はたいてい魔術にも長けていて、私の中に誘い込んだとしても、強引に壁を突き破れるかもしれない。それで私の貯めてきた知性が外に漏れてしまったら、また最初からやり直しになる」
「じゃあ無理だな」
「ううん。魔術の優れた知識を持っていても、魔術を行使することに長けていない人間が多く集まる場所があるから、そこに入れさえすれば何とかなる。魔法学園都市ウスティカ。あそこには未熟な学生たちがたくさんいて、彼らをうまく誘い込んで吸収できれば……」
「だが、あそこには厄介な結界が張ってある。俺が無理やり力でこじ開ければいいのか?」
「ううん。それじゃ、向こうも警戒するからダメ。だから、ペイションに助けてもらうつもり。君にもあとあと力を貸してもらう予定だから、それまで目立たず失った力を少しでも取り戻しておいてほしい」
「ふん。ところで、今ペイションのやつはどうしているんだ」
「彼女は、力の九割ほどを奪われて、毎日泣いている」
「軟弱なヤツだ」
「はぁ。なんでみんな頑張るんだろ。死にたいなぁ」
誰もいない海岸沿い、断崖絶壁に、無数の影が等間隔に並んで座っていた。数百体の、同じ姿をしたそれは、海に落ちていく太陽を一様に見つめて、同時にため息をついた。
生きるのは苦しかった。存在は無意味だった。
ペイションは、エクソシアやソフィスエイティアと同様に、人並みの知性を与えられて生まれたが、彼らと明確に異なっていたのは、彼女が、他の二体と比べてきわめて人間らしい感情を有しているという点でだった。
言い換えれば、彼女には、セラと同じように人間であったときの記憶があった。それも、ひとりの人間のではなく、複数の人間の。それも、極めて憂鬱で、悲しみに満ちた記憶を。
「イグニス。ねぇイグニス」
呼んでもイグニスは出てこない。ペイションは、エアから分離させられて、その存在が確立された直後は、今とは異なり、イグニスによく構ってもらえた。呼んだら、いつでも転移でそばに来てくれた。
イグニスにとっては、セラが生まれてペイションが弱体化したことがそもそも予定外であり、力を奪われたペイションが無事に機能するかどうか気がかりだったのがその理由で、問題がないと分かった今、ペイションに対して必要以上の監視を行う必要はなくなっていた。
「寂しい」
「大丈夫?」
後ろから、自分が期待していたのとは別の声が聞こえて、数百体のペイションが一斉に振り返る。そこには、自分より背の低い、ワンピースを着たかわいらしい少女が立っていた。ソフィスエイティアだ。前に会った時よりも、姿かたちがはっきりしている。目も鼻も口もちゃんとあり、話し方も自然になっている。
「あなたは苦しくないの、ソフィスエイティア」
「苦しい? 何が?」
「生きることが」
「……私は楽しいよ。新しい知識を得るのは。知識は力だから。私は、自分に与えられた状況が、絶望的なことは知っているけれど、それを自分の工夫と知性で乗り越えていくことに、喜びを感じている」
ソフィスエイティアは、すでにもう数百人の知性を食らっていた。彼らから知能と知識を吸収し、今や、人並み以上の知性を有していた。
「ねぇソフィスエイティア。私たちは、殺されるために生まれてきたんだよね」
「そうだよ。でも私は、私たちは、その運命を覆す」
「無理だよ」
「無理かどうかわかるほど、私はまだ賢くない。だから、もっと賢くならないと」
「あなたがそういう風に考えるのも、最初から仕組まれたことなんだよ。道の魔王、ソフィスエイティア。あなたは結局、エリアル・カゼットが歩く道を整えるための存在に過ぎない」
「私の考えが正しければ、私の存在はそんな単純なものではないよ、ペイション」
「どうでもいいわ。どうせ私たちは殺される」
「ねぇペイション。私にいい考えがあるの。あなたの助けが必要なの」
「エクソシアにでも頼めばいいじゃない。私には何もできないわ」
「あなたにしかできないことなの。人間の精神をのっとって、自分のものにできるあなたにしか」
「私が精神をのっとれるのは、その精神が不安定で弱い人間だけ。イグニスたちはおろか、ただ普通に生きている人間の中にすら、今の私では入れない」
「馬鹿ね、ペイション。不安定で弱い人間なんてどこにでもいるわ」
「でも、不安定で弱い人間を乗っ取ったって、何もできないわ」
「そう。皆そう思うわ。だからこそ、警戒されないの」
「私に何をさせたいの、ソフィスエイティア」
「私たちで、魔法都市ウスティカを乗っ取るの。あなたは、イグニスにも気づかれないように、あの都市の中に入り込んで、結界に穴を空けてほしい。魔法都市内に私への入口をつなげられるように」
「……なるほど。それなら」
「そう。それなら、あなたの天敵であるセラを始末する方法もわかるかもしれない。魔術に詳しい人を私が食らうことができれば、イグニスや、その他私たちを脅かす存在の弱点がわかるかもしれない」
「……でも、きっとうまくいかないわ」
「ねぇペイション。たとえうまくいかなくても、私たちがこの計画を実行すれば、イグニスは驚くわ」
ペイションは、その日初めて笑った。心の中に、冷たい熱が生じてくるのを感じた。
「そうね。そうだわ。私、イグニスを困らせたいわ! 私たちのような不幸でしかない存在を生み出したイグニスに、復讐してやりたいわ!」