41、よい苦労と悪い苦労
ミリネが生まれた約六百年前は、帝国が急速にその影響力と領土を拡大している時期であった。
白竜人と純人のハーフとして生まれた彼女は、平和な他人種国家として歩み始めた帝国という国で、とても大切にされ、期待されて育ち、その期待以上の働きを見せた。彼女だけでなく、その時期には、才能のあった者も、なかった者も、帝国という国の未来に光り輝く希望を感じていた。そしてその希望は実現した。
誰も飢えることなく。理不尽を前に、膝を折ることもなく。帝国では、誰もが言論で戦うことが許された。誰にも、暴力を振るうことが許されなかった。犯罪はみるみるうちに減り、皆の生活を改善するために、あらゆる資源が使われた。一部の人間が富や権利を独占するようなこともなく、問題が起こらない限り個人の考えや生き方も尊重される、楽園のような世界が作り出された。
ミリネは、そんな素晴らしき帝国を作り上げた偉人のひとりだった。唯一帝ブランの側近として、彼女の思想に忠実に生きてきた。
この世界に生れ落ち、いずれ去っていくすべての人々が、幸せにその生を全うできるよう、環境を整えること。
生まれた時からふたりの英雄の娘として皆から愛され、皆を愛してきた、少女ブランが己の胸に誓ったたったひとつの理想。それが今や、大西大陸の八割を占める領域に広がり、そこで生きる人々に共有されている。
より幸せに。より豊かに。より安全に。より……永遠に。
なぜミリネは、ザルスシュトラとともに帝国を出たのか。その理由の最大の要因は、彼女が心の底から敬愛する唯一帝ブランが、それを望んだからであった。
「ミリネ。君は彼についてやってくれ」
どうしてですか、とは尋ねなかった。皇帝の考えていることは、ミリネでさえもわからない。だがその、愛に満ちた目を見ると、何も言えなくなってしまう。昔からそうだ。
「わかりました」
不思議なことに、ミリネは中央大陸についてから、すぐにあらゆることに対するやる気を失った。
帝国の、自然保護区で暮らしていたのと同様に、ひとり森の中に隠れ、自然を愛し、穏やかに日々を過ごしていた。ザルスシュトラの活発な活動に参加するのは、性に合わなかったのだ。
帝国でミリネは、人々に求められるように生きてきた。優秀な政治家が必要なら優秀な政治家になり、天才的な学者が必要なら、天才的な学者になるために努力をした。不老者になったのだって、不老者になり、心が生きる限り永遠に帝国に貢献することを、人々が求めたからであった。
しかし近年の帝国は、もはやミリネのような不老者の力を必要としていなくなっていた。
四百年前から少しずつ進んでいた民主主義への移行が完全に済んでからは、皇帝が政治の表舞台に出る機会もめっきり減り、その存在がフィクションなのではないかと噂されるほどになっていた。
報道の技術が発展し、ミリネのような著名人の行動は、ひとつひとつが帝国人の関心の的となった。ミリネは、はじめこそ人々が望むような自分を演じていたが、次第に、自分のことを知ろうとする人々は、あくまで娯楽としてそうしているだけで、自分自身を求めているのではないのだと気づいた時からは、ひっそりと隠れて暮らすようになっていたのだ。
そんな時、皇帝が直々に、今の帝国にうまく馴染めない、優れた才能を持った子供たちを集めた学校をつくる計画に参加するようミリネに命じた。そのころには、久々に人生を楽しむことができた。
しかし、そのような特殊な才能を持った子供を教育する施設すら、完全に方法が確立され、ミリネより適した人材が集まるようになってからは、ミリネはまた不要な存在として扱われ、森の中で隠れて暮らすようになった。
ミリネは、誰かに貢献することの喜びによって生きている人間であり、だからこそ、長い長い不老者としての生を耐えることができた。だがそれにも、限界が来ており、彼女は生きることにうんざりしていた。
皇帝ブランはおそらく、ミリネのそんな心情を見抜いていたのだろう。だからこそ、環境の変化、特に、ミリネのことを必要としてくれる人のいる場所に、彼女を送り込んだのだろう。
しかし中央大陸に来ても、ミリネは自分自身の意志で動くことができなかった。何をすればいいかわからなかったし、それを命じてくれる人もいなかった。
本当はザルスシュトラにすべてを決めてもらいたかった。
道具として扱ってもらいたかった。しかし、自分の弟子に、まるで部下のように扱ってくれと頼むようなことは、ミリネの性格上できなかった。
彼女は、不老者らしい、善良なる偉人らしい、超然とした態度で生きることから、離れることはできなかった。
そんな彼女に、ザルスシュトラはウスティカ魔法学園の、戦闘技術科正教授のポストをあてがった。
ザルスシュトラは、身勝手で、自己中心的な人物ではあったが、思いやりの欠けた人物ではなかった。
ミリネのことを放ったらかしにしつつも、彼女のために何かできないか考えていたザルスシュトラは、大陸最優の魔術師イグニスとその弟子であり、当時、戦闘技術科正教授の職に就いていたノロイを善悪の彼岸に引き込み、空いたその席に、ミリネを無理やりつけた。
その結果として、多少魔法学園内の人事に問題を生じさせたが、ミリネは、それを帳消しにするほど多くの功績を短期間で残した。
彼女は、ここ魔法学園では、皆から尊敬され、愛され、求められる、彼女にとって理想と言えるような生活を送ることができていた。そのすべては、皇帝とザルスシュトラの気遣いのおかげである。
「ミリネ先生!」
書斎をノックもせずに入ってくるのは、最近知り合ったかわいらしい少女、エアである。一目見た時、ミリネは彼女に好意を抱いた。まっすぐな瞳。豊かな表情。優れた魔術の才能に、これ以上ないほど健康な肉体。
きっと、若いころの自分をかわいがってくれた人々は、こういう気持ちだったのだろうなと、想像するほどに、ミリネはエアに大きな可能性を感じたのだ。
と、同時に、ミリネは、イグニスが計画していることの一部を、ザルスシュトラなどよりもはるかに正確に把握していたため、その自分の直感が誤っていることを即座に確信した。
「エア。どうしたの?」
「今日も、色々教えてもらおうと思って。忙しいかな?」
「ううん。いいよ。ちょうど仕事もひと段落着いたところだしね」
事実、ミリネは今先ほど、魔力回路学の准教授から頼まれていたいくつかの論文の査読、評価を終わらせたところだった。
「ねぇミリネ先生。先生は、帝国っていう国のことをどう思っているの?」
「素晴らしい国だよ。皆が幸せそうで、満足している。同時に、皆のそういった幸せや満足を妨げるような行いは、なんぴとにも許されていない。だから、皆ほどほどに我慢して、気持ちよく暮らしている」
「そうなんだ」
「逆にひとつ聞いていいかな? エアは、そういった国のことをどう思う?」
「素敵な国なんだなぁって思う。でも、世界のすべてがそうなったら、少しつまらないかもなって思う」
「きっと、そういう国を作った皇帝も、そこで暮らしている人たちも、思っていることだと思う。だから、ここ二百年領土が変わっていない」
「ねぇミリネ先生。ミリネ先生は、なんで帝国を出たの?」
「帝国に私の居場所がなかったからだよ」
「え! なんで? 先生くらい、優しくて物知りなら、みんなから愛されるはずだよ」
「ううん。帝国では、優しくて物知りなのは、当たり前のことだから、誰もそんなことを求めたりはしないんだ。どちらかといえば、過激なことを言う人や、皆を笑わせる人の方がずっとえらくて、求められている。あと、画期的な発明をする人や、新しい暇つぶしを考え出せる人」
エアは、そのかわいらしい口をとがらせて、不満そうな表情をしている。
「ね、先生。私、先生みたいないい人が悲しい気持ちになるようなところは、好きじゃないな。先生はさ、この学園好き?」
「うん。ここは私にとっての楽園だよ。帝国のように、皆が幸せなわけではないけれど、私にとってはここが、帝国より素敵な場所に感じる。皆がそれぞれの目的をもって学んでいて、私はその助けをする。人は私によい仕事を求め、私もそれに応える。応えた分だけ、人は私を評価し、さらに求めてくれる。苦しいことや悩ましいこと、理不尽なこと、我慢しなくちゃいけないことはたくさんあるけれど、それも、生きているという実感を与えてくれる。帝国では、得られなかったことだ」
「不幸が、人生を豊かにしてくれているっていうこと?」
「ある意味ではね。学園内の権力争いや興味のない色恋沙汰に巻き込まれることはあるし、かわいがっている生徒の調子が悪くて、その子が心配で眠れない夜もある。嫌いな人と笑顔で付き合わなくちゃいけない時もあるし、面倒でつまらない仕事をたんまりと押し付けられて、何日も仕事部屋に籠らなくちゃいけない時もある。それでも、私はここでの生活が幸せなんだ」
「先生。この世には、よい苦労と悪い苦労があって、先生は、今、よい苦労をしているということなんだね」
「そうだね」
「じゃあ、先生は、そのふたつの苦労を分けるのは、なんだと思う?」
子供のようなきらきらした目でエアは尋ねる。ミリネは、平静を装ってはいるものの、内心ではその問いの鋭さにたじろいでいた。
よい苦労と悪い苦労。帝国人なら、おそらくは、自分が成長できる苦労をよい苦労、成長できない苦労を悪い苦労と呼ぶことだろう。だが、ミリネが今説明したようなことは、ミリネを成長させているわけではない。
また別の帝国人は、人と自分の役に立つ苦労をよい苦労、役に立たない苦労を悪い苦労と呼ぶかもしれない。でもその考えも、自分が今説明したことの中には、例外が含まれている。自分の役にも誰かの役にも立たないような苦労を、なぜかやらされていることもある。それでもミリネは幸せなのだ。
「自分が納得できているかどうか、かな」
「納得?」
「うん。よいと悪いを定めるのは、結局は人の認識によるものだから、その苦労の意義やその重さに対して、しっかりとした認識があるかどうかなんじゃないかと思う」
「ミリネ先生にとって、納得っていうのは、しっかりした認識っていうこと?」
「うん。その物事に対して、良い面も悪い面も、フェアに理解し、受け入れているということ」
「じゃあ先生。もうひとつ聞いていい?」
「どうぞ」
「るーくんなら、よい苦労と悪い苦労をどう分けると思う?」
ミリネは、さすがに困ったように頭を抱えた。彼の考えてることは、ミリネでも想像しがたいことだ。
「もしそれに答えたら、次は同じ質問を、エアが答えてくれる?」
「もちろん」
「彼、ザルスシュトラなら、きっと、よい苦労、悪い苦労という区別を、そのまま高い苦労、低い苦労と言い換えると思う。つまり……珍しくて、再現することが難しい苦労を、本人がどう思っているかに問わず、よい苦労と呼び、そうでない、凡庸で、ありきたりで、結果が目にみえているような苦労を、悪い苦労と呼ぶと思う」
エアは、嬉しそうにふふふと笑いながら、答える。
「私、さっきの先生の意見よりも、今の先生の意見の方が面白くて素敵だと思うな」
「私はつまらない人間だからね。ザルスシュトラの方が、よっぽど味のする人間だよ」
「ううん。今のは、先生の意見だよ。るーくんは多分、もっと別のことを答えるから。それで、私の意見なんだけどね。私は、苦労そのものによい悪いがあるんじゃなくて、私たちの生に対するよい悪いが、そのまま苦労に対するよい悪いに繋がるんじゃないかと思うんだ。つまり、私たちが私たちの生を愛しているかどうかなんじゃないかっていうこと。苦労を悪いものだと思うのは、その生を悪いものだと思っているから。苦労をよいものだと思うのは、その生をよいものだと思うから。たとえば、農民であることをよいと思っている人にとって、畑仕事の苦労はよいものになるし、逆に農民であることを恥ずかしいことだと思っている人にとって、畑仕事の苦労は悪いものになる。だから、納得できているかどうか、すなわち、しっかりとした認識ができているかどうかなんて、善悪とは関係ないと思う。だって、農業の大切さがわかっていても、農民になりたくない人は山ほどいるからね」
ミリネは頭を抱えて困りながら笑った。エアは続ける。
「でも、さっきミリネ先生がるーくんならこう思うだろうっていう意見と今私がいった意見は、とてもよく似ていると思う。その苦労が、高いもの、すなわち、より価値がある、素敵なものだと思えたら、その人は、喜んでその苦労の中に飛び込んでいく。その苦労の中身や実体、結果を知っているかどうかは重要じゃない。むしろ、知らないことや、知りえないことが、また別の魅力となって人を引き付けることもあると思う。たとえば……こうやって先生とおしゃべりすることは、私にとってわからないことだらけで、難しいことだけれど、とっても楽しくて、素敵なことだと思う。先生もそう思う?」
「私もそう思うよ、エア。君や、ザルスシュトラのような人と話すと、私は自分がいかにちっぽけで、つまらない人間か思い知らされると同時に、この世界で生きるということの意味と希望をなんだか感じられるような気がする。私は、君たちのように考えられはしないけれど、君たちの考えを理解することならできる。そうだ。君たちには、いつも、教えているつもりが、いつの間にか、教えられる側になっている」
エアはにっこり笑って、話を変えた。
「先生、今日の朝、試しにクッキー焼いてみたんだ。どうぞ!」
「わぁ、ありがとう」
エアはポケットから、袋に入ったクッキーを取り出し、ミリネに渡す。口に入れると、栗の甘みが口に広がった。
「栗のクッキーだね。とてもおいしいよ」
「やったぁ! 先生、前にちょっとしぶくて甘いものが好きだって言ってたから、栗かなって思ったんだ」
ミリネは目をつぶって、その甘さと幸せをかみしめた後、それをもたらしてくれた純真無垢なエアの過去と未来のことを思い出して、途端に憂鬱な気持ちになった。
「それじゃミリネ先生、ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「また来るね!」
「うん。いつでも来ていいからね」
せめて、魔法学園にいる間だけは、エアには幸せであってほしいとミリネは心の底から願った。
彼女には、願うことしかできなかった。当然、彼女以外のすべての人にとっても。
定められた残酷な運命は確実に近づいてきているのだ。