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40、ザルスシュトラの師 ミリネ

 ザルスシュトラは、最後に、善悪の彼岸でもっとも重要な人物に会いに行った。ウスティカ魔法学園、現戦闘技術科正教授、ミリネ。

 自分の恩師であり、彼岸の最大戦力。帝国の子供たちですらその名を知っているほどの偉人でもある。

「あぁ、ザルスシュトラ。久しぶりだね」

「三か月ぶりかな、ミリネ。最近は少し忙しくてね。仕事の方はどうだい」

「よい。帝国と違って、この学園では明確な目的をもって学ぶ生徒が多いから、教えがいもある。それに、新しい研究成果を『どのような社会の役に立つか』という不純な観点から判断する必要がないのもよい」

「そうだミリネ。ひとつ聞いてみたいことがあった」

「何かな」

「学問の探究に、善悪は必要だと思うか」

 ミリネはこの問いに対してはあまり悩まなかった。

「第一として、学問の発展には社会の基盤が必要で、その基盤のためには最低限の善悪の観念が広まっている必要がある。秩序のない、力がものを言う世界では、経済は発展しないし、当然、人も集まらない。だから、必要か必要でないかという問いに対しては、私は必要だと答える」

「ふむ。では、善悪の重さに関してはどう思う」

「中庸、としか言えない。善悪は重すぎても軽すぎてもダメだ。固すぎても、柔らかすぎても。それにしても、君は時々私に、答えがわかっていることを問いかけるね」

「不安なんだよ、ミリネ。自分の考えていることが間違っているかもしれないと、いつも不安になる」

「たとえ間違っていても、君の間違いは特別な間違いだ。彼女の間違いもまた、そうであったように」

「エアのことを言っているのか」

「もちろん。つい先日、あの子とはじめて話したよ。素敵な子だ。君と少し似ているところがある」

「あぁ。そうだな」

「裁断の原理、か」

 ミリネはため息をついた。ザルスシュトラは、自分の手のひらを見つめている。彼は、彼女と皇帝以外には知られていない、必殺の武器を所持しているのだ。

「私は昔、なぜ私よりはるかに優れたあなたや皇帝が、概念形装を持てないのか理解できなかった」

「今ならわかるかい?」

「あなた方は、正しすぎるんだ。どこまでも冷静で、複雑さに耐えられる。醜さや愚かさ、人間の……どうしようもない部分まで、あなた方は理解して、受け入れて、よい方向に導くことができる。概念形装というのは、あくまで人間のものであり、超越者のものではない。私たちは、あなた方とは違うんだ」

「ザルスシュトラ。君は時々、超越者という言葉を使うけれど、私から見れば、あなたやエアの方が、私や皇帝なんかよりずっと人間を超越しているように見える」

「いや、結局私もエアも、人間らしい利己主義に基づいて動いている。自分自身のために、世界全体を使おうとしている。対してあなた方は、この世でもっとも優れた能力を有しておきながら、自分自身に価値を見出しておらず、自分とは異なる、もっと儚くて弱い者たちに価値を見出し、彼らを守ることを、自らの役割として定義している。あなた方はいつも、世界全体のために、自分自身を使おうとしている」

「ザルスシュトラ。君は私たちを過大評価している。私たちは、それほど優れた存在ではないし、ものごとを複雑にとらえているわけでもない。ただ、その場その場で最善の判断を行うことに集中しているだけで、世界全体のことなんて考えていない。私たちは単に、私たち自身への興味を失っているだけなのだ。だが君やエアは、どこまでも君たち自身に縋り付いて、それを高めようとしている。疲れ果てた私たちとは違って。だから、まぶしいんだよ、君たちの生き方は。羨ましくなることがあるんだ。時々、私は君の弟子になりたくなる」

「冗談はよしてくれ、ミリネ。私を育てたのはあなたなのに」

 事実、ザルスシュトラは幼少期から、並外れた知性を持っていたがゆえに、家族や友人は、彼のことを全く理解せず、孤独に苦しんでいた。そんなときに、ザルスシュトラを導いたのが、当時帝国の、特別な能力を持った少年少女の教育に携わっていたミリネだった。

 少年であったころのザルスシュトラにとってミリネは、恩師であり、初恋の相手であり、自らの目標でもあった。しかしミリネは、ザルスシュトラが自分にはなれないことを知っていたし、それに……本質的に、自分よりザルスシュトラの方が優れた人間であると考えていた。

「君たちのような人間がいなければ、私たちはこの生に耐えられなかったろうな」

「どういう意味だ」

「六百年生きても、相変わらず、生きることは、けっこうつらくて苦しいことに変わりはないってことだよ。特に、私や皇帝のような、面白みのない人間にとって」

「ミリネ、私はあなたと話していると落ち着く。どんなところでも、あなたと一緒にいる場所が、自分の居場所だと感じる。もしあなたが来てくれなかったのなら、私はずっと帝国で縮こまっていたことだろう」

「いや、それは君の、君自身に対する誤解だ。君の愛や欲望、情熱や憤りは、私と言葉を交わす空間の居心地の良さなんかより、はるかに大きく強力ものだ。だから、もし私が君についていかなかったとしても、君は帝国から出ていただろうし、帝国に残った私のことを、小さな心残り程度のことにしてしまうだろう」

「私は不誠実な嘘つきなのか?」

「そうだ。君は不誠実な嘘つきだ。誰よりも誠実であろうと、本当のことを言おうとするがゆえに。君は変化し、前に進もうとするがゆえに、今の君は常に過去の君を裏切り続ける」

 ザルスシュトラは黙って、ひとりでじっと考え込んだ。そのまま数時間が経過して、さすがにミリネは笑いながら彼の肩を叩いた。

「なぁザルスシュトラ。考え始めると、周りをまったく気にしなくなるのは、君の昔からの悪い癖だ。直せとは言わないが、ここにずっといられると困るな」

 ザルスシュトラは目をぱちぱちと瞬かせてミリネを見た後、大笑いした。唾がミリネの顔にかかって、さすがの彼女も顔をしかめた。

「ははは! なるほど! なるほど! そういうことか。よしわかった。ミリネ。あなたには感謝してもしきれないな。あなたの言うとおりだ。すべて。あなた方は正しい。だがやはり、正しすぎるんだ。あなた方は、正しさに従う者たちで、私たちは、正しさを創り出す者たちなんだ。そうか。そうだな。だとすると、イグニスも……」

「ザルスシュトラ。私は仕事をしなくちゃいけない」

 ザルスシュトラは笑いながらミリネの仕事場を出ていった。ミリネは、仕事に取り掛かりながらはた迷惑な愛弟子のことを想ってほほ笑んだ。

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