36、イグニスの想い出
一仕事終えたイグニスは、仕事部屋である研究塔で書斎でパンをほおばっていた。手元には、古い本がある。
ノロイは先日、集団転移の大仕事を終えた後、部屋に帰ってすぐに就寝した。不老者といえども、疲労は溜まるのだ。
目を覚ましたあとは、すぐにイグニスのあとを追い学園都市に向かい、エアを儀式場に運ぶ手伝いをした。
エアが目を覚まし、友人たちの元に戻っていき、やっとノロイは仕事から解放された。とはいえ、何もしないで過ごすのを好むような性格でもないので、同様に仕事を終えて休んでいるイグニスの書斎を訪れていた。
イグニスは、ノックの音の加減だけで、その向こうにいるのがノロイだと分かった。
「入れ」
ノロイが入ってきても、イグニスは古書に視線を向けたままだ。それは信頼の証であると同時に、彼女に対して無関心だということでもある。
しかし、その関係性に慣れているノロイは、それに悲しんだり、萎縮したりすることはない。それに彼女は今日、ひとつ覚悟を決めてきている。
「先生」
その名前を呼ぶ声は、相手の注意を引きつけるような、細くて、健気な、そういう響きがあった。イグニスも、さすがに本を閉じて、ノロイの方に顔を向ける。
「なんだ」
「ご褒美が欲しいです」
イグニスは鼻で笑った。はじめてこの笑い方をされたときのことを思い出して、ノロイも心の中で自分を笑った。昔は、そのたびに傷ついたりもしたものだ。
困らせている。馬鹿にされている。軽蔑されている。そう思い込んだりして。
でも今のノロイにはわかっている。イグニスは不器用なのだ。嬉しいことがあっても、照れくさいことがあっても鼻で笑う。
「何が欲しい」
「昔のことを教えてほしいです。もちろん、言いたくないことは言わなくて結構ですが」
「何も言いたくはないな」
今までのノロイなら、ここで引き下がっていたことだろう。それで、ひとりで部屋に戻って泣いたりもしていたかもしれない。
しかし今日のノロイは違った。
「私は、ハープさんと戦いました。腹に剣を突き刺されましたし、腕もくっついたとはいえ斬り飛ばされました。そのあと、魔法で麻痺させられて抱きかかえられて、恥もかきました。そのうえ、疲れ果てているのに集団転移を行うように命じられて、それも完璧にこなしました。先ほども、エアさんの治療を手伝いました。私はこれだけ先生のために働きましたが、まだご褒美をもらっていません」
イグニスはため息をついて、ノロイの方につかつかと歩いてくる。変貌の魔法を解いて、その素顔をあらわにして、ノロイと至近距離で目をあわせる。
濃い赤色の力強い瞳。緑白色の豊かな髪と、その透き通るような白い肌。髪と同じ色の細い眉は、整えられていないにも関わらず、品位を感じさせる。唇は薄く、鼻は高く、まるで十代の世間知らずな少女が想像の中で思い描く理想の王子様のような、そういった外見の、若く美しい男性の姿をしたイグニスに、ノロイは唾を飲む。
我に返って、あわてて顔を赤く染めて目をそらすと、イグニスは一切の躊躇をせずに彼女の前髪をかきあげて、その額にキスをした。
「いつも助かっている」
ノロイは言葉を失って、慌てて後ずさった。心臓がうるさかった。
「え、ええ。当然です。先生の弟子ですから」
「少しくらいなら、話してやる。座れ」
「あ、はい」
俺とエアは没落しつつあったカゼット家のふたり姉弟として生まれた。どちらも優れた体内循環魔力量を保持していた上に、知能という点でも申し分なかった。
エリアルは、そのうえ人付き合いも得意だった。どんな人ともすぐ仲良くなるうえに、傲慢なところも意地悪なところも少しもなかった。純粋で、善良で、誰よりも繊細だった。彼女はすぐ泣いたし、すぐ落ち込んだ。そして、そのたびにすぐ立ち直った。誰かが泣いていたら、その人が泣き止むまでずっと一緒になって泣いていたし、誰かが苦しんでいたら、他の人間が引き離そうとするまでずっとそのそばに寄り添おうとする。彼女はそういう人間だった。
彼女と比べれば、俺はあらゆる点で凡庸な人間だった。魔力量も、アイツの方が多かった。学校の成績も、アイツの方がよかった。俺は他の子どもと同じように自分のことばかり考えていたし、自分がどうあるべきかよりも、ただ自分の欲望に任せて動いていた。
そんな俺のことも、エアは愛してくれた。俺が学校であったことを話すたびに、楽しそうに、興味深そうに、詳しいことをたずねてくれた。俺が欲しかった質問も、誉め言葉も、全部彼女は察して与えてくれた。これ以上ないほど、よくできた、愛おしい姉だった。
同時に、そういった愛情が、自分だけでなく、知る限りすべての人間に対して向けられるのが、どうしても許せなかった。寂しかったし、悲しかった。自分は特別な人間ではないことをどうしても感じずにいられなかった。俺は、当時、エアにしか愛されていなかったが、エアはすべての人間から愛されていた。あらゆる点で俺は姉より劣っていて、誰かに比べられることすらないほどに、姉は特別な存在だった。
魔法学園に入ってからもずっとそうだった。姉は、魔法の特別な才能があった。俺にも才能はある方だったが、どれだけ努力しても、毎日ほとんど遊んで暮らしている姉の足元にも及ばなかった。それくらい優れていたんだ。
それだけじゃなかった。十六のころに彼女は概念形装、潔白の白鎧を発現させた。当時、今はなき概念形装研究所の所長がいうには、これが確認されたのはニ百五十年前が最後らしい。精神的特徴は、その名の通り清廉潔白。そして、意志堅固。その人間の想いが強くなれば強くなるほどその鎧は貫けなくなり、さらに、その形状も本人の意志しだいで変えることができ、武器に転用することもできる。
わかりやすく、優れた概念形装だった。彼女は決闘ではほぼ敵なしで、正教授クラスの魔術師を圧倒するほどだったが、誰も彼女に嫉妬することはなかった。俺も、エアに嫉妬することはできなかった。もはや、自分と対等といえるような存在ではなかったからだ。
エアは十八のころ、さらにもうひとつの概念形装、裁断の原理を発現させた。よく知られた、あの裁断の原理だ。剣聖の名で知られるアレクサンドラの大剣であり、古代より、数多もの英雄、王、独裁者が有していた、悪名高い概念形装でもある。
思えば、あれは彼女の覚悟だったのだろう。自らの目的のためなら、あらゆる弱さや、ものごとのほつれを容赦なく断ち切る、人間離れした、裁断の意志。
エアは学園を卒業してから、姿を消した。卒業する前には、彼女は「奇跡」の研究を行っていた。奇跡には複数の定義があるが、彼女が研究していたのは、人間の感情と願いがもたらす魔法的現象、特に、人間を救うことのできる天使についてであった。
俺は、エアとは違う道を歩むことにしていた。もしエアが、魔術師としての成功を望んで、学園で仕事をしていたら、俺は別の仕事を探していたと思う。それほどまでに、俺はエアとともに生きていたくなかった。
彼女を見ていると、俺は苦しくなった。彼女が存在しているだけで、俺は、自分の存在のむなしさや弱さに向き合わなくてはならなかったからだ。
彼女が善良さゆえに傷ついているところを見るたびに、俺も本来ならばそうでなくてはならないような気がした。それでも、俺はそういう人間ではなかったし、そうはなれなかった。だから、俺は彼女とは明確に異なる存在として生きていかなくてはならなかった。
俺は、エアが不老の術式を完成させるとは思えなかった。あの女は、どこまでも有限の命と人生を愛していると思っていた。だからこそ、他者に入れ込めるのだと思っていた。
だから俺は、俺自身は、不老者として、長い時を自分自身のために生きようと決めて、彼女が卒業した年に、不老の術式を完成させた。そして、魔術の研究と、その技術の研鑽に生涯をささげることを誓った。
俺は成功した。同じ道を歩む人間すべてが嫉妬するほどに、俺は成功した。史上最年少で正教授職を手に入れ、授業の評判もよかったし、研究成果も出し続けた。優秀な弟子を多数輩出することもできた。
それから五十年が経ち、エアのことを忘れていたころ、俺の前にあの女が現れた。かつてと同じ姿で。同じ表情で。その、明るく、痛いほど純粋で、善良なその生きざまで。
そして、彼女は言ったのだ。
「ニス君、私を封印して」
「これくらいでいいか、ノロイ」
ノロイは、頷いた。それ以上話すことができないのは、ノロイにもわかった。今の話は、エアが封印されるまでの話であり、封印されることになった理由は何も語られなかった。
イグニスは、不確かなことはできるだけ語らないようにする人間である。それは学者として優れた才能であると同時に、彼の精神の誠実さでもある。おそらく彼が、エアのことをもっと詳細に語らなかったのは、語ることが不都合であるという打算と、そういった彼自身の性格というふたつの理由があった。
非常に個人的で、語るのに勇気のあることを、他でもない自分自身にまっすぐ伝えてくれたことに、ノロイは大きな幸せを感じた。
「先生。私は、先生を愛しています」
「知っている。二百数十年前、俺の助手になって一年が経ったあたりから、ずっとそうなんだろう」
「気づいていたんですね」
「俺は魔術師だ。人の心の機微には敏感だ」
「それならどうして、私を一度遠ざけたんですか」
イグニスは、口をつぐんだ。そのあと、観念したように息を吐いた。
「当時俺は、自分がお前に愛されるほどの存在だと思えなかった。別の言い方をすれば、俺もお前も未熟だった。俺は不老者として色恋沙汰を軽蔑していたし、優れた才能を持っていた一番弟子には、自分以外にも多くの人間のもとで経験を積み、成功を収めてほしかった。ずっと俺の下で仕事を続けることが、お前にとってよいことだとは思えなかったのだ」
ノロイは感動に体を震わせながら、首を横に振った。
「私にとって、先生に頼られることが一番の幸せでした。今もそうです」
「最近になって、それがやっとわかるようになった。三百年生きて、やっとだ。それも、エアを目覚めさせなかったなら、わからなかったことだろう」
「どういうことですか」
「生きることにうんざりして、他者を理解しようという気すら失せていたんだよ、俺は」
ノロイの胸にちくりと痛みが走った。自分がどれだけこの人を愛したとしても、この人の心を癒すことはできなかったのだと、これからも、できはしないのだと、ノロイははっきりとわかってしまったのだ。
そして、厄介なことに、彼を傷付け、苦しめ、その人生を方向づけたその原因たるエアだけが、彼を再び人間の世界に引き戻し、ノロイの幸せでもある、彼自身の幸せをもたらすのだと、ノロイはそういった気づかなくてもいい事情さえ、察知してしまった。
「エアさんは、先生にとってなんですか」
「呪いだ」
「呪い、ですか」
「偶然だな。お前のその名も、それが由来だったな」
ノロイの名は、子供を作ることを望まなかった意地の悪い父親が名付けた、まさに呪いとしか言えないような名だった。それでも、ノロイはずっと、自分の両親のつけてくれた名前を大切にし続けていた。
イグニスは、その話を聞いても、否定も肯定もせずに、当たり前のことを受け入れるように、理解し、受け止めてくれた。ノロイは、そのときのことを今でも鮮明に思い出せる。
「覚えていてくれたんですね」
イグニスは鼻を鳴らして、再び変貌の魔法をかけて、老人の姿に戻る。そして、読書に戻った。
ノロイは、頭を下げてイグニスの研究室を出ていった。まだ彼女には、やるべき仕事が残っている。