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34、精神の魔王ペイション

 パレルモ沖にあるウスティカ島、通称魔法学園都市の儀式場に運び込まれたエアは、イグニスによって祭壇に寝かされていた。

 ここはかつてエアの本体が封印されていた場所で、彼女の体や心を調整するのにもっとも適した場所だった。


 イグニスは、精神にまつわる魔力回路の専門家である。彼は、人体を改造したり、精神の在り方を変貌させる術式を究めていた。彼は、ここでエアの肉体と精神の情報を確かめて、異常をきたしている部分を直すつもりであった。

 しかし施術を行う前に、部屋の隅に人の気配を感じてイグニスは手を止めて、その人物に目を向けた。

 肩にかかる程度のミディアムの長さの白い髪。身長はイグニスより低い。服装は、シンプルな灰色のローブ。いっけん、何の変哲もない普通の白竜人だ。

 しかし、その目に見つめられると、誰もが唾を飲む。その深紅の瞳は、すべてを見通すように透き通っているのに、汲み尽くせないほどの深さを感じさせる。

「皇帝か」

 唯一帝ブラン。世界最大の帝国ヘイルハルトの国家元首にして、希代の大魔術師。

「イグニス。ヴァイスから、一連の報告を受けたよ」

「何か問題があったか?」

「ひとつ、懸念していることがある」

 イグニスは皇帝から目をそらして考える。皇帝が心配するようなことが、何かあっただろうか。

「ペイションか?」

 皇帝はうなずいた。


 精神の魔王、ペイションはまだ目立ったような被害は出していなかった。しかし、その影響力は着実に強まっており、今や中央大陸全土を覆うほどになっている。

 ペイションの能力の本質は、力を吸い取り、分け与えること。もちろん、エクソシアやソフィスエイティアにも、人々や地中から魔力を吸い取る能力はあるものの、異なっているのはその規模と、吸い取った魔力の使い道である。

 エクソシアやソフィスエイティアは、一度にそれほど多くの力を取り込めない上に、その肉体がきわめて複雑かつ高度であるため、吸い取った力のほとんどを自らの肉体の維持に使わざるを得ない。さらに、取り込んだ力を自らの内にとどめておくにも、また別に魔力が必要であるため、際限なく強大な存在になることはできない。

 しかしペイションは異なっている。彼女は、他の存在に力を分け与えることができうえ、その気になれば、新しい生命を生み出すことさえできる。そのため、自分自身と同じ力を持った分体を無限に作り続けることができるうえに、その分体同士は弱い魔力によって繋がっているため、その気になれば大量の魔力を一度に扱うこともできる。

 唯一帝が、他の魔王ではなくこの魔王の成長を恐れた最大の理由は、もしも、ペイションの影響力の増大を留めるすべをイグニスが持っておらず、手が付けられなくなるほどになってから、帝国にペイションが魔の手を伸ばしてくる可能性があったからだ。


「なら、あれが制御下にあることを証してご覧入れよう」

 イグニスは、外で待っていたノロイに声をかけ、エアのことを任せてから、皇帝ブランを連れて、ペイションの居城、境界の廃墟に向かった。道中、軟禁していてセラに声をかけ、連れてきた。

「彼女は?」

 皇帝は尋ねた。

「俺にもわからん。だが、エアの力を分有しているのは確かだ」

「イグニス。私に何をさせたいの?」

「エアのために、ペイションの力を削る」

「ペイション?」

「精神の魔王、ペイション。お前の姉妹のようなものだ」

 セラは、エアのほかに、もうひとり繋がりを感じている相手がいた。その相手が誰なのかはセラにはわからなかったが、彼女から伝わってくる感情のどす黒さと醜さを、セラは拒絶しており、それゆえ、相手の存在が何なのかは知らなかった。

「その子を、どうするの」

「お前は気づいていないだろうが、セラ、お前はペイションから力を奪って生まれた。本来なら、ペイションは、お前と同様のものを持って生まれるはずだったのだ。六枚の翼と、背の瞳、完全な概念形装をもって。予定では、あれが最強の魔王になるはずだった。ペイションを王として、エクソシアを尖兵、ソフィスエイティアを軍師として扱うつもりだった。だが、お前がペイションから王たる力を奪った」

「そんなの、覚えていないよ」

「責めているわけではない。なるべくしてなったのだからな」

「それで、私は何をすればいいの」

「俺がペイションを無力化する。その後お前は、ペイションから、可能な限り力を奪う。エアがエクソシアに触れた時に起こったのと同じことを、お前にもしてもらう」

「それは、エアのためになるの?」

「そうしなくては、この人物がエアを抹殺してしまうかもしれない」

 セラは、唯一帝の瞳を見た。皇帝は、威圧感を出しているわけでもなく、ただ、セラという人間を見つめているだけだった。しかしセラは、本能的に強い恐怖を感じ、従わなければ、イグニスの言うように、エアの命が危ないかもしれないと信じた。


 ペイションの居城は、三百年前に建てられた教会の廃墟であった。そこに訪れた時、セラは懐かしい感情に襲われた。

「私、ここ知ってる」

「当然だ。これは、エアが建てた教会だからな」

 ツタだらけ、ひびだらけになっている荒れ果てた教会に三人が足を踏み入れると、その中央には影のようなおぼろげな女性がたたずんでいた。

 真っ黒な喪服に、地面まで垂らされた、色の抜けたような白くて長い髪。ところどころに黒い髪も混ざっていて、不気味だ。顔はその髪で完全に隠されており、ゆらゆらとゆっくり動いていた。

 あたりをよく見てみると、彼女と同じ存在が、壁や天井に半分埋まった状態で何体も存在している。そのどれも、動きは緩慢で、まとっている魔力も小さかった。

「死にたい」

 小さな声が教会に響いた。

「死にたいよ、イグニス。生きることは苦しい。つらくて悲しい。どうして、人は生きなくてはならないの? どうして?」

「お前は人じゃないぞ、ペイション。ともかく、今日はお前の力を奪いに来た」

「イグニス。その前に教えて。あなたは何のために生きているの? たくさんの人を殺して、奪って、憎んで、憎まれて、それなのにどうしてまだのうのうと生きていられるの?」

 ペイションの言葉に、セラは耳を塞ぐ。皇帝ブランは、微動だにしない。

「俺には目的がある。喜びも幸せもある。生きるのにはそれで十分だ。これでいいか?」

「イグニス。私を見捨てないで」

 イグニスは鼻で笑い、自らの肉体に施された術式を起動した。赤く燃え盛る火の槍が、彼の周囲に数十本出現する。ペイションの分体は、それを見て壁や天井の中に溶けて消えていった。本体だけが、その場に残っている。

「乱暴なことはしないで。私、あなたのためならなんでもするから」

「お前の言葉は空虚だ」

 イグニスは彼の周囲に浮かんでいる槍の先を、すべてペイションに向ける。

「私は、あなたの愛するエアの一側面なのに、どうしてそんなひどいことが……」

「違う!」

 叫んだのは、イグニスではなく、セラだった。

「あなたは、エアじゃない」

 ペイションは、ゆっくりとセラの元に近づいていく。イグニスはそれを止めはしない。

「あなたに、エアの何がわかるの?」

「エアは、あなたみたいに……あなたや、私みたいに、悲しみに絶望したりしない」

「私が、悲しみに絶望してる?」

 ペイションは、かすれた声で笑い始めた。セラはまた耳を塞いだ。笑い終えてから、息をついてペイションは語る。

「絶望なんてしていないわ。私は、悲しみを楽しんでいるの。私は感情の魔王、ペイション。あぁ、死にたい! 死にたいと思うことが、私の幸せなの」

 そう言った瞬間、ペイションの肉体は無数の槍で貫かれた。本来ならば、それでペイションのその体は消滅するはずなのだが、イグニスはそれを許さない。炎の槍は、ペイションの体を貫いたのではなく、魔力の槍の先が彼女の肉体に触れた瞬間、槍の先は溶け、彼女の体を覆ったのだ。

「な、何をしたの?」

 ペイションに痛覚はない。だが、自分の体のひとつがおかしなことになっていることに、大きな不安を感じた。

「セラ。分かるだろう。こいつは危険だ」

「うん」

 セラは、閉じていた目を開き、塞いでいた耳を空け、火に包まれたペイションに近づき、彼女自身の大剣、不完全な裁断の原理を振り上げ、ペイションに振り下ろした。大剣は、ペイションを切り裂くのではなく、彼女とともに溶け合った。

 その瞬間、教会の中に何重もの悲鳴が重なった。さすがの唯一帝も、思わず顔をしかめるほどだった。

 壁や床、天井の中に隠れていたペイションの分体たちが、セラの光に包まれ魔力の塊となった大剣に吸収されていく。何百ものペイションが、断末魔の叫びをあげながら、その存在そのものが、セラに取り込まれてゆく。


 セラは、自分の中に入り込んでくる魔力の中に、自分という存在の正体にまつわる事実がいくつか含まれていることに気づいた。

 自分がかつて、エアとは異なるひとりの人間であったこと。そして、ともに理想を実現しようとしていたこと。

 それに失敗し、その結果として、自分がエアの一部になってしまったこと。エアが、己の存在を否定し、死のうとしたこと。それもできず、自らを封印することを望んだこと。

 セラが、エアを封印しなくてはならないという衝動に襲われていた理由も、結局は、エア自身がかつてそれを強く望んでいた名残なのだ。

 セラは、あまり賢くなくて、いくつもの断片的な記憶を繋がり合わせ、ひとつの説明可能な過去を作り上げることはできなかった。

 最終的に、ペイションから力を奪ったことによって彼女の心に残ったものは、エアに対する愛情と信頼という、それまであったのと同じ感情だけであった。


 教会は静まった。セラは、自分の体が力で満ちていることに気がついた。ペイションすべてを滅したわけではない。彼女の、どす黒い部分、醜い部分、つまるところ、その存在の本質に属する能力まで、セラは取り込んだわけではなかった。そうするつもりではあったが、彼女の精神の清廉さや幼さが、それらは無意識的に拒んでしまったのだ。

 とはいえ、ペイションの力が大きく削がれたことは、目の前でしくしくと泣いている搾りかすのようなペイションを見るに、明らかだった。

「これでいいか、皇帝陛下」

 皇帝はうなずき、表情ひとつ変えないまま、姿を消した。イグニスはセラとともにエアのもとに帰ることにした。



「改めて聞くがセラ。お前は自分が何なのかわかるか」

 セラは、イグニスに尋ねられて、自分の中に新しく生じた記憶を整理する。

「私は多分、もともとはひとりの人間だった。エアのことが大好きで、信じている、ただの、人間だった」

 イグニスは、驚きはしなかった。予想通りだったからだ。

「ではもうひとつ問おう。なぜ、お前なのだ」

「……私が、エアに近かったから」

「精神性がか」

「うん」

「愚鈍で、間抜けで、向こう見ずで、従順で、恥知らずな、お前がか」

 セラは、悪口を言われて泣き出しそうな顔をした。イグニスは、ふっと優しく笑った。

「確かに、今のあいつを見ていると、そうかもしれないと思う」

 イグニスは、一瞬だけ変貌の魔法を解き、素顔を見せる。エアとよく似た薄緑色の髪に、若々しい顔つき。鋭く尖った瞼の先にある瞳には強い意志が宿っている。

「昔の俺には、あいつが考えていることも、感じていることも、なにひとつわからなかった。でも今ならば、わかる。あいつは……何も考えていなかった」

 そう言って、イグニスは楽し気に笑った。心底嬉しそうに、声をあげて。

「そして、その対価を払った。その後、対価の一部を俺に押し付けた。俺は今、それを返してやろうとしている。生の矛盾と、存在の理不尽と、苦痛の普遍性を」

 イグニスの顔から表情が消えると同時に、変貌の魔法で容姿がもとに戻る。

「さて、エアの意識を戻しに行く。セラ。お前にも来てもらう」

「何をすればいいの?」

「お前が考えろ。今ならば、少しは役に立つこともできるだろう」

「うん」


 セラは、エアの寝ている祭壇の前に立ち、その手をエアの胸に置いた。自分がどれだけエアを愛しているか、それだけを伝えようと思った。

 魔力に乗せて、記憶に乗せて。

  セラは意識していなかったが、その中には確かにエアの肉体の情報も含まれていた。

 セラが覚えているエアの体には、確かに左腕が存在していたし、その手で撫でてもらった記憶もあった。強い愛着と、腕を失ってしまっている理不尽な現実に対する、悲しみも。

 エアの失った左肩から先が光に包まれ、新しい腕が形成されていく。イグニスは、その光景を驚きとともに見つめている。

「エア。お前はいつも、いとも簡単に俺の理解の先を行く」

 そうつぶやかずにいられなかった。

 魔術的な理論や技術を用いず、それを軽々飛び越えて、自らの望む現実を顕現させる。それは古い時代の魔法の在り方であり、同時に現代では「奇跡」として、魔法とは区別されて理解される概念であった。

「あれ? あ……」

 エアは、ゆっくりと体を起こし、目を開ける。自分の左腕を見つめて、不思議そうに首を傾げた。仕事は済んだとばかりに、背を向けて立ち去ろうとするセラを、エアは呼び止める。

「セラちゃん!」

 セラは、振り返らず、立ち止まる。

「ありがとうね。私、セラちゃんのこと全然覚えていないけど、でも、大切だったっていうことだけは、わかるんだ。最初に会った時も……セラちゃんが、私のことを想ってくれていることだけは、絶対だってわかってたんだよ」

 セラは、体全体を震わせ、振り向いてエアに抱き着きたい衝動を抑えながら、鼻をすすった。

「私も、わかってるから!」

 そう言って、セラは走って儀式上を飛び出した。

 残ったイグニスが、エアに声をかける。

「どこまで覚えている? いや、どこまで思い出した?」

「えっと……エクソシアに斬られそうになって……」

 思い出すように、エアは右手を握ったり閉じたりした後、概念形装を発現させた。それは腕だけにとどまらず、肩を覆い、頭を除く体全体にまで及んだ。セラから、潔白の重鎧の力のほとんどを、受け取っていたのだ。

「裁断の原理は出せるか」

 自分を切り裂こうとしたエクソシアの大剣をイメージする。それが自分の手から発現していくのを感じたが、それは完全に形になる前に、光に溶けて消えた。

「やはり、エクソシアを倒してからだな」

「イグニスさん? だよね」

 エアはイグニスを見つめた。

「あぁ」

「私は、君の何なの?」

「お前の弟だ。イグニス・カゼット。それが俺の名前だ」

 告げられた真実に、エアは驚きながら不思議な納得を感じた。

「なんだか、想像もしていなかったけれど、しっくりくるな。うん。ニス君。素顔を見せて」

 イグニスは、逆らえない。ニス君という呼び方も、懐かしさに襲われ、感情が動かされた。

「あはは。なんだか、懐かしい気持ちになるな。何にも覚えていないのに」

 イグニスは、すぐに顔を元に戻す。冷静さを取り戻し、平常心でエアに語り掛ける。

「エア。お前と三大魔王の関係は、わかるか?」

「……私は昔、魔王だった?」

「は? どうしてそう思った?」

「るーくん……ザルスシュトラが、そう言ったから」

「あいつ……」

 イグニスは、呆れたように頭を抱えた。

「おそらくセラは、俺が思っていたよりさらに頭が悪く、覚えていることはあっても、そのほとんどが事実に属する事柄じゃなかったのだろうな」

「少し、昔のことを思い出したよ。私は、たくさんの人に愛され、私も人々を愛し、ともによりよい世界を作ろうと考えていたこと。世界は残酷で、悲しくて、苦しいから、それを何とかして正そうとしたこと。なんとなく、セラちゃんが感じていたことのいくらかを、私も思い出した」

「思い出したというより、あいつは自分の感覚をお前に伝えたのだろうな」

「そうかもしれない。それで、私は魔王じゃないの?」

「違う。あの馬鹿から聞いた妄想は今すぐ忘れろ」

「よかった」

 エアは心底ほっとしたようにため息をついた。

「ともかく、お前にはこの先、学校に入ってもらう。カタリナやヴァイスも一緒だ」

「え!」

 エアは祭壇から飛び降りて、イグニスの方に詰め寄る。

「学校!? 本当?」

 イグニスは、その勢いに体ごと引く。昔から、この女は距離感がおかしかった。イグニスは、思わず苦笑いを浮かべる。

「今のお前たちでは、エクソシアを倒せないからな」

 それだけの理由ではなかったが、それを語るつもりは今のところイグニスにはなかった。


 エアは儀式場から飛び出した。友人たちとの再会に期待し、心躍らせながら。

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