30、転移魔法
転移魔法の仕組みは複雑である。それを理解してもらうためには、まず生物の体の構造から説明しなくてはならない。
あらゆる生きとし生きるものには「情報の原型」というものが存在する。それは「コア」や「心臓」とも呼ばれており、それが生物の命の本質である。
手足や頭、五感といった肉体は、基本的にコアの情報を読み取って、それを拡張することによって存在しており、魔力を通じて、常にその情報を交換し続けている。そしてのその情報の交換の媒体を「血液」、その通り道である、太い道の形をした魔力回路を「血管」と呼ぶのである。
さて、これはなかなか奇妙な話ではあるが、この世界には、世界そのもののコアが存在するとされている。それは「根源」や「世の理」「世界機構」などとも呼ばれている
これは誰かの妄想や、仮説ではなく、複数の高位魔術師によって観測されており、学問的にも研究されているもので、これにまつわる分野は「世界機構学」と呼ばれている。
転移魔法の中でもっともよく知られており、今回集団転移を行うためにノロイが組んだ術式は、その「世界機構学」の知見を応用したものである。
世界機構にとって、世界の上に乗っている人やものなどというものは、基本的に世界の体の一部、つまり、コアから引き出された情報の現実化として存在しており、逆に、その現実化した情報の変化は、帰っていく血流にのって、コアに戻っていき、その情報の変化によって、コア自体も変化していく。
人間の体が、コアをもとに作り上げられ、体が傷ついた時、その体が傷ついた情報がコアに伝わって、その状態で安定するのと同じように、世界もまた、世界機構から引き出された情報によって現実が作り出され、現実の変化によって、世界機構もまた変化するのである。
さて、この世界機構型転移術式の仕組みは、端的に言えば、世界機構に対する位置情報の書き換えである。
人間のコアの中には、その爪の先の垢に至るまで、その生体の情報がすべて含まれている。当然世界機構も同じで、世界機構の中には、ひとりひとりの人間の細かい魔力回路の状態まで、事細かに書き込まれている。しかし、爪の先で自分自身のコアに直接触れることができないのと同様に、人間は世界機構に直接触れることはできず、当然直接書き換えることはできない。できることは、自分や、自分の身の回りにある現実の物体が、世界機構に情報を自動的に送る際、その情報を偽造することだけである。
ただし、当然すべての物質は繋がっており、位置関係の矛盾が生じると、世界機構はもっとも矛盾の少ない形に自動的に情報を補完する性質を持つため、世界機構に送る情報の書き換えが中途半端であったり、周囲の物体との関係性を無視して単純な情報を送ったりすると、ひどい結果を引き起こす。
事実、転移魔法の失敗による死亡事故は、高位魔術師の死亡原因のトップ3に入るほどである。
ノロイが行った転移魔法は、万が一にも失敗しないよう、細かな下準備が行われている。部屋全体を転移させるためには、その部屋の転移先が、矛盾なく存在できるようにしなくてはならない。
善悪の彼岸の拠点は、転移がスムーズに行えるよう、部屋のサイズや材質が、できるかぎり統一されており、転移先となるパレルモの拠点にも、転移用の目印がついた、空き地が存在する。
ノロイはまず、部屋の範囲を確定させ、外部との魔力的な繋がりを可能な限り弱くした。その後、部屋の中の魔力回路ができるだけ安定的に循環するよう整えた。
次に、部屋全体の世界機構に送られる微弱な情報性の魔力回路に、フィルターをかける。矛盾ができるだけ生じないように、すべての魔力の位置情報を書き換えなくてはならないため、確定させた部屋の境界すべてに、三重、四重もの、まだ内容の決まっていない、通過した情報を自動的に書き換える術式を書き込んでいく。
それらをすべて同時に制御できるように同期させたあと、矛盾が生じて空間に異常が生じた場合の安全措置として、自分だけでなく、部屋の中にいる眠っているエア以外に保護の術式と、以上を感じた際に転移を疑似的に中止することのできる空間固定の魔導具を持たせ、その使い方を説明する。
他にもこまごまとした作業を、ノロイは半日かけて行った。
すべての下準備を終え、ノロイは最後に、用意した術式にほんの少しの魔力を込めて、起動した。転移魔法は、ただその扱いが繊細なだけで、魔力の消費自体はほとんどないのだ。
転移は一瞬で済む。それが成功しているならば、部屋の中にいるものたちは、言われなければいつ転移したかもわからない。
「ふぅ。転移、終わりました」
ノロイが部屋の扉を開けると、そこには見慣れない廊下があり、その窓の外には、たくさんの建物が立ち並んでおり、その向こうには海が見えた。
「この建物はどこ?」
カタリナが尋ねる。ノロイが答える。
「パレルモにある、善悪の彼岸の拠点です。とても広くて立派な建物なので、宮殿なんて呼ばれることもありますね」
廊下を歩く足音が聞こえて、皆が静まり返る。足音の主が姿を現す。イグニスだ。彼は、一足先にパレルモに到着し、用事を済ませていた。
「ついたか。エアを預かる。ノロイ。お前は少し休んでいろ」
「はい」
イグニスは、エアの寝ているベッドまでなんの躊躇もなく歩いてきて、彼女を抱き上げた。
「ねぇ」
カタリナは、イグニスに声をかける。
「なんだ」
「エアをどうするの」
「治療する。心配しなくていい」
「治るまでの間、私たちはどうしていたらいい」
それに対しては、ザルスシュトラが答えた。
「明日、この宮殿で大きめの宴会を開く予定だから、カタリナもヴァイスも、出席するといい。そのあとのことは、追って伝えるよ」
「わかった」
「もういいか」
「あぁ、うん」
イグニスはエアを抱きかかえたまま、それ以上何も言わず去っていった。