27、ハープ対ノロイ①
カタリナとヴァイスは、自分たちが進んでいる方向に向かっていく魔力の流れに、不自然さを感じていた。何かに引き寄せられているかのようだったのだ。
エアの方は、魔力の流れとは別に、自分の肉体がどこかに強く引き寄せられるような感覚がありつつも、そのことをふたりに話せずにいた。
ザルスシュトラの言っていたことが、エアの頭に何度も浮かんで、彼女を不安にさせていた。
彼女にとっては、これからエクソシアと戦うことよりも、自分がかつて何であったかということの方が重要であった。奇しくも、エクソシア自身が、現在自分が何であるかということや、この先どのようになっていくかということよりも、かつて自分が何であったかということについて強い好奇心を抱いているということと、感情的には、よく似ていた。
「ねぇイスちゃん。エクソシアっていう名前は、誰が決めたの?」
「本人がそう名乗ったと聞きましたが」
「本人?」
「あぁ。三大魔王は、人格を持ってるんですよ。言ってませんでしたっけ」
カタリナの方は驚いてはいない。聞いてはいなくとも、予想はついていた。種族名や、その特徴に即した二つ名ではなく、固有名、それも人名に近い名で呼ばれている時点で、何らかの人格的なものが宿っていることを暗に示しているのだ。
「私は直接見たことないんで、どんななのかすら知りませんけどね」
「ねぇヴァイス」
カタリナはカタリナで、別のことが気になっていた。
「三大魔王の、残り二体、ペイションとソフィスエイティアについての情報は、どうなってるの」
「そもそも大きな被害を出しているのがエクソシアだけなので、残り二体はあまり人々の話題に上がりませんね。まぁそういうのもいるってことくらいしか」
「わからないのは、それだったらなんで三大魔王なんて呼ばれ方をしているかなんだよ。エクソシアが圧倒的に危険なら、その名前だけが広まるはずなのに、なぜかペイションもソフィスエイティアも名前だけならよく知られている。どんな力を持っているのかもわからないのに」
ヴァイスはそれに対する答えを、ザルスシュトラから聞いていた。同じことを、彼女も疑問に思ったことがあり、それを彼に尋ねたのだ。
ただ、それを言っていいのか判断がつかなかったので沈黙を選んだ。
ペイションは、広い範囲に人の感情に作用する魔王で、同時に、土地に溶けた感情性の魔力を自分の元に力として取り込むことができる。その取り込んだ魔力を使って、人々の感情を操ることもできるらしい。
現状、魔物の出現が抑えられているのも、ペイションが力を蓄えていることに原因がある。
ソフィステイアの方は、高い知性を持つきわめて特殊な魔王で、空間を繋いだり切り取ったりすることができる。その肉体は大きなひとつの森として成立しており、人としての姿は、コミュニケーションのために魔力で構築した幻像に過ぎない。
カタリナとエアは、知らず知らずのうちに彼女に一度遭遇しており、ザルスシュトラ自身も、まさかあのタイミングで遭遇するとは思っておらず、かなり焦ったとヴァイスに楽しそうに語ったのであった。
「ねぇ。エクソシア、こっちに向かってきてるよね」
カタリナは、ついにはっきりとそう言った。不自然な魔力の流れが運んでくる予感が、気のせいでは済まないほどに、はっきりと、具体的に感じられるようになっていた。
「そうですね」
エアは、震えていた。恐ろしかったのだ。戦うことがじゃない。死ぬことがでもない。ただ、自分という存在の正体に近づくことに、言いようのない恐怖と、不安感を感じて、逃げ出したくて仕方のない衝動に襲われていた。
一方エクソシアの方も、自分が引きつけられる対象に近づけば近づくほどに、破壊的な衝動と、自分が自分でなくなっていくような、そんな不愉快な感覚にとらわれるようになった。しかし、自らの本質たる力そのものは一向に衰えてはおらず、シラクサを破壊した時よりもさらに強くなったその風の魔力が、彼の周囲の空間をゆがめ、近づくものすべてをなぎ倒していた。
三人のあとを追っていたザルスシュトラとハープの前に、ひとりの青い法衣をまとった女性が立ちふさがった。ハープは彼女を見て、反射的に喜んだが、そのあとに、彼女がここにいる意味を理解して、感情は急激に冷めていった。
「ノロイ。なんでここにいるの」
「余計なことをさせないよう、先生に言われたんです。できれば、穏便に済ませたいのですが」
隣にいるザルスシュトラは、立ち止まるハープを横目に、歩いて、ノロイの横まできて、振り向いた。
「ザルもそっち側ってわけ?」
「いや、悪いが私は、今回は傍観者の側に回る。特に、あの三人とエクソシアが戦うところを見たい。だから先に行かせてもらうよ」
「ザルのことは止めないわけね?」
「えぇ。彼はそもそも、ハープさんと違って、戦う以外のこともできるので」
ハープは、自分が気にしていることを容赦なくえぐってくる友人に、怒りよりも先に困惑を覚えた。
ノロイは、彼岸の中でも帝国出身者ではなく、中央大陸にもともと住んでいた高位魔術師だ。
ハープがザルスシュトラとともに中央大陸にやってきたとき、彼女は彼岸のメンバーとうまく馴染むことができなかった。デブのダフヌは仕事で忙しく、全身義肢のシグは、ヴァイスと一緒にハープをからかってばかりで、自分を対等な人間として扱ってくれなかった。
イグニスはそもそも他人に興味がなく、他のメンバーも、それぞれの目標や役割に集中しており、自らの存在意義を見出せずにいたハープに寄り添おうとするのは、ザルスシュトラだけであった。
そんな時に、彼女に親しく話しかけてくれたのが、イグニスの直弟子であり、当時、中央大陸最大の都市、パレルモの海岸沖にある学園都市ウスティカの、戦闘技術科の教授職を務めてもいた、ノロイであった。
ノロイはハープよりはるかに、戦うこと以外に関しても頭のいい人間であったが、、ハープと同じ悩みを抱えていた。彼女は二百年間ずっと、学園都市に貢献してきた。年寄りの多い学園都市内でも、かなり古参扱いされるようになってきていたが、彼女はここ数十年ずっと、満たされない思いをしてきた。対等な友人はひとりもおらず、唯一信頼できる人物であるイグニスは、どこか無気力で、もはやノロイを必要としたり、かわいがったりすることはなくなっていた。学園でも、かつての生徒たちが向けてくれる人間としての尊敬は、もはやなくなっていた。彼女は魔術師として高位にありすぎて、人として見られることがまずなくなっていたのだ。
尊敬というより崇拝。他者への興味というより、不可解な存在に対する好奇心。彼女に向けられた非人間的感情のすべては、彼女の人間的な欲求、つまり、寂しくて、空しいという感情を、人同士の暖かい繋がりを求める欲求を、ことさら満たされないものにしていった。
ハープにとって、ノロイのそんな事情は知る由もなかった。ただ自分の話を親身になって聞いてくれて、自分の戦闘能力とか、頭の悪さとか、そういったところを全く考えず、ひとりの人間として接してくれたことが、嬉しくて、ノロイに対して強い好意を抱くことになったのだった。
だからこそ、彼岸の中で唯一、友達と言えそうだった人物が自分に杖を向けて、それどころか、こちらの感情を逆なでするようなことを言って挑発してきたという事実に、ハープは驚き、困惑し、悲しくなり、三人を追おうという気持ちすらしぼんでしまうほどだった。
そんなハープの様子を見て、ノロイは心の底から申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、それでもイグニスのことを思うと、そうしなくてはならないのだと心の底から確信できた。今や、長年勤めた学園都市の教授職も辞し、イグニスの右腕として生きる彼女は、これまでの人生でもっとも満たされた日々を過ごしていた。
自らが心の底から敬愛する人から信頼され、命じられ、褒められる、そんな日常が得られたのは、まだ不老の術式すら完成していなかった、十代の、学生の時の以来であった。
「ハープさん。私は、先生を愛しているんです。だから、あなたを行かせるわけにはいかない」
ノロイは、全く引く気がなかった。戦いになっても構わないと思っていた。それどころか、むしろ、戦いになって、ハープを徹底的に打ちのめし、捕らえ、万が一にもエクソシアとの戦闘に参加させないようにすることの方が、話し合いで解決するよりも確実であり、イグニスも安心するのではないかと思っていた。
ザルスシュトラはもう先に行ってしまい、その姿は見えなくなった。
ハープは悩んでいた。ノロイが、イグニスを敬愛していることはよく知っていた。ノロイはのんびりと、穏やかな表情で話す心優しい人物であったが、イグニスのことを語るときは、それがさらにわかりやすくなる。嬉しそうで、幸せそうで、楽しそうで。
ハープは、それでも自分の翼を服の中に一瞬だけ滑り込ませ、素早く武装する。翼の先に、計十二本の直剣が取り付けられる。
「多分ね、ノロイ。もしあなたが私に負けても、あなたの先生はあなたを嫌いになったり、見捨てたりしないと思うわ」
「えぇ。もちろんです。私が全力を尽くすことを、先生はみじんも疑われないことでしょう。もし私が負けたのならば、それは仕方のないことであったと、納得してくださるでしょう」
「うん。だから、私は全力をもってあなたを負かし、そのあとは、私のやりたいようにやるわ。あなたがそうしているのと同じように」
「それでこそ、彼岸の一員でしょう」
ハープは首を振った。
「ザルの、馬鹿げた思想も、グループも、どうでもいいわ。ただ私は、ザルと一緒に三人を追う。それで、戦いを見届ける。もし、彼女らが危ないなら、私が助ける。そうしたいと思ったのだから、そうするの」
ノロイは、頷いた。こうなることはわかっていたのだ。
ハープはなぜここまで強い人間になれたのか。
才能はあっても、それほど頭は回らず、感情的には未熟で、すぐ誰かに寄りかかり、甘えようとする。いっけん彼女は、典型的な弱い人間のように見える。でもそれは全部、表面的な部分に過ぎない。
ハープの心の奥底にある本質は、徹底的で、どこまでもまっすぐな、彼女自身の意志である。
自分がそうしたいと思ったことを追求し、そのためならどんな苦しみも、悲しみも、痛みも、一切考慮しないほどの、徹底した自己制御能力を、彼女は有していた。
彼女の感情的な不安定さや、未熟な論理性は、むしろそうした強固すぎる自己制御能力の裏返しに過ぎない。その確固とした意志が、決して感情や論理的な誤りによって動かされないからこそ、感情や論理性を鍛える必要が全くなかったから、そのような人間のまま数百年の時を過ごすことになったのだ。
「ハープさん。あなたはまさに英雄ですね」
「そうよ。私は鳥人属の英雄、ハープ。為すべきことを為す。それだけだわ」
似ているようで全く似ていない、ふたりの、戦いを究めた者同士の決闘が、魔王との大きな戦いの前哨戦として、始まった。
「イグニス。ハープとノロイが戦い始めたみたいだけど、君はどちらが勝つと思う?」
「ハープだ。ノロイでは、足止めが精いっぱいだろう」
「かわいい直弟子を、負けるのがわかってて送り出したというわけか」
「お前が戦ってくれればそれで済んだ話だったんだがな」
「私が戦っても彼女には勝てないよ」
「お前が立ちふさがれば、ハープも諦めるだろう」
ザルスシュトラは肩をすくめた。
「君はあの子のことを誤解しているな。あの子は、一度決めたことなら、たとえ世界のすべてを敵に回しても、一切の迷いもなく、為すべきことを為す。もしその必要があるなら、平気で私の息の根だって、止められるだろうね」
イグニスは、ザルスシュトラをじっと見つめている。外見上の目は、空いているのか空いていないのかわからないようなものだが、ザルスシュトラは彼の素顔を知っている。美しく、見るものを魅了する強い目だ。
「ザルスシュトラ。お前はただ見ているだけでいい。もしハープがここまでやってきても、余計なことはするな」
「わかったよ。ただ、ひとつ約束してくれ。彼女を殺さないと」
「お前の話が本当なら、殺す以外の方法で彼女を止めるのは難しそうだが、善処しよう」
「イグニス。もし君が、ハープを殺しそうだったなら、私は君の敵に回る。いいな?」
「お前がいつ裏切っても驚きはしないさ」