26、決戦前日
少年の姿をした力の魔王エクソシアは、力を隠してカッティの街に潜んでいた。エクソシアは、自らの存在が一体何であるのか知らなかったが、そのことに悩んだりはしなかった。
己の中に確かに感じられる力の衝動と、破壊の喜びに身を任せること。それがエクソシアのすべてであり、役割であると感じられていた。
「しかし……俺はかつて、何かに縛られていた」
エクソシアは平均的な人間と同程度の知性を有していた。人間社会の知識もなぜか一通り理解していたし、人間というものの標準的な生き方がどういうものなのかも知っていた。
エクソシアにとって、自らが何者であるかということはどうでもよかった。それは、彼自身にとって自明であったからだ。しかし、自らの身に、かつて何があったかということに関しては、知りたいという欲求を持たずにいられなかった。
エクソシアは、意識を獲得してしばらくは、近くにあるできるだけ大きな町に向かい、破壊の限りを尽くした。しかし、しばらくして何人かの強力な力を持つ人間に襲われ、逃げるようにシラクサの都市に追いやられ、そこで激しい戦闘を行い、かなりの力を消耗してしまった。
彼は現在、ほとんど力を取り戻しつつあるが、それでもまだ人間のふりをして生活をしている。
「エクソシア」
「ソフィスエイティアか」
彼が止まっている宿に、来客があった。彼には、ふたりだけ知り合いがいた。ペイションと、ソフィスエイティア。三人を合わせて、三大魔王と人々は呼んでいる。彼ら自身も、それを理解している。
「あなたを倒そうとしている三人組がいる」
「例の奴らか」
「ううん。もっと弱い人たち」
エクソシアは眉をひそめた。そういった人間らしい仕草は、本人にとってもきわめて自然なものだった。
魔物や、それに準ずる存在は、そう言った感情の表現は基本的に行わないはずだが。
「弱くて、優しい人たち」
エクソシアには、ずっと何かに引っ張られているような感覚があった。それが、自分を縛り付けるような何かであることをエクソシアは本能的に感じ取り、それから離れるように移動していた。
しかしここ最近は、それがどんどん自分の方に近づいているのを感じていた。
「逃げるのも、限界かもしれないな」
「ねぇエクソシア。私たちって、いったい何なんだろうね?」
「どうでもいい」
「人間なのかな。それとも魔物なのかな」
エクソシアの右手から、背丈ほどの大剣が出現する。彼の魔力によって顕現している、概念形装。あらゆるもつれをその力によって断ち切り、概念の在り方を無理やり定義する、ある意味最も名の知られた概念形装である、裁断の原理。魔王エクソシアは、それを所持していた。
「どちらでもない。俺は俺だ」
迷いを断ち切るように、エクソシアはその大剣を片手で横なぎにする。ソフィステイアの体が上と下に両断されるが、瞬時にもとの体に戻る。しかし、建物の方は無事では済まない。がらがらと音を立てて崩れ始める。
「君にとって、大事なことは何?」
「自由であることだ。すなわち、俺が俺自身であることだ」
「もし君が……他の誰かの分身でしかないとしても?」
「そうであったとしても、だ」
エクソシアは、自らを支配しようとする力から逃げるのではなく、立ち向かうことに決めた。勝てるかどうかではない。勝たなくてはならないのだ。そうでなくては、己は己でいられなくなる。
存在を賭けた戦いに、エクソシアは自ら勇んで望んでいく。
イグニスは、監視対象が破壊された宿から飛び出し、エアたちの方に向かうのを見て、にこりとも笑わず、弟子にその旨を伝えた。
「ノロイ。エクソシアがエアのもとに向かった。連中に、準備をするよう伝えてくれ」
「はい、先生。しかし、おそらく彼女たちはこのままでは、エクソシアには勝てませんが、よろしいのですか」
「構わない。私もエクソシアの後を追う。お前はハープが余計なことをしないように監視を続けろ。もし彼女が乱入するようなら、その前に全力をもって止めろ。もし厳しいなら、俺が直接手を下す」
「任せてください。あの子には負けませんよ」
「もちろんだ。頼んだぞ」
ハープはひとりリカタの別荘で海を眺めていた。エアとカタリナと、それぞれふたりきりで一晩を過ごして、新しく友達ができることの喜びを久々に感じ、同時に、彼らと別れることの寂しさもまた、深くかみしめていた。
「やぁハープ」
聞き覚えのある声が後ろから聞こえてきて、ハープは驚いて振り返る。
「ザル!」
「ごめんね、しばらく会えてなくて」
ハープは、ザルスシュトラの方に駆け寄って、そのふわふわの翼で彼の両のほほをぺちぺちと叩いた。
「別に会いたくなんてなかったし! でも、頼みごとをしておいて、放っておくのはおかしいと思うわ!」
「私もいろいろ忙しかったんだ。畑を耕したり、かわいい女の子たちとおしゃべりしたり」
「それはどうでもいいけど、でもなんでここに? エアたちのこと? 言われたとおりにやったわよ?」
ハープは少し不安になった。別に、やってはいけないと言われたことはやらなかったし、頼まれていた、ここに二日以上彼らを留めるというミッションも問題なくこなした。
「あぁ。もちろん。ただイグニスに釘を刺されてね。ハープが余計なことをしないようにって」
「どういう意味?」
「あの三人と一緒に、エクソシアを倒しに行かれると、彼は困るようだ」
ハープは、目を泳がせたあと、怒りをあらわにした。
「イグニスは何を考えてるの! あの三人じゃ、エクソシアには勝てないわ。それに、カタリナとヴァイスはダメだと判断したらすぐ逃げられるかもしれないけど、飛行の魔法も使えないエアは、逃げられずに殺されちゃうかもしれない」
「でも、イグニスはそのエアにエクソシアを倒させたいらしい。そして、そのための準備はもう十分に整っているとのことだった」
「なんでそんなことする必要があるの?」
「さぁね。そこまでは私もよくわからないんだ」
「ザルは、イグニスを信じているの?」
「信じる? 信じてはいないよ。ただ、彼の計画が面白そうだから、乗っかって遊んでいるだけだよ」
「それで、友達が傷ついても?」
「ハープ。私たちは、互いに傷つけあわずにはいられない生き物なんだ。君だって、帝国の人々や、君の兄弟が、君を傷つけたくて傷つけたわけじゃないのは、よくわかってるだろう?」
ハープは、目をそらして、日が落ちつつある海の方に目を向けた。はるか海の向こう、帝国のことを思い返して、首を横に振った。ハープは、静かに涙をこぼした。
「でもね、ハープ。私は別に、イグニスに従いたいと思っているわけではないんだ。私も私で、やりたいようにやるし、君にも、君のやりたいようにやってほしいと思ってる。君がもし、彼らと一緒に過ごしたいというのなら、私は君に協力してもいいと思っている」
「そうやって私の機嫌をとるのも、イグニスに頼まれてるんでしょ?」
「それは違うよ、ハープ。正直なことを言えば、私は焦っているイグニスを見てみたい。彼はいつも冷静で、感情を言葉にはしない。だから、ここまで彼に対してこれ以上ないほど好意的に接し、率先して協力してきた私が、いきなり何の利益も生じないタイミングで裏切ったらどんな顔をするのか、気になって仕方がないんだよ」
ザルスシュトラは、いたずらっぽく笑った。その表情は極めて子供っぽく、まったく邪悪さを感じさせるものではなかった。
「だから、私としては、できればハープがイグニスの邪魔をしてほしいと思っている」
「なら、ザルが自分でやればいいじゃない」
「私はまだ、自分の手の内を、イグニスにも、エアたちにも知られたくない」
「ほんとザルって、子供っぽくて、わがままで、自分勝手で、性格悪いわよね」
「お褒めいただき光栄でございます。姫様。まぁそういうわけで、君には君の好きなようにしてほしいと思う。私は忙しいから、もう行かなくちゃいけないんだけどね」
「じゃあ私は、ザルについていくわ」
「それは困るな……いや、それでもかまわないか。うん。じゃあついてきたまえ」
ザルスシュトラとハープは、半日遅れでエアたちのあとを追い始めた。