24、友達になれたかもしれなかったのに
局地的な出来事と言えども、その場所で暮らす人々にとっては、世界全体を巻き込んだ事件より、そちらの方がずっと重要で、考えるに値する問題である。
例えば彼、カインにとって、三体もの魔王がこの大陸にあらわれ暴れまわっているということなんてどうでもいいことで、彼は彼自身の人生にまつわる大きな問題に対して、考える必要に迫られていた。
ジェーラの街は農業が盛んで、城壁こそないものの、穏やかで、魔物の少ないよい土地だった。人の行き来も多く、商業や手工業も、並み以上に発展していた。人々はみな親切で、特に旅人をよく歓迎した。毎年祭りを開き、近隣の街からたくさんの人が集まるような、小さいながらもよい街だった。
そんな平穏が終わったのは、五年前、善悪の彼岸と名乗る者たちが街にやってきてからだった。
「善悪のない世界。力がすべてを支配する世界。それがもっとも正しい世界だ」
ザルスシュトラと名乗る、禿げ頭の大男が、数十人の手下を連れてやってきたとき、街の人々は戦うことを選択した。カインは当時まだ子供で、二人の姉とともに家の中に隠れていた。
戦いは、あっけなく終わった。ザルスシュトラたちは、優れた武具を持っており、魔法使いの手下もいて、まったく勝負にならなかった。街を占領したザルスシュトラは、人々の財産こそ奪わなかったものの、多くの若い人々を鎖につなぎ、去っていった。それから、数か月ごとに彼らはやってきて、人を連れ去っていった。
カインは、生き残るために彼らと協力することを選んだ。歯向かった者たちは、殺されてしまうことこそ少ないものの、厳しい拷問を受けて、心と体を壊されてしまうものは多かった。カインは腹が減っていたし、平和な生活が欲しかった。ただそれだけだったから、街の情報をザルスシュトラに伝え、ザルスシュトラが語ることを人々に伝える、連絡係を任されていた。
誰もカインのことは恨んではいなかった。だが、結局皆のために何もできない自分が、皆の平穏を奪った者たちに協力しているという現実は、素直な青年の心をゆっくりと確実にむしばんでいた。彼はもともとは明るい性格だったが、今や、よく眠れていないのか、目のくまがいつもできており、しゃべりかたも、どこか卑屈なものに変わっていた。
ひとりきりで、街のはずれまでぼんやりと歩いて、死について考えることが多くなっていた。
彼は、ザルスシュトラとその一行を恨んではいなかった。彼らもただ、生き残るために金を稼いでいることに変わりはない。ただその過程で、誰かを不幸にしてしまっているだけのことなのだ。そしてそれは、おそらくそれに協力しているカイン自身にとっても変わらないことなのだ。
「ならず者が支配している街、か。どこにでもあるね、こういうのは」
カタリナは、街に入ってすぐ、自分たちを気の毒そうな目で見る街の人々を、うんざりした面持ちで一瞥した。
「どういうこと?」
「強盗、殺人、人さらい、そういうのが横行してる街の空気だよ、これは」
「危なくないの?」
「気を付けた方がいいね。特にエア、ここではいつものバカみたいな善良さはできるだけ理性で抑えて」
「はいはい。わかってるわかってる」
呑気な会話を続けている三人の旅人が街に入るのを、カインはちょうど見つけて、そのことを街に滞在しているザルスシュトラにすぐ報告しに行った。
禿げ頭の大男は、その立派な顎髭をなでながら、報告を聞いて、下品な笑みを浮かべてうなずく。しかし、その中に白い髪の背の高い女がいたという話を聞いて、顔色を変えた。
「俺が直接出向く。もしそれが本当なら……厄介なことになったな」
三人は街の人々に話を聞こうとしたが、誰も捕まらなかった。町を行く人は忙しそうに頭を下げるばかりで、家の中からこちらを覗く人たちも、目が合うと途端に窓を閉じた。
街の中心部にある広場に三人が顔を出すと、そこには明らかに戦闘員と思われる格好の男たちが十人ほど集まっていた。その中心には、禿げ頭の大男。
「おい。お前らは何者だ?」
低く、どすの聞いた声で尋ねる。三人は顔を見合わせて、誰が答えるか示し合わせるが、何らかのはっきりとした同意が形成される前に、エアが手を挙げて口を開く。
「エリアル・カゼット。記憶喪失の女の子です!」
部下のひとりがぷぷっと笑ったが、隣の男に小突かれて咳払いする。
「そこの白い髪の女は」
ヴァイスは、めんどくさそうに頭を揺らして、冷たい声で答える。
「どこにでもいる白竜人ですよ」
「どこにでもいるようなもんじゃねぇだろ」
実際、帝国以外の地域では竜人種の数はそれほど多くない上に、ほとんど色が抜けている白竜人はさらに少ない。
「そっちこそ、なんなんですか? つまらないギャングとお見受けしましたが」
「俺らは善悪の彼岸の下部組織だ。俺はザルスシュトラと名乗っている」
「ん?」
ヴァイスの表情が一気に険しくなった。
「その名前は、聞いたことがありますね」
「そうか。よく知っているな」
「偽名ですよね?」
男は、眉をひそめる。
「だったらどうした?」
「どうしてその名前を選んだんですか?」
「雇い主に、そう名乗っていいと言われたんだ」
ヴァイスは、ザルスシュトラ本人が、彼を雇ったとは思えなかったが、だが、その男が嘘をついているようにも見えなかった。
「どういう依頼だったか聞いてもいいですか」
男は、答えるつもりはなかった。
「俺はお前たちにとっとと何もせずに街を出ていってほしい。ことを荒げるつもりはない」
「何も聞かされていないんですか?」
「通してやれ、とだけ」
その言葉からは、嘘のにおいがした。カタリナも、それをかぎ取った。
「通してやれも何も、止めようとして止められる戦力じゃないでしょ」
カタリナは、右手をもうすでに氷の結晶で覆い、いつでも戦闘に入れる状態に移行している。
「勘弁してくれ。戦うつもりはない。俺らはあくまで、シラクサまで労働者の移送を頼まれているだけだ」
「労働者の移送?」
「そうだ。彼岸の連中は、シラクサを素早く復興させ、大都市として繁栄させるつもりだ。俺たちはこの街の健康な若者や、不注意な旅人を捕まえて……」
エアの表情が険しくなっているのにカタリナは気づいた。
「エア? 大丈夫?」
「大丈夫。おじさん。それも、ザルスシュトラに命じられたの?」
「……他にどんな方法がある? 俺たちのような人間に、人を集めろと命令することが、どういう意味を持つかわからないほど、やつは愚かな人間ではないだろう」
カタリナは、立ち位置を決めかねていた。
実のところ、こういった事柄はギルドもおこなっていた。新しい都市を起こす際に、近隣から人を集めるために、その土地の人々を強制的に移動させたり、また逆に、強制的に都市から人を農村や小さい街に戻すようなことは、少なくなかった。
ギルドと違う点は、そういった仕事を行う人間が、人々の安全をどの程度保障し、自らの欲望をどれくらいコントロールできるかということだった。誰かが犠牲にならなくちゃいけないのは、この世界の道理であり、自分たちに協力してくれているザルスシュトラもまた、それを理解したうえで、このようなことをおこなったとしても、何もおかしなことはない。
ただ、これを見逃すのが、英雄らしい行いか、ということがカタリナにとって問題だった。昔、死んだ父親が語ってくれた英雄譚に出てくる者たちなら、この状況をほうってはおかなかったことだろう。弱気を助け、強きをくじく。隣のエアのように、深く傷つき、怒り、力によって解決しようとするだろう。
しかしカタリナは知っている。彼らを殺したところで、また別の人間が雇われるうえに、その雇い主は、自分たちによくしてくれている人だ。
「ヴァイス。どう思う」
「まぁ、あまり気分の良くない話ですし、私としてはさっさと通り過ぎて早いうちに忘れてしまいたいですね」
その軽すぎる言葉は、カタリナにはあまり気分の悪いものとしては聞こえなかった。それもまたひとつの考えであり、そうであっても構わないと感じた。
エアの方は、こぶしを握り締め、地面をただ睨んでいる。もし彼女がここで、ここにいる人々と戦うことを選んだのなら、自分はどちら側につくべきか、カタリナは一瞬だけ悩んだが、答えは初めから決まっているような気がした。
結局のところ、何が正しいかなんてどうでもいい。自分はどういう人間でありたいか。純粋な友達が、その純粋さゆえに苦しんでいるなら、たとえ彼女が間違っていても、そちら側につくのが、自らの志す英雄の道なのではないか。
「エア。どうしたい」
エアは首を横に振った。何も言わず、男たちに目もくれず、まっすぐに歩いて、広場を突っ切った。カタリナもヴァイスも、エアにならって、無言で通り過ぎた。
街を出るとき、後ろから声をかけられて、三人は立ち止まった。エアは振り返らず、カタリナとヴァイスは振り返った。ひとりの青年がそこに立っていた。
「あんたらは、結局何者なんだ」
カインは、やり取りの一部始終を見て、あの男とは別に、ザルスシュトラという者がいることを知った。
「お前たちは何をやっているんだ」
「君は?」
「お前たちが来たことをあいつに告げ口した人間だ。それが俺の役目だから」
「あぁ。使い走りね。ご苦労様」
カタリナは、興味なさげだが、ヴァイスの方は丁寧に対応する。
「私たちは、魔王を倒すことを目的に旅しています。本物のザルスシュトラさんとも、協力関係にあります。だから、彼らも手を出せなかったというわけですね」
「シラクサに労働者を送るのは、何のためなんだ」
「そのまんまだと思いますよ。そこに大きな都市を築いて、中央大陸西側における影響力を強めたいんじゃないですかね? 戦略的なことはよくわかりませんけど」
「どうしてこんな強引な方法をとる必要がある」
「誰が好き好んで、つい最近魔王が破壊したような街に働きに来るんですかね?」
「なんでこの街なんだ」
「私の考えが間違っていないなら、この街は人の往来が多い割に街の規模が小さく、近隣の他の都市の影響もほとんど受けておらず、独立しています。ここでなら、問題のある行動をとっても、対外関係に亀裂がはいりづらい。ザルスシュトラさんは、けっこう計算高いところがありますからね。そういうことを平気でやります」
カインは、泣き出しそうな声で、吐き捨てるように言った。
「じゃあ、俺はどうすればよかったんだ」
「知りませんよ、そんなの」
ヴァイスの声は冷たかった。善悪の彼岸の一員らしく、一切の同情を感じさせなかった。カタリナの方も、こういった悲しい現実を見つめるのには慣れており、わざわざ青年の感情に同調する意味が見当たらなかった。
「助けて、くれよ」
家族全員と離れ離れになって、生きるために憎い敵にも媚びを売って、悪事に手を染める。そういう生活に、彼の心はもう限界が来ていた。そんな彼に、エアは、振り返らずつぶやいた。
「ごめんね」
「ねぇエア。多分、たとえ連中をザルスシュトラが雇わなくても、連中は近隣の街を襲って暴虐の限りを尽くしてたと思うよ。あぁいうのって、そういう生き物だから」
「わかってる」
「力や金のある人たちに雇われてるあいだは、そこまでひどいことしませんしね。まぁ、ありきたりな賊なら、ちゃちゃっとやっつけて気分よく旅を続けられるかもしれませんが、そこで暮らしてる人たちにとってはどっちがいいかって話ですね。悪い奴は次から次へとわいてくるわけですし」
「まぁ、悪いやつっていうか、彼らも生きるため仕方なくって感じだと思うけどね」
「ですね。だからエアさん、そんなに悩まなくっても……」
「でも、何かできることがあったと思う」
エアは、どうやったらあの青年の心を慰めることができただろうかとずっと考えていた。
街をすぐ去った理由は、自分たちがあの場にとどまっても、誰の益にもならなかったからだったが、本当はもっとゆっくり考えて、何か行動を起こした方がよかったのではないかと思っていた。
今後、旅を続けていく中で似たような状況に出会わないとも限らない。エアはただ、何が正しくて、何が間違っているのか自分の中で整理をつけようとしていた。
人間は、いや生物というものは、本質的に自分勝手なものであるし、それでいい。自分が生きるために、何かを殺すのは、動物の肉を好んで食べるエアにとって、当たり前のことであるし、それ自体が悪であるわけではない。でも暴力をもって誰かの穏やかな生活を壊し、その上に何か必要でないものを打ち立てていくことが、正しいこととはどうしても思えなかった。
「でも、人を助けることは善いことだよね」
エアは、ふたりにそう尋ねる。
「そうなんじゃない」
「ですね」
「でも、人間はいつも善いことができるわけじゃないし、それでもいいでしょ。無理なものは無理。諦めるのも大事だよ、エア」
カタリナは、エアのその極端な子供っぽい善良さを、馬鹿にしてはいなかった。自分にもかつてそういった心があったことを思い出して懐かしい気持ちにはなる。そういった豊かで繊細な心は、決して否定すべきものには思えなかった。
ただ同時に、エアが意味のないことでずっと苦しんでいるのを隣で見ているのもつらかった。だから、当たり前のことのように、カタリナはエアを諭し、励ますのだ。
「リナちゃん。私は思うんだ。自分がただ納得するための理屈に、いったい何の意味があるんだろうって。確かに、善い行いは、運がよくないとできない。生きていたら、諦めなくちゃいけないことも確かにある。でもそんな、わざわざ言わなくてもいいくらい当たり前のことを言い訳みたいにして言うのは、違うと思う。それはただ、悩むこと、考えることから逃げているだけだと思う」
カタリナは、エアの頑固さに思わず肩をすくめた。何を言っても無駄だと思ったわけではなく、何を言っても自分の言葉が、他でもない自分自身に対して空しく響くのを察したからだった。
「あの。なんでエアさんはそこまで他人に対して関心を抱くんですか? 私なんかからすると、自分や、自分と親しい人に関係すること以外は全部どうでもいいことのように思えてしまうんですが」
「ヴァイス。それは寂しいよ」
ずっとちゃん付けされていたのに、その時初めて呼び捨てされて、ヴァイスは心が一瞬ぐらつくのを感じた。自分の方が間違っているような気がしてしまったのだ。
「寂しい、ですか。寂しい人間に見えますか? 私は」
エアは首を振った。
「ううん。ただ、もしヴァイスが、私と赤の他人だったとして、互いにどうでもいいって思い合ってるとしたら、それはとても寂しいなって」
「うん? エアさん。でも私たちは一応旅の仲間で、どうでもいいなんて、思いたくても思えませんよ?」
「でもそれはたまたま、運が良かったからそうなっただけだと思う。この先のことはわからないし、本当は親しくなれたのに、運が悪かったからそうならなかった人をどうでもいいって放っておくのは、寂しいよ。やっぱり」
エアはぽろぽろと涙をこぼして訴える。
「助けを求めてくれたあの彼とも、友達になれたかもしれないのに」
カタリナとヴァイスはエアを挟んで一瞬目があって、互いに苦笑いした。自分たちは、そういった純粋な感傷に浸れるほど、きれいな心を持っていない。どこか冷めていて、現実を知っている。
しかしふたりはエアを否定して自分を正当化できるほど、冷え切った人間でもなかった。エアの言っていることの正当性と、その涙の美しさというものは、確かに否定しがたいものだった。