16、不良眷属ヴァイス
ヴァイスは中央大陸に派遣されている皇帝ブランの眷属の中で、おそらく唯一髪を染めていない眷属だ。
見事なまでの白髪は、後ろで縛られており、歩くたびにふさふさと揺れて、見るものを和ませる。身長は女性にしてはかなり高く、顔つきも凛々しくて、すれ違ったなら、男女問わずつい振り返ってしまいたくなるような人物だった。
そんな彼女とすれ違っても、全く気にも留めない人物がひとり。それどころか、ヴァイスの方がぎょっとして振り返った。
「セラさん?」
彼女の髪は、セラのそれと違ってほとんど印象に残らない灰色だ。だが、それが目立たない本当の理由は、その背中に生えている六枚の翼にある。
ただ、それを見てヴァイスは驚いたわけではない。彼女が泣いていたことに、驚いたのだ。
「あの、何かあったんですか?」
女性にしては低い、よく通る美しい声が回廊に響き渡る。
ここは大都市パレルモの中にある、善悪の彼岸の拠点。建物の名前はついていないものの、彼岸が建てたものの中でもっとも大きく、豪華で、よく整備もされているため、宮殿と呼ばれることが多い。
「別に」
セラは振り返らずに、そう答えた。
「ヴァイス。そいつにかまうな」
後ろから若い男の声が響いた。活力に満ちており、威圧的で、それでいて妙に落ちついている。
「イグニスさん。何があったんですか?」
「大したことじゃない」
「そもそも、最近みんな動きがおかしいですよ。何を企んでるんですか?」
「知ってるくせに聞くのか」
「勘違いかもしれないじゃないですか」
「皇帝が勘違いするのか?」
「いや、それはありえませんけど」
皇帝、という言葉にヴァイスは強い反応を示す。ヴァイスは、西の大帝国の皇帝、唯一帝ブランの血を分けた眷属であり、善悪の彼岸と帝国との連絡役でもあった。
「だったら聞くだけ無意味だろう。そこのセラがやったことも、すぐにお前に報告が来るだろうしな」
「んー。いや、イグニスさん。中央大陸での私たちの情報網、そんなに細かくないですよ? あ、あ、でも今連絡来ました」
ヴァイスはこめかみの部分に耳を当てる。何も言わず、じっと情報を取り込んでいる。数十秒で、うん、とうなずく。
「えっと、エアさんをセラさんが強襲して、返り打ちにあって、イグニスさんが助けに入ったわけですね?」
「そうだ。何も問題はない」
「まぁ確かにそうですけど」
「あと、お前にふたつ伝えておかないといけないことがある。いいことがひとつ、悪いことがひとつ」
「なんですか」
「いいことの方は、近々パレルモにザルスシュトラとその他何人かが帰ってきて、彼岸のメンバーの八割程度がここに揃うことだ」
「それはめでたいですね。悪い方は?」
「おそらく、お前らのうちのひとりを、人柱にしなくてはならない」
「どういう意味ですか?」
「皇帝の眷属のひとりを、エアの旅に同行させる」
「え!」
ヴァイスは、悪い知らせのはずなのに口を開けて表情柔らかに、明るい声を出した。
「えと、それってつまり、彼女たちの監視ってことですか?」
「その役割もあるが、魔王の討伐に協力をしてもらう。今のままじゃ戦力が足りない」
「でも、私たち眷属がひとり増えたくらいじゃ変わらなくないですか?」
「俺とザルスシュトラと皇帝の三人で決めたことだ」
「ほー。何かお考えがあるってことなんでしょうね」
「誰を行かせるかは、お前が決めろ。皇帝もそれでいいと言った」
「追って直接連絡があるでしょうし、その時に決めますよ。まぁ、教えてくれてありがとうございます。心の準備は大切ですしね」
ヴァイスは、自分が行くしかないことをわかっていた。
そもそも他の眷属たちと、ヴァイスとの関係はあまり良好ではない。というのも、ヴァイスは心の底から善悪の彼岸の面々に好意を抱いており、皇帝に何度も、彼らへの対処を遅らせるよう進言していた。
皇帝を崇拝している他の眷属からすれば、何の躊躇もなく自分の生みの親に対してものを申し、それだけでなく、帝国と敵対する勢力の内側で隠れもせずに活動するヴァイスは理解できない存在であると同時に、目の上のたんこぶであった。
「皇帝陛下はきっと、私の気持ちを分かったうえでそう判断してくださったんでしょうね」
ヴァイスはほほを緩ませながら、独り言を言った。
彼女は、眷属として、帝国を守るという役割を課されて生まれてきたが、自由を愛していた。皇帝は、そんなヴァイスに、できるかぎり自由に働ける場を与えた。そのうえ、ヴァイスがずっと気になっていた、例の計画の中心部分に参加させてもらえる。その計画の全貌は、今のヴァイス自身にはまったくわからなかったが、それでもきっと楽しくなるだろうと考えていた。
宮殿の中にあるヴァイスの自室には、ふたりの女性が向かい合って座っている。そのうちひとりは、転移の魔法でこの場に出現してから数秒しかたっていない。
「ヴァイス。君とあまり長話をすると、他の眷属たちが嫉妬をするから、短くなることを許してほしい」
その言葉とは裏腹に、唯一帝ブランの真っ赤な瞳は、まったくぶれることなく、ヴァイスの心の奥底を見通すように、その目を射抜いていた。
「わかっていますよ。陛下」
「守ってほしいことはふたつ。ひとつは、危険を感じたらすぐに逃げること。眷属の中には君を嫌う者も多いが、君が傷ついて喜ぶ者はひとりもいない」
「そりゃそうですよ。みんないい子ですもん」
皇帝を前にして、そのフランクな態度は、おそらく他の眷属が見たら卒倒するほど失礼なものだったが、皇帝は意に介さない。
「もうひとつは、善悪の彼岸との関係を維持すること。彼らと敵対することは避けてほしい」
「へ? ひとつ目は予想してましたが、ふたつ目はちょっとよくわかんないですね。前までは、私が何度もしつこく彼らを見逃してくださいって言い続けていたのに」
「私はずっと、彼らをどうこうするつもりはなかったよ。選択肢のひとつとしては、いつも考えていたけれど」
「陛下と彼らは、いったい何を企んでいるんですか?」
「私は何も企んでいない。ただ、彼らの企みが引き起こす事柄が、帝国の脅威にならないよう制御する方針で舵を取っている」
ヴァイスは頭をひねらしたが、なぜ自分の主人がそう決めたのかはわからなかった。
「もしかして唯一帝陛下、暇なんですか?」
「そうだったらよかったんだけど」
その時初めて、唯一帝ブランは笑みを浮かべた。レアだな、とヴァイスは少し内心で喜んだ。他の眷属に自慢したら、絶対に文句を言われる。
「ま、お忙しい中、ありがとうございます。意識すべきはふたつ。いのちだいじに、と、みんなとなかよく、ですね。承りました」
「うん。それじゃあ頼んだよ」
皇帝は、ヴァイスがまばたきした瞬間に、目の前から消失した。まったく、何の痕跡も残っていない。いつ見ても、意味の分からない魔力操作技術だ。
「あのおかたは、その気になればひとりで何でもできるのに、どうして私に頼みごとをするんでしょう」
そうつぶやきつつも、ヴァイスは答えを知っている。皇帝は、ヴァイスを気に入っているのだ。他の善良な眷属たちが、ヴァイスのことを嫌ってしまう理由も、そこにある。
ヴァイスをはじめとして、何人かの眷属は知っている。皇帝は、自分に対して従順でないものを愛している。扱いが難しくて、不安定で、主体的で、向こう見ずな、そんなある意味皇帝自身とは正反対の人間を、皇帝はそうでない者たちよりもより多く気にかけ、その幸福を重んじている。
「でも、時々そういう愛情が、面倒だなって思うこともあるんですよね」
おそらくその言葉は、皇帝の耳にも届いている。彼女が知らないことなどこの世にあるのだろうかと、ヴァイスはそんな極端な疑問を頭に浮かべるが、考えるだけ無駄だと諦める。少なくとも、自分自身に関する事柄は、全部知られていると思った方がいい。そのうえで、皇帝は、私をそのように動かすことを選択したのだ。
「なら、楽しまないと損ですよね!」
ヴァイスは背伸びをして、よし、と勢いをつけて立ち上がる。
「新しい友達を、作りに行きますか!」